昼休み。息が詰まる教室を抜け出して屋上へ行くと、そこにはすでに芹沢が来ていた。彼は床に寝そべり、ぼんやりと空を眺めている。

 先日のこともあるのでドアの前で躊躇していると、芹沢はおもむろに上体を起こしてこちらを振り返った。

「こっち来れば?」

 今日の穏やかな陽気によく似合う、爽やかな笑顔であった。見ていると吸い込まれそうな、心を落ち着かせる瞳。

 僕は母に呼ばれた幼子のように、無心で歩み出す。

「いつもここにいるんだね?」

「まあね」

「どうして?」

 芹沢の隣に腰掛けながら、以前から気になっていたことを尋ねた。

 最近それとなく観察するようになって分かったのだが、彼は自分と違って周囲からの評判が良い。爽やかなルックスと落ち着いた物腰、そのうえ頭も良いので、特に女子からは相当な人気があるようだった。

 どうしてそんな人気者が、よりによって孤独を愛するのか理解できなかった。僕などは周囲から締め出されているに過ぎないが、彼なら集団の輪の中心にいることもできるだろうに。

「ここって不思議な場所だと思わないか? 学校で一番空に近いはずなのに、ここにいると却って空の遠さを痛感してしまう」

 ふいに芹沢が遠い目をして言った。僕は意味が分からず、ただ彼の横顔を見つめる。

「人間って、もっと自由なものだと思うんだ。好きな時に起きて、好きな時に食べて、好きな服を着て、好きな時に寝る。それが本来の人間のあるべき姿だろう?」

「まあ、原始時代とかはそうだったんだろうね」

 なんだか哲学的な議論に発展しそうだったので、僕は曖昧に頷いてみせた。学年でも一、二を争う秀才との弁論に応じたら、自分の無知をひけらかすだけである。

 芹沢はこちらの意見には特に関心なさげに話を続けた。

「ところが学校という場所は、人間という存在を一から別のものに作り替えてしまうんだ」

「何に?」

「明確に定義付けられた名称はない。ただ、俺は『社会人』という言葉が最も近いと思う。人間と社会人は似て非なるもの。人間は自分のために生きる存在。社会人は社会のために生きる存在」

「でも、それって悪いことなの?」

 いよいよ難しい話になってきたので、僕は堪らず口を挟んだ。

 人は社会のために生きようとするから犯罪も抑制され、秩序が保たれるのではないか。皆が自分のために生きていたら、社会が崩壊してしまう。

「悪いことだと思わないの? 少なくとも君は、そう思う資格があると思うけど」

「どういうこと?」

 雲を掴むようなやり取りに、だんだん腹が立ってきた。分かる人には分かると言いたげな口調が、なんだか見下されているように感じる。

「君は現代の社会制度の犠牲者なんだよ。社会で優先されるのは万人の安寧ではなく、秩序の維持。そして社会秩序を守るためには必ず犠牲が必要なんだ。誰かが儲けるとき、その裏で損する者がいるように。君は学校全体の不満を一身に浴びせられた、哀れな生贄」

 芹沢は更に続けた。

「例えば十人の囚人が閉じ込められた檻の中で、全員が一週間分の食料を支給されていたとする。ところが、ひとりの食料だけ腐っていて食べられなかった。食料はどんな事情があっても週一回しか支給されない。こんなとき、君ならどうすればいいと思う?」

「そんなの、全員が少しずつ分け合えばいいじゃないか」

 僕の回答に、芹沢は冷たく微笑む。

「理想ではそう考える。でも、自分は何も悪くないのに、どうして他人のために自分の食料を分けなくてはならないんだ、と考える人もいるだろう。それだって間違いじゃない。社会ってそういうものなんだよ」

「つまり……?」

 だんだん話の意図が読めてきて、胸の奥が苦しくなってきた。

「つまり、社会においては全体の利益が優先されるということさ。全ての人が少しずつ空腹を分かち合うよりは、たったひとりが餓死すればいい。それが社会人の考える合理的な思考。もちろん、実際には相当オブラートに包まれて真意はひた隠しにされるけどね」

 僕はそれ以上言葉を返せず、膝を抱えてうずくまった。太陽が雲に隠れ、辺りから急激に日が遠のいていく。

 要するに僕は、ただ奪われるだけの存在に過ぎないのだ。自由も誇りも平穏な生活でさえも。社会の秩序を保つために、たまたま選ばれたスケープゴート。

 ふいに芹沢は立ち上がり、こちらに向かって言った。

「俺は長くは生きられない。だったらせめて、誰にも従わずに生きてやるって決めてるんだ。学校教育や社会学習なんてクソくらえ。この場所に来ているのは、その決心を忘れないようにするためなんだよ」

 僕が呆気に取られたまま見上げていると、急に芹沢は悲しげな表情を浮かべた。

「でも……やっぱりこの場所は辛い。嫌な出来事を思い出してしまうから」

「嫌な出来事?」

 すぐに聞き返すが、芹沢はすでにこちらに背を向けて歩き出していた。

「もう戻ろう。もうすぐ五時間目の授業が始まっちゃうぜ?」

 振り向きもせずスタスタ歩を進める彼の後ろ姿が、心なしか疲れ切っているように見えて引き留めるのは憚られた。

 仕方なく僕は後を追いながら、周囲に視線を巡らして嫌な出来事とやらの痕跡を探す。たしか芹沢に呼ばれるまではここに来たことなどないはずだが、妙な既視感があるような、無いような……。

 そういえば、以前ここで――。

 脳裏に何かが想起されかけた瞬間、記憶の糸は扉が閉じられる重たい音と共にプツリと切れた。

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