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「お前って、偽善者だよな」
人気のない小学校の校舎裏。伊藤は溢れ出る鼻血を抑えつつ、黄色みがかった空を仰ぎながら呟いた。彼の泥まみれの体操着と腫れあがった顔を直視することができず、僕は黙って地面を睨む。
「どうせお前だろ? あいつらに俺のことチクったの」
「それは……」
胸を抉るような親友からの辛辣な追及は、僕から反論する気力を喪失させた。
実際、言い訳などできるはずもなかった。全身に擦り傷とアザをこしらえた彼を前にして。
僕は確かにこの瞬間、目に見えない何かが壊れる音を聞いた。それは自分が善人であるという自負であったかもしれない。あるいは伊藤との友情か。それとも人生に対する漠然とした期待か。
いずれにせよ、自分の中でかけがえのないものが欠落したのは確かである。
須貝たちへの復讐を言い出したのは伊藤であった。
須貝は小学生の頃から不良仲間たちと一緒になって、しばしば他の生徒に暴力や恐喝を繰り返す問題児であった。
同じ学校に通う同級生ながら、彼は小学生とは思えないほどの体躯と狂暴性を兼ね備えている。僕らはいつも、その暴力の矛先が自分に向かないことだけを願っていた。
幸い僕と伊藤は須貝らのターゲットにされることはなかったのだが、ある日、ゲームセンターで遊んでいた伊藤の弟が彼らに襲われたらしい。まだ小学三年生の彼は顔を殴られ、持っていたお小遣いも全て奪われてしまったそうだ。
弟想いの伊藤はすぐさま復讐を決意し、僕にそのことを打ち明けてくれた。正直、勝ち目はないように思えたので必死に引き留めた。伊藤はお世辞にも喧嘩が強そうには見えなかったし、体育の授業では僕と毎回ビリを争うような愚図である。
ところが、彼は不敵に笑ってこう言った。
「なにも、直接殴り合って決着を付けるわけじゃない。分からないようにこっそりやればいいんだよ」
要するに、遠回しな嫌がらせによって精神的ダメージを与える作戦らしい。
とても勇敢とは言えないが、後々の報復の脅威を考えたら賢明なやり方かもしれない。僕は半ば呆れながらも、その提案に毅然と反対することはできなかった。
伊藤と僕は放課後になると図書室で時間を潰し、校舎内に残る生徒がまばらになったのを見計らって生徒用玄関に赴いた。
そこで誰もいないことを確認し、すでに家路に着いた須貝の下駄箱から踵の潰れた上履きを手に取る伊藤。彼はそのまま躊躇う様子もなく、持参した画鋲を中に仕込んでしまった。針を上向きにして、セロハンテープで張り付ける念の入れようで。
「これでよし」
僕は少し離れた場所から、満足そうにこちらに親指を立てる伊藤をハラハラしながら見守る。本当はこんな現場を目撃したくはなかったのだが、彼からどうしても付いてきてほしいと懇願されたのだ。
見ているだけとはいえ、これは共犯と疑われても仕方ない。画鋲を踏みつけて怒り狂う須貝を想像すると、気分が暗くなる。
「大丈夫、大丈夫。バレやしないって。大怪我するわけじゃないし、天罰だと思って気持ちを入れ替えてくれるさ」
伊藤は心配になるくらい楽天家であった。僕は気が気でなく、やけにのんびりとした彼を急かすようにその場を後にした。
それがまずかったのかもしれない。
翌日の体育の授業終わり。僕は須貝から呼び出された。
どうして僕が、と不安を抱いたが、もちろん応じないわけにはいかない。幸い須貝の表情は普段と変わらず、特に激昂している様子はなかった。
仕方なく、言われるまま体育倉庫へと付いていく。
「お前か? 俺の上履きに画鋲入れたの」
倉庫の扉を閉めた途端、いきなり表情を変えた須貝がこちらの胸倉を掴みながら言った。
彼の目は血走り、今にも殴り掛かってきそうな勢いである。
「ち、ちがっ、違うよ」
恐怖のあまり、僕は震え声で必死に否定する。
「じゃあ、誰だよ? 昨日の放課後、玄関から慌てて出てくるお前を俺のダチが見てるんだよ。下手な言い逃れしたら、マジでやっちまうぞ、コラ」
言いながら、須貝が一発、みぞおちに拳を入れる。
脅しのため本気でやっていないことは分かったが、恐怖のせいで精神的に応えた。彼と喧嘩して七針縫ったという他校の生徒の噂が、ふいに脳裏をよぎる。
「ぼ、僕じゃないっ。僕は見ていただけなんだ。伊藤なんだ。伊藤が全部やったことなんだよ」
僕は半べそをかきながら、ありのままを伝えた。恥もプライドもかなぐり捨てて、我が身可愛さに友達を売ったのだ。
「伊藤だと? その話、嘘じゃねえだろうな?」
「ほ、本当だよ。僕は何度もやめろって言ったんだ」
「……やっぱりそうか。あいつ、絶対許さねえ。半殺しにしてやる」
僕は親友の危機よりも、単純に我が身が救われたことに安堵した。それどころか、自分の忠告を聞かなかった伊藤が悪いのだと自己正当化までしていた。
きっと、どうかしていたのだろう。他人の危険を思慮できるのは、自らが安全な場所にいるときだけなのだ。
集合住宅で火災が起きた際、真っ先に隣人の安否を気に掛ける人なんていない。まずは自分が逃げ延びて、後のことはそれからである。
こうして伊藤は放課後、須貝によって校舎裏に連れ出され、彼と不良仲間たちから壮絶なリンチを受けたのだった。
僕は知らんふりをすることも助けることもできず、ただ物陰から見守っていた。無慈悲な嵐がひとりの少年を弄ぶ様を。
僕は伊藤を裏切ったのだ。小学校で一番の仲良しである彼を。いつかの夏休みに、近所の駄菓子屋でアイスキャンディーを半分こして食べた親友を。
伊藤は黙ったままの僕を軽蔑の眼差しで一瞥してから、無言で背を向けた。いつも戯れ合っていた彼の背中がやけに遠い。
「あ、あの……大丈夫? 保健室まで付いていこうか?」
そう呼び掛け、すぐに後を追おうとした。すると、伊藤は今まで見たことないほどの憎悪を滾らせた顔でこちらを振り返り、吐き捨てるように言った。
「もうお前とは絶交だ」
「え?」
そのまま歩き去っていくかつての親友の後ろ姿を呆然と見送る。
不思議と涙は出てこない。ただ虚無感が全身を支配し、しばらくその場を動くことができなかった。
正直、殴ってくれたほうがありがたかった。「裏切り者め!」と罵ってほしかった。だけど、伊藤はそのどちらもしなかった。精いっぱいの憎しみを込めて、僕を見限ったのだ。
生まれて初めて取り返しのつかない喪失に直面したという事実が、小学生の小さな身体に重くのしかかる。
僕はどうすればよかったのだろう。当てもない問い掛けに答えるものなどなく、ただ冷たい秋風がふたりの間を吹き抜けていった。今までの思い出や絆をもさらっていくような、冷酷で烈しい風であった。
その後、僕たちは互いに関係を修復できぬまま、同じ中学校に進学した。
傷付けた者と傷付けられた者、裏切った者と裏切られた者。それぞれが心中にしこりを抱いたまま、まるで皮肉のようにひとつの箱の中に収容されたのだ。
再び傷付け合い、裏切り合えと、悪魔がほくそ笑んでいるのを感じた。
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