8-2

「おいおい、さんざん人に説教垂れたくせに、まさかビビったんじゃねえだろうな? 早く飛んでみせろよ。あいつみたいに」

 ――あいつ?

 須貝の言葉が妙に引っかかった。あいつ。あいつって、誰のことだ?

 芹沢は急に怒りを顔中に漲らせ、恐ろしい顔をした。そして、忌々しげに一同を見回してから低い声で言った。

「……分かった」

 芹沢のまさかの返答に、その場にいる全員が目を丸くする。

 ――まさか、本気じゃないだろう?

 心配する僕をよそに、ゆっくりと歩き出した芹沢。その背中を、須貝が意地悪く煽り立てる。

「そうだ。飛べ! 死んじまえ!」

「須貝さん、さすがにまずいですって! あいつみたいに、本当に飛んだらどうするんですか?」

 ――また言った。あいつみたいって。いったい誰のことだ?

 僕は頭がズキズキと痛み始めた。この感じはなんだか、自分でも知っていることをど忘れしたときに似ている。頭の中に確かにあるのに、どうしてもその姿が掴めないモヤモヤ感。

 とうとう芹沢は、縁際の柵まで辿り着いてしまった。彼はためらう様子もなく、それを乗り越える。

「ハッタリじゃ済まさねえぞ。俺を馬鹿にしたんだ。きっちり落とし前つけて見せろや!」

「いい加減にしてください。須貝さん!」

 狂ったように叫び続ける須貝を、伊藤たちが全力で制止している。しかし、芹沢の耳には一切それらの声が届いていないようであった。彼の目はいつものように、どこか遠くをぼんやりと眺めている。

 再び風が吹き始めた。灰色の空から降ってきて、体の芯を貫くような冷たく鋭利な風。校庭に掲げられた日章旗がバタバタと断末魔の悲鳴をあげる。

 ――本当に飛ぶ気だ。

 一瞬ちらりと下を見た芹沢の横顔に、彼の決意を読み取った。僕は堪らず声を掛ける。

「芹沢!」

 芹沢はかすかに身を屈めたところで、ピタリと動きを止めた。そして、横目でこちらを見た。

 このまま逝かせてなるものか。僕の中で熱い感情が沸き起こる。

「芹沢。僕はずっと後悔してきた。色んな嫌なことから逃げ回っていたことを。闘いもせず、白旗を揚げ続けていたことを。だから、いつも君の強さが羨ましかった」

 芹沢は微動だにせず、無言でこちらを見つめている。

「だけど、ここで逃げたら君だって僕と同じじゃないか。最後まで闘ってよ。僕ももう逃げないから。一緒に闘うから……」

 いつの間にか涙が溢れていた。今や自分にとって、この場にいる伊藤も須貝も怖くない。怖いのは、目の前にいる大切な親友を失ってしまうことだけだ。

「……ありがとう」

 しばらく間を置いて、芹沢が絞り出すように言った。その顔はなぜか、今まで見たことないくらい安らかなものであった。

「だけど、もういいんだ。俺は君を失ってから、いつかこんな日が来ることを期待していたんだよ」

「なんだよ……なに言ってるんだよ?」

 芹沢は終始穏やかな笑みを湛えていた。その笑顔が、僕をどうしようもなく不安にさせた。

「最初に言った通り、俺の命はそんなに長くはない。だけど、たとえ他人より短くとも、人並みの人生を送れるように努力してきたつもりだった。勉強だって頑張ったし、ボランティア活動だってしてきた。でも、それは欺瞞だったんだ」

「そんなことないよ。君は立派な人間だよ」

「ううん、違う」

 芹沢は自虐的に笑い、首を左右に振った。

「俺は君を見捨てたんだ。君がクラス中から虐げられていることを知りながら、ずっと見て見ぬふりを続けてきた。どうせすぐ死んでしまう身だというのに、恐怖心から君を助けようとすら思わなかった」

「そんなの仕方ないよ。君だけじゃなく、みんなそうだったじゃないか」

「みんなのことなんか関係ない。俺は、自分が誇れる生き方をしたいんだ。たとえ短い人生でも、最期まで立派に生きたって胸を張りたいじゃないか。だけど、それは叶わなくなった」

「そんなことない。これからだってやり直せるよ」

「いいや、もう遅いんだ」

 芹沢は頑なだった。彼はゆっくりと視線を地上に移し、小さく深呼吸している。

「いったい、どうして……?」

 僕は気が気でなく、同じく柵を乗り越えながら尋ねた。

 すると芹沢は、まっすぐこちらに視線を向け、寂しそうに呟いた。

「……だって、君はもう、死んじゃったから」


 永遠とも思える一瞬が、僕と芹沢の間を駆け抜けていった。

 考える間もなく、芹沢の身体がふわりと舞い上がった。支えるもののない、空白のただ中へとその身を投げたのだ。

 僕は夢中でその後を追った。

 残酷な引力に引きずり込まれる親友の腕を掴み、凄まじいスピードで迫り来る地上を睨み付ける。その瞬間、全ての記憶が鮮烈に蘇ってきた。

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