英語の授業中、先生から指名された伊藤が緊張した面持ちで教科書の英文を読み上げる。彼の指先は小刻みに震え、声も上ずっていた。

「ナイス・トゥ・ミーチュー、ケン・カトー。ナイス・トゥ・ミーチュー・トゥー」

 たどたどしい片言の英語が教室内に反響する。毎度のことながら、この奇妙な空気には慣れそうにない。果たしてアメリカ人がこの光景を目にしたらどう思うだろう。

 きっとここは、外国人に見せてはいけない日本の恥部なのだ。だからこそ皆が顔を赤くして終始俯き、憂鬱そうに授業を受けているに違いない。

 生徒は本能で分かっているのだ。大人たちが必死に強いるものが、実は大して重要でない茶番に過ぎないことを。

「よし、伊藤。例文の『あなたは英語を話せますか?』を英語で言ってみろ」

「はい。えっと……ドゥー・ユー・スピーク・イングリッシュ?」

「おいおい、それじゃあ『あなたは英語を話しますか?』だろう?」

 黒縁眼鏡を掛けた中年の男性教諭は、眉をハの字にして欧米人のように大袈裟に両手を広げてみせた。

 伊藤は項垂れたまま、彼の顔を見ることさえできない。

「キャン・ユー・スピーク・イングリッシュ? キャンは、なになにできる。可能を表す助詞だ。間違わんようにな」

 たしかこの場合、文意からしたら「ドゥー」でも構わないと何かの本に書いてあった気もするが、わざわざ指摘なんてしない。白いものでも先生が黒と言えば黒となる。それが学校組織というものだ。

「じゃあ次のページを……芹沢。読んでみろ」

「はい」

 次に指名された芹沢が立ち上がり、滔々と流れるように英文を読み上げていく。

 例えて言うなら小鳥の囀りのように、あるいは小川のせせらぎのように、彼の声は世界と完璧な調和を保っていた。

 教室の所々で女子の感嘆のため息が漏れる。

 たしか芹沢は小学生の頃までアメリカで暮らしていた帰国子女だという。何から何まで出来過ぎており、軽く嫉妬すら覚える。

「うむ……。まあ、いいだろう」

 先生は心なしか、苦々しげに頷いた。

 頭の中で必死に粗を探しているようだったが、彼の英語の知識では返り討ちに遭うことを知っているのだ。帰国子女の鼻っ柱を折ろうと投げかけた質問に、全て完璧に答えられた過去がよほど応えているらしい。

 ちょうどそこで終業を告げるチャイムが鳴った。

 先生は予習復習を促すお決まりの文句を残し、そそくさと教室を後にした。それを見計らっていたかのように、数名の女子が互いに目配せして立ち上がる。その動きが目に留まった僕は、なぜか胸が悪くなった。

 女子たちは教科書を片付けていた芹沢の席に向かい、彼を取り囲んだ。

「芹沢君って、英語得意なんだねえ」

 ひとりの女子が甘ったるい口調で話し掛ける。

 芹沢はぼんやりとした視線を返し、かすかに首を傾げた。

「別に。昔、アメリカに住んでいただけだよ」

「アメリカに住んでたんだあ! すごおい」

 女子たちは、クラス中の誰もが知っていることをわざとらしく驚いてみせた。その態度は明らかに媚びを売っていた。

「ねえ、アメリカのどこに住んでたの?」

「サンフランシスコだよ」

「素敵。ひょっとして芹沢君の家ってお金持ちなの?」

「普通だよ。ごめん、トイレ」

 芹沢は素っ気なく答えると、まだ色々聞きたげな女子たちを尻目に教室を出て行った。彼女たちは熱のこもった視線でそれを見送ってから、興奮した面持ちで何やら囁き合っている。

 まるでドラマに出てくる美少年そのものであった。カッコよくて、頭が良くて、そのうえ裕福。これだけのポイントが揃っていたら、世の女は放っておかないだろう。

 でも、いつだって芹沢は他人に興味なさそうであった。

 いつもひとり孤立していて、誰とも自分から話そうとしない。彼が望めばたいていの女子と付き合うことができそうなのに、彼女がいる気配もない。どうしてこんな僕とばかり話してくれるのだろうか。

 僕が同じく孤立しているからだろうか。いや、それはない。芹沢は自ら孤立しているだけで、除け者にされているだけの自分とは違う。では、なんだろう。ひょっとして彼は同性愛者なのだろうか。

 僕は周りに気付かれぬように小さくため息を吐く。

 芹沢が同性愛者だったらどうしよう。別にそれで彼のことを嫌いになることなんてないが、もし自分を恋愛対象として見ていたら……。

 嬉しいような辛いような、なんとも複雑な感情が込み上げてくる。

 女子から愛されたことなんてない、いたって平凡な容姿である自分が、女も嫉妬するほどの美少年から愛されることなんて。そんなことはありえない。でも、もしそうなら、僕は彼のことをどう見ればいい?

 思い上がりのような苦悩に結論を出すことは容易ではない。結局、次の授業の開始を告げるチャイムの音によって思考は中断された。

 いったい芹沢は何を想っているのだろう。そっと横顔を窺ってみるが、彼はいつもと変わらぬぼんやりとした視線を前に向けているだけであった。

 その眼は遠く、ここではないどこかを見つめているのかもしれない。


 人間関係ってなんだろう。時々、そんなことを考える。

 僕はもう、長いこと友達がいない。ましてや恋人なんて望むべくもない。

 周囲との関係性なんて、殴られるか詰られるかでしかなかった。それすら少し前までのこと。

 今はただ、誰とも関わらない、平穏だけど冷たく寂しい日々を送っている。まさに暗黒の世界に己が身を浸しているのだ。

 芹沢はどうだろう。友達と呼んでいいのだろうか。彼が僕のことをどう思っているのか分からないが、少なくとも僕にとっては大切な存在である。暗黒の世界を照らす、一筋の光明と言っても過言ではない。

 芹沢ともっと仲良くなりたい。彼が同性愛者だというなら、それでも構わない。自分もできる限り、彼の世界を理解しようと思う。もう独りは嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ。

 こんなにも自分が弱い人間だとは思わなかった。孤独を愛し、孤立を望んでいるはずだった。なのに、今はすごく悔しい。芹沢が他の人間と話している様を見るだけで、胸が張り裂けそうになる。嫉妬しているのだ。

 芹沢を独占したい。こう思うことは異常なことだろうか。でも、それが偽らざる自分の本心。彼だけが僕を孤独から解放してくれるのだから、心惹かれるのは当然ではないか。

 僕はそっと目を閉じ、芹沢を想いながら眠りにつく。きっと今夜も彼の夢を見られそうな気がした。

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