伊藤は須貝たちにリンチされて以来、ずっと僕を憎んでいた。だからきっと、トイレで須貝に殴られている僕を目撃したとき、彼は狂喜したに違いない。

 裏切ったのは僕だとしても、暴力を振るったのも、そもそも弟を恐喝したのも全て須貝である。それなのに、伊藤は全ての憎しみを僕のみに向けた。あろうことか、仇敵であるはずの須貝と手を組んで。

 なまじ仲良かったからこそ、敵対したときの執念は凄まじいものがあった。伊藤からしたら、飼い犬に手を噛まれた心境だったのだろう。


 ★


 休み時間の教室で行われる恒例行事。級友たちからの面罵と凌辱の宴。

 教室から先生が姿を消すと同時に繰り広げられるこの不毛な儀式は、個々の背徳感を紛らわせ、歪んだ連帯感を築きあげるに充分であった。

 僕を取り囲む連中は皆が引きつった笑みを浮かべ、どこか不安げな眼差しをしていた。きっと明日は我が身と誰もが心の中に不安を抱え、できるだけその『明日』を先延ばしにするため僕を虐げるのだ。

「おい、ポチ。お前、犬なんだからワンって吠えてみろよ」

「嫌だよ」

「ふざけんな。飼い犬のくせに、ご主人様に逆らうのかよ、コラ」

 須貝が口汚く罵りながら、背中に蹴りを入れてくる。

 僕は体勢を崩し、床に派手に転倒する。

「だっさ。ジジイかよ、てめえは」

 須貝の言葉にクラス中がドッと沸く。

「おじいちゃん、足腰大丈夫ぅ?」

 先ほどから須貝を囃し立てている歯並びの悪い女が意地汚く笑う。こんなブスにまで、どうして笑われる?

「おい、立てよ」

 言いながら、須貝の舎弟である坊主頭の男が僕の襟首を掴む。こんな金魚のフンに、どうして蔑まれる?

 自分が惨めになり、抵抗する気力も失せていく。どうでもいい。早く終わってほしい。

「おい、ポチ。申し訳ありません、ご主人様、は?」

 伊藤が顔を覗き込みながら下卑た笑みを浮かべる。

 僕をポチと名付けたのは彼であった。理由は、犬のように節操がなくて、チビで、間抜けだからだそうだ。

「もうし! わけ! あり! ません! は?」

 須貝が耳元で怒鳴る。堪らず顔を背けると、耳たぶを思い切り引っ張られた。

 キーンと耳鳴りがする。

「早く言えよ。先生来ちまうだろうが」

 痺れを切らした須貝が、腹に膝蹴りを入れてくる。

 もはや自分はされるがままの人形であった。このまま手足をもがれたとしても、誰も何も感じないのだろう。

「……申し訳ありません……。ご主人様」

 疲れ果てて小さく呟くと、途端に周囲が爆笑に包まれた。

「本当に言いやがった。馬鹿だ、こいつ」

「マジでウケるんだけど」

「ひ、ひひ……。腹いてぇ」

 この場所にまともな人間なんていなかった。いや、恐らく社会全体が狂っているのだ。狂った人間がスタンダードとなった世界では、正しい人間が異常となる。

 僕はただ虚しかった。被虐に塗れた日々の中で、この世界に何を期待しろというのだろう。集団と交ることは安寧と相反し、幸福を追求すれば苛烈な攻撃に晒される。

 何も思わず、抗わず、ただなされるままにあること。それのみが唯一の道であった。

 そうして時を無為に過ごすうちに、いつしか僕の存在は誰からも忘れられてしまったのである。


 ☆


「孤独って悪いことじゃない。そう思わない?」

 昼休み。僕はいつもの屋上で、隣に座る芹沢に尋ねた。彼の隣にいることに、もはや違和感はなくなっていた。

「確かに、その通りだよ」

 芹沢はつまらなそうに、前を向いたまま小さく頷いた。

「ひとりでいれば誰からも暴力を振るわれない。無視されていることだって、裏を返せば身の安全が保障されているんだもん」

 僕は独り言のように呟く。あるいは、自分自身に向けた言葉だったかもしれない。

「じゃあ、どうして君はここにいるの?」

 しばらく間を置いて、芹沢がボソリと言った。

 相変わらず顔は前を向いたままである。

「ここにいたら迷惑なの?」

「そうじゃないけど、君は孤独が好きなんだろう?」

「好きってわけじゃ……」

 言いながら答えに窮してしまった。確かに最近では、芹沢に会うためにわざわざ屋上まで足繫く通っている自分がいた。正直、彼と話すのが楽しみになっていたのだ。

「結局、人なんて自分のことすらよく分からない生き物なんだよな。どうして生きているのかとか、どうして死ぬのかとか」

「そうだね」

 芹沢は終始遠い目をしていた。その眼差しは転落防止用の柵を越え、遥か地平の彼方に向けられているようであった。

「俺は時々、この地上から消えてしまえたらいいと思うんだ。いつ来るか分からない死を待つよりは、自ら死を選べるほうが人間的で素敵だろう?」

「そうなのかな」

 僕は答えられず、芹沢の口元ばかり見つめていた。少女のように赤みの差した唇が、かすかに震えている。

「でもね、君を前にすると、やっぱりそれは違うのかなとも思える。気付いたら俺は、こうして君と話すことが楽しみになっていたんだ」

「えっ」

 思いがけない告白に頭が真っ白になった。

 この学校に入って、初めて他人から好意を示されたのだ。しかも、自分と同じ気持ちでいてくれた。その喜びはとても言葉では言い表せない。

「本当に? ありがとう、嬉しいよ……!」

 思わず抱き着きたくなる衝動をどうにか堪え、心からの感謝を示す。こんなに人のことを好きになるのは生まれて初めてかもしれない。

「お礼を言われるほどのことじゃないよ。こっちこそありがとう」

 そう言って、芹沢は初めてこちらに目を向けて微笑んでくれた。憎らしいくらい爽やかな笑顔が、一枚の絵画のように網膜に焼き付く。

 信じていたものに裏切られた憎しみは計り知れないが、同様に予期せず与えられた善意は激しく胸を打つものらしい。

 僕は芹沢のことが人間として好きであった。

 彼がいる限り、この辛い学校生活を続けることができるような気がした。

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