7
すっかり通い慣れた屋上。
初めこそ禁断の扉を開けることに後ろめたさを感じていたが、今は少しも気にならない。それどころかここは、自分に残された最後の聖域(サンクチュアリ)となっていた。
今の僕はビル火災に遭い、屋上へと逃れた避難民に似ている。執拗な業火と噴煙に巻かれ、逃げ場のない空との境界へと追い立てられた哀れな存在。
これより先はない。終着点だ。もしもここにすらいられなくなったら、自分は邪悪な炎が身を焼き尽くすのを待つしかないだろう。
そんな大切な場所に僕を導いてくれた芹沢は最近、ここに姿を見せなくなった。休み時間になると、まるで僕から逃れるようにそそくさと姿を消してしまうのだ。
抜けるような青空の下、心地良い微風に吹かれていてもかつてのように心安らぐことはない。理由ははっきりしていた。隣に芹沢がいないからだ。
彼がいないことによる寂しさは日が経つにつれ、北の大地に降り積もった残雪のように重く、心の荒野に広がっていく。
ひとりになって改めて思う。自分は貝だったのだ。獰猛な外敵からの攻撃を恐れ、海の底で殻に閉じこもっているちっぽけな貝。
何も考えずにただ流されるだけの存在。美しい海の景色を見ようともせず、イルカたちの歌声を聴こうともしなかった。
身の安全が保たれていればそれでよかった。仲間なんていなくても、誰からも愛されなくてもいい。そう思っていたはずだった。それなのになぜ、今の自分はこんなにも辛いのだろう。哀しいのだろう。
僕は塞ぎ込んだ気持ちを紛らせようと、肩ほどの高さがある転落防止用の柵へと歩み寄り、身を乗り出して地上を覗き込んだ。その瞬間、かつて感じたことないような悪寒が全身を走った。
「うわああっ!」
思わず叫び声をあげ、後ずさって地面に尻餅をつく。
なんだったのだ、今のは。荒い息を吐きながら、必死に気を鎮める。
自分は高所恐怖症ではなかったはずだ。小学生の頃はジャングルジムのてっぺんに立ち、地上を見下ろすのが好きだった。それなのに今は、安全な柵の内側でも足が竦む。
そこでふと、脳裏にひとつのイメージが過る。
それは心のピントが合う前に影を失くし、形を成すことはなかった。ただ、なんだか恐ろしくて暗いものが迫りくるような感覚。
視線の先に映る格子状の白い鉄柵。経年によって所どころ塗装が剥がれ、剥き出しとなった部分に赤錆が生じている。
まるで白い肌に浮き上がった疱瘡のようなまだら模様には、どこか見覚えがあった。そういえば芹沢に連れられて来る前にも、自分はこの柵を見たことがあるような気がする。でも、それはいつのことだったろうか。
僕は呼吸を整えながら、初めてこの場所に来たときに嫌な感じがしたことを思い出した。あのときの不穏な予感はもしかしたら、罠に対する警戒心によるものではなかったのかもしれない。
翌朝、いつものように教室に入ると、自分の机が無かった。
いつも菊の花が置かれていた僕の机があった場所は不自然なスペースとなっており、黒ずんだフローリングの床が丸見えとなっていた。
隣の席の未だに名前も知らない女子は、平然とした様子で参考書を読んでいる。後ろの席の高木という男子も、目の前が急に開けたことにさして不審を抱く様子もない。
とうとうここまできたか。背筋に空寒いものが走る。
昨日まで自分の席だった場所に所在なく佇んでいることが、異常に恥ずかしかった。誰も僕を見ようともしない。助けてもくれない。
みんな内心、僕が困っている様を見て嘲っているのだ。どうしてそこまでするのだろう。嫌がらせにしては性質が悪すぎるではないか。
ふと芹沢を見ると、彼は机上に広げた教科書に目を落としたまま、意識だけこちらに向けているようだった。目元に痣が残るその横顔は、どこか強張って見えた。
誰かにこの異常事態の理由について聞くこともできず、ただ時だけが過ぎていく。周りはこちらに一切関心を払う様子もなく、いつものように頭の悪そうな嬌声が教室内にこだましている。
教室ってなんだろう。学校ってなんだろう。人間ってなんだろう。
僕は世界から取り残されたかのような心細さを抱いたまま、ひたすら無言で立ち尽くす。
間もなく朝のホームルームの開始を告げるチャイムの音が鳴り、立派な図体の割に陰湿で矮小な担任教師がやって来た。僕はかすかな期待を込めて、彼に視線を送る。
トレードマークの青ジャージを着こなした先生は、威厳を見せつけるように簡単な挨拶をし、いつものように出欠を取り始めた。教室のほぼ真ん中で立ち竦む僕に、一瞥をくれることもなく。
「相庭」
「はい」
「伊藤」
「はい」
「木下」
「はい」
合いの手のようにテンポよく出欠確認がなされていく。僕の存在は置き去りにされたまま。
「ど……して……」
悔しさと虚しさとやるせなさが込み上げてくる。
この学校に通い始めて、いや、今まで生きてきてこれほどの屈辱を味わったことはない。
「篠田」
「……篠田は休みか」
「須貝」
「はい」
僕は、当たり前のように僕の名前を飛ばす先生に訴えた。
「どうして……無視するんですか……?」
周りに反応する者なんていない。僕の存在を黙殺することに、もはや誰も不審を抱かない。かすかに芹沢だけが伏し目がちにこちらを窺っていた。
担任は構わず出欠を取り続ける。存在価値のある者だけに市民権を付与するように、出欠を取り続ける。
「どうして、無視するんですか!」
僕は堪えきれず、絶叫した。
長年張り上げたことない僕の声はリミッターを超え、教室の窓ガラスを激しく揺らした。教卓の上に置かれた花瓶が床に落ち、粉々に砕け散る。
僕は自分の行動に驚いた。今まで胸の奥で燻り続けていた鬱憤が、この瞬間に爆発したようだった。
爽快感と後悔が同時に押し寄せてくる。先生は唖然とした様子で口をパクパクさせている。
どうしよう。静まり返った教室の空気にいたたまれなくなり、無意識のうちに駆け出していた。
そのまま教室を飛び出し、誰もいない廊下をひた走る。
どうしよう、どうしよう。目からは止めどなく涙が溢れてくる。自分はなんてことをしてしまったのだろう。
咄嗟の出来事に周りの反応を確認する暇はなかったが、きっと生意気だと思ったに違いない。再び暴力で虐げられる日々が始まるのだ。
「もう嫌だ、もう嫌だ、もう嫌だ、もう嫌だ……」
僕は走りながら叫び続けた。気が触れてしまえたら、どんなに楽だろうと思った。
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