8ー1

 もう僕には、学校に居場所なんてないのかもしれない。無我夢中で辿り着いた屋上で、ひとり考える。

 誰も気付いてくれない。僕の存在も、痛みも、苦しみも。どうして学校になんて来なくてはいけないのだろう。

 一陣の風が吹く。淀んだ曇り空から降りてきた冷気が肌を掠めていく。唯一自分が解放されるはずのこの場所も、今日は僕に優しくはなかった。

 これからは授業には出ない。一日中ずっとここにいる。そう決心したところでふいに、校舎内へ通じる扉が勢いよく開く音がした。

 誰かが自分を追ってきたのかもしれない。先生か、それとも芹沢か。期待と不安が入り交った視線を向ける。

 だが、屋内から姿を現したのはそのどちらでもなく、最悪なことに須貝であった。

 須貝は無表情のまま、こちらにまっすぐ歩み寄ってくる。かつて彼から何度も殴られた記憶が甦る。きっと、目立つことをした自分に制裁を加えにきたのだ。

 僕は咄嗟に立ち上がり、そのままゆっくりと後ずさる。迫り来る恐怖に手足が痺れ、胸が悲鳴を上げる。

 一歩ずつ近付いてくる目の前の男はまさに、角を生やした悪魔であった。

「須貝さーん」

 ふと、扉の向こうから伊藤の声がした。それと同時に、こちらに向かう複数の足音が聞こえてくる。

 どうやら仲間も呼んでいたらしい。僕は絶望的な気持ちで唯一の出入り口を見つめる。しかし、そこに現れたのは意外な存在であった。

「おら、早く歩け」

 伊藤のやや甲高い声に急かされるように歩み出てきた者は、なんと芹沢であった。

 彼は伊藤から背中を小突かれ、少しずつ前へと進み出る。その両脇を須貝の舎弟ふたりががっちりと固めている。

「来たか。おせーぞ」

 こちらを睨んでいた須貝が振り返り、伊藤たちを怒鳴りつけた。

 「すいません」などと頭を下げる彼らを無視するように、ツカツカと芹沢に歩み寄る。

「オラ!」

 目の前に辿り着くや、須貝はいきなり芹沢の腹を殴りつけた。彼は低く唸り、その場にうずくまる。

 僕はいったい何が起こっているのか理解できず、ただ呆然と立ち尽くす。

「俺は今日、腹立ってんだよ。昨晩はお袋が家に男なんか連れ込みやがってよ……」

 言いながら、うずくまったままの芹沢を蹴り倒す。

「いい歳したババアが発情してんじゃねえぞ、コラ!」

 何度も蹴りを入れ続ける須貝の意識はもはや、ここには無かった。彼の目は母親だけを見て、声は母親だけに向けられていた。その姿はまるで、親の愛情を求めて泣き叫ぶ駄々っ子そのものであった。

 芹沢は無言でされるがままとなっている。顔を蹴られた拍子に鼻血が飛び散り、側にいた伊藤の顔にかかった。

「須貝さん……。も、もういいんじゃないっすか?」

「ああ?」

 頬に付いた血を拭いながら、伊藤がおずおずと申し出た。そんな彼を、須貝が血走った目で睨み付ける。

「なに寝言ほざいてんだ、コラ! こいつを庇うってんなら、お前をバラすぞ?」

 須貝は伊藤の胸ぐらを掴み、不愉快そうに押し飛ばした。伊藤は後ろに倒れ、尻餅をつく。

「ちっ、どいつもこいつも、うぜえ奴ばっかりだ! ああ、ムカつく」

 須貝が顔を真っ赤にして大声を張り上げる。もはや彼に理性的な動機など無いように思えた。ただ単に暴れたいだけなのだ。

 そんなボスを前にして、さすがに舎弟たちも顔を引きつらせている。伊藤にいたってはしゃがみ込んだまま、暗い表情で唇を噛んでいた。

「なんだ、こら? なんか文句でもあんのかよ?」

 須貝は言いながら、舎弟のひとりの頬を張った。一瞬ムッとした表情を浮かべた彼に対し、今度はみぞおちに一発。

「どいつもこいつもムカつくんだよ。みんなして俺のことをクズ扱いしやがって!」

 すでに錯乱状態に近い須貝が、今度は恐怖に慄く伊藤の襟首に手を掛ける。すると、先ほどまでうずくまっていた芹沢がおもむろに起き上がった。

「――そうやって……」

「なに?」

 須貝が伊藤を捕まえたまま振り返る。

「そうやって、今まで自分の不幸全て他人に転嫁することで、君は生きてきたんだね」

「なんだと……?」

 芹沢の言葉に須貝が唇を震わせる。

「どんなに虚勢を張ったところで、君が自分の不幸すら受け入れられない、ただの弱虫であることに変わりはない。僕は長く生きられない自分の運命を受け入れ、あるがままに生きている。君とは違うんだ」

「――てめえっ!」

 激昂した須貝が芹沢に向かおうとするのを、伊藤が必死に抑える。

「須貝さん、もうやめましょう」

「それ以上やったら本当に死んじゃいます」

 そこに舎弟ふたりも加勢し、須貝を必死に宥める。さすがに警察沙汰になることを恐れているらしい。

 仲間たちの予期せぬ反抗にしばし面食らっていた須貝は、やがて冷静さを取り戻し、体面を繕うように軽く咳払いした。

「そうか……。俺が弱いから、他人に暴力を振るうって言うんだな。だったらお前、自分の強さを証明してみせろよ」

 須貝の表情は遠目から見ても、明らかに狼狽していた。視線は忙しなく彷徨い、口元には不自然な笑みを湛えている。

「お前、ここから飛び降りてみせろよ。どうせすぐ死んじまうんだろ? だったらここで、俺に本当の強さってもんを見せてくれや」

「須貝さん、さすがにそれは――」

 言いかけた伊藤の頬を、須貝が振り向きざまに殴りつける。

「うるせえっ! これ以上口答えすると、代わりにお前に飛んでもらうぞ」

 芹沢は黙ったまま須貝を見つめている。

 いったい何を考えているのだろう。胸中に不穏な予感が広がっていく。

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