6-3

 しばらくすると、地面を擦る靴音や肉を打つ拳の音に交じり、天から低い唸り声のようなものが聞こえ始めた。

 野生の虎が敵を威嚇しているような、狂暴で冷徹な響き。うっすら目を開けて空を見上げると、厚い雲の塊のそこかしこで閃光が走っていた。

 ――嵐が来る。

 そう思った矢先、激しい雷鳴を轟かせて近くに稲妻が落ちた。それを合図とし、たちまち辺り一面バケツをひっくり返したような大雨となった。

 校庭にいた生徒たちが悲鳴をあげ、半ばパニック状態で駆け出す声がこちらにまで聞こえてくる。

「やべえ、雨だ」

「ちっ、続きはまた今度だな」

 須貝たちは慌てた様子で校舎内に引き上げていった。

 猛烈な豪雨のためか、幸い自分は気付かれずに済んだらしい。恐る恐る前方に目を向けると、芹沢だけが雨に打たれるまま地面にうずくまっていた。よれよれとなったずぶ濡れの学生服が痛々しい。

「だ、大丈夫?」

 急いで駆け寄ろうとした僕を、芹沢が片手を挙げて制止する。

「平気だよ。これくらい」

 言葉とは裏腹に、ぎこちなく立ち上がった芹沢の表情は苦悶に歪み、口元には血が滲んでいた。その姿に、かつて自分が裏切った伊藤のシルエットが重なる。

「ねえ、なんで逃げなかったの?」

 僕は立ち去ろうとする芹沢の前に立ちはだかって詰問した。

 相手は大勢いて、しかも先生たちでさえ手を焼く不良グループである。初めから勝ち目なんてなかったはずだ。たしかに物陰に隠れていた自分は卑怯だったかもしれないが、わざわざ挑発して立ち向かうのは蛮勇に過ぎない。

 芹沢は少し意外そうにこちらを見つめている。空からは冷たい雨が降りしきり、地面から立ち上る靄が僕たちを世界から包み隠す。

 長い沈黙の後、芹沢がぼそりと呟いた。嘲るでも罵るでもなく、さながら求道者が苦行の中で自らに問い掛けるように。

「君は、どうして逃げたの?」

「え?」

 芹沢は寂しげな、哀しげな、でも慈しむような眼差しをこちらに向けている。

 責められていないことは彼の目を見れば分かる。でも、その言葉の意図が掴めない。

「どうして……?」

 考えている間に、芹沢は僕の脇をスッと通り抜けて校舎内へと戻ってしまった。

 ひとり取り残された僕は、後を追うこともできずその場で立ち尽くす。

 雨はいよいよ激しさを増し、狂ったように地面に打ち付けている。まるで天が、自分の蒙昧さを全世界に向けて糾弾しているようであった。


 その日から、スケープゴートの役目は僕から芹沢へと移っていった。

 昼休みや放課後、須貝たちは気が向いたときに芹沢を捕まえ、様々な暴力を振るった。だが彼は決してやり返そうとはせず、どこか他人事のようにされるがままとなっていた。

 初めこそ彼を信奉していた一部の女子たちが反発していたが、須貝たちの様々な脅迫に屈し、ひとり、またひとりと体制派に転向していった。

 僕は芹沢が殴られたり制服をはぎ取られたりする場面に遭遇するたび、石像のように固くなって身を縮めていた。僕のような非力でなんの取り柄もない人間が、彼のように全てを備えた人間を救うなんて土台無理な話である。

 ――お前って、偽善者だよな。

 ――どうして逃げたの?

 ふたりの親友から投げ掛けられた言葉が四六時中、鋭い爪を立てて胸中を搔きむしる。それは自分がいじめられていたときよりも、遥かに深く心を苛んだ。

 所詮、世界のあらゆる負の情念は被害者が背負う運命なのだ。苦痛も、憎悪も、悲哀も、同情も、絶望も。

 加害者がふんぞり返って歩く道を、いつだって僕らは小さくなって歩く。加害者が称賛されて勲章を授与される傍らで、被害者は彼らの排泄物の後処理をする。

 世の中は平等ではない。そんなこと、今どき小学生でも知っている。誰かが理由もなく虐げられ、迫害されるのも仕方ないこと。だけどその対象が、最も愛すべき存在だとしたら……?

 僕は嬉々として自由に翼を広げることはできないだろう。僕に優しく手を差し伸べて、一瞬でも孤独を忘れさせてくれた人を見捨ててまでは。

 芹沢を助けたい。いつしか僕の中には、そんな想いが渦巻くようになった。それは自分にとって初めて、誰かのために行動したいという願望であった。

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