1-3

 その後、僕たちは屋上へと続くスチール製の扉の前に辿り着いた。

 もちろん、扉は頑丈に施錠されているはずだ。どうするつもりか見ていると、芹沢はふいにしゃがみ込み、壁に据え付けられた消火栓の蓋を開けた。白いホースが窮屈そうに束ねられたその箱の底には、鈍い輝きを放つ一本の鍵が置かれていた。

「すごいだろう? 誰かは知らないけれど、合鍵を作った奴がいるんだ。ここはその隠し場所。俺以外に知っている人間はいないんだぜ。作った本人以外はね」

 芹沢は愉快そうに笑いながら、躊躇なくその鍵を先ほどの扉へと差し込んだ。扉はカチャリと錠の外れる小気味良い音を響かせ、ゆっくりと開け放たれた。

 眩い光に導かれるように屋上へ歩み出ると、遮るもののない陽光が肌を射した。心地良い高層の空気が肺に沁み渡り、自然とため息が零れる。

 空が青い。見慣れているはずなのに、教室から望む景色とはまるで違って見えた。学校にこんなにも素敵な場所があったなんて。

 ここには自分と芹沢以外、誰もいない。嫌悪の眼差しを向ける者も、こちらの存在を無視黙殺する者も。

「どうだい、びっくりしたかい?」

 芹沢がコンクリートの床に座り込み、大きく伸びをしながら言った。彼の柔らかな髪が風にそよぐ様は、なぜだか僕の心を震わせた。

「あの……どうして僕を、ここに?」

 答える代わりに、先ほどから気になっていた疑問をぶつけた。今まで一度も口をきいたこともないのに、ここまで親し気な態度を取られることが気掛かりでならない。

「君に見せたかったからさ」

「……何を?」

「この景色を」

 芹沢は目を細め、空を見上げながら言った。その視線の先には、吸い込まれそうなほど途方もない青が広がっている。

 僕はどう答えたらいいか分からず、芹沢に背を向けて座った。たしか今日の一時間目は体育である。みんなもうとっくに着替えを終えて、体育館にいるはずだ。

「あのさ、体育の授業、遅れちゃうよ?」

 心配になって尋ねてみるが、芹沢は「うん」とのんびりした声で返すだけで一向に焦る様子はない。あるいは、初めから授業をサボるつもりだったのかもしれない。

「俺さ……」

 しばらく間を置いて、芹沢が口を開いた。

「体弱いの知ってるよね? 小学校に上がる前からずっとそうなんだ。一生激しい運動はできないし、恐らく三十歳まで生きられないって言われている」

「そうなんだ」

 僕はいよいよ困惑し、曖昧に相槌を打つ。

 そんな重大な告白、いきなりされたって答えようがない。へたなこと言って不興を買いたくなかったし、傷付けてしまいたくはなかった。第一、今までろくに会話したことない相手に、そのような秘密を打ち明けるほうがどうかしている。

「体育はいつも見学だから、たまにばっくれて、こうしてここで空を見ているんだ。先生も気遣っているんだか、いちいち咎めたりしないし。君もたまには来るといいよ」

「うん、そうだね」

 僕はその場に寝転がり、大きくあくびをした。学校でこんなに開放的な気分になれたのは初めてである。

 芹沢同様、自分もずっと体育は見学であった。運動はあまり好きではなかったし、アクシデントを装って必ず同級生からボールをぶつけられたりするから。

 先生は初めこそ、いつも見学を申し出る僕を面罵したものだが、いつしか何も言わなくなった。僕が周囲から嫌がらせされていることを知っている彼は、あえてその場面を目撃したくなかったのだろう。何か問題が発生したとき、自分に責任が回ってこないように。

「俺たち、似た者同士だと思うんだ」

 ふいに、芹沢が呟いた。

「え、どうして?」

「だって、お互いはみだし者じゃないか。あ、怒らないでよ?」

「うん、でも……」

「でも?」

「僕は君と違ってみんなから馬鹿にされている。いつも無視されているし、君と同じなんて言えないよ」

「そんなことないよ」

 急に芹沢の口調に熱がこもった気がした。怒ったのかと思って慌てて振り返るが、彼は相変わらずぼんやりと空を見上げたままであった。

「俺は近いうち、君と同じようになるんだ」

「君も、須貝たちのターゲットにされたの?」

 しかし、芹沢はこちらの質問には答えず、そのまま黙りこくってしまった。

 掛けるべき言葉を見出せぬまま、いたずらに時だけが過ぎていく。そうして、静まり返った屋上に虚しく鐘の音が鳴り響いた。


 久しぶりの級友との語らいは、なんだか世界を違うように見せてくれた。

 相変わらず周りは僕を無視し続けていたが、芹沢だけは時折こちらに目を向けて微笑んでくれる。それだけで大いなる孤独にも打ち勝つことができたし、自分を認めてくれる人がいるという安心感に浸ることができた。

 芹沢の存在は僕にとってまさに奇跡であり、荒廃した瓦礫の山に生えた一輪の花であった。彼のためならなんだってできる。いつしかそう心から思えるようになっていた。

 ただ一点。芹沢は周りに誰もいない時しか自分と話してくれないことが気掛かりではあったが。

「ねえ、どうして他の奴がいない時しか話してくれないの?」

「ええっ?」

 休み時間、校庭の水飲み場でひとり水を飲んでいた芹沢に、思い切って尋ねてみた。彼は予想外に驚いた様子でこちらを振り返った。

「どうしてって……」

 言い淀むその姿が答えを物語っていた。やはり自分と一緒にいるところを他の連中に見られたくないのだろう。分かり切っていたとはいえ、少し寂しさを覚える。

「ごめん。やっぱり、いいや。分かってるから。僕なんかといるところを見られたら迷惑掛けるもんね」

 僕は悲しみを気取られぬよう、努めて明るく言う。自分でもいったい何がしたかったのか分からない。せっかく出会えた理解者に、自ら難題を差し向けるなんて。

 芹沢は否定するでもなく、ぎゅっと唇を噛みしめてから絞り出すように呟いた。

「……ごめん」

「え?」

 すぐに聞き返すが、芹沢は何も言わず足早に立ち去ってしまった。

 嫌われてしまったのかもしれない。僕はひとり佇み、大きくため息を吐く。

 期待していたわけではない。でも、改めて現実を突きつけられると切なさが込み上げてくる。

 冷たい大気が全身にのしかかり、耳元で意地悪く囁く。「お前はひとりきりなんだよ」と。

 僕は目に見えない呪縛から逃れるため、堪らず校舎内へと駆け込んだ。

 薄暗い生徒用玄関で膝に手を付き、肩で息をする。気付けば、すっかり枯れ果てたと思い込んでいた涙が両目に滲んでいた。

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