1-2

「――お前、俺のこと睨んでただろ?」

 休み時間、トイレに行こうと立ち上がった僕の肩を、クラスメイトの須貝が掴んだ。

 呼び止めるにしては不自然なくらい力のこもったその手には、隠そうともしない暴力性が表れていた。

「え? なんのこと?」

 驚いて振り返った僕の目に、須貝の不遜な眼差しが突き刺さる。

「さっきの授業中、睨んでたろ? なんか文句あんのかよ?」

「さっきの、授業中……?」

 ナイフのようにギラついた視線から逃れながら、記憶の糸を辿る。確かに授業中、須貝と一瞬だけ目が合った。

 だがそれは何気なく教室を見回したとき、たまたまこちらに顔を向けていた彼と視線がかち合っただけだ。言い掛かりも甚だしい。

「全然、睨んでいたわけじゃないよ。でも、誤解させたのなら謝るよ。ごめん」

 釈然としなかったが素直に謝った。須貝は身体も大きく、悪い噂の絶えない不良生徒である。今後の学校生活のためにも、できることなら衝突は避けたかった。

「ちっ。なんだよ、その利口ぶった言い方。うぜえな」

 須貝は悪態をつきながらも、それ以上は追及せずに離れていった。

 そのときは事なきを得たように思ったのだ。そのときは。

 だが、次の日。たまたまトイレで鉢合わせた須貝に個室に連れ込まれ、腹を五発も殴られた。

 目を血走らせた彼は拳を振るいながら、なぜか僕ではなくうわ言のように母親を罵っていた。

 どうやら須貝は母子家庭で母と折り合いが悪いらしく、僕はその鬱憤の捌け口にされたようだ。彼が殴っていたのは僕の身体ではなく、母親に対する複雑な感情。

 理由なんて無いのだ。たまたまその時、その場所に、僕という無力な小動物が居たというだけ。

 そして、その光景をかつての親友だった伊藤に目撃されたこともまた、ただの偶然。彼は満面の笑みを浮かべながら、床に這いつくばる僕を嬉しそうに見下ろしていた。

 小学生のときに仲違いして以来、僕のことを嫌っていた伊藤がこの機を逃すはずもなかった。狡猾で要領の良い彼は須貝を利用し、瞬く間にクラス内に僕を包囲する悪意のコミュニティを作り上げたのだ。

 集団からの冷ややかな視線。誰もが須貝を恐れ、彼の意のままに僕を嬲る。

 教科書に落書きをされ、体操着を隠され、背中に卑猥な貼り紙をされ、次第に精神的に追い詰められていく。

 そうした手口は全て伊藤が考え、他の連中を扇動しているようであった。須貝は横暴ではあるが、奸計を巡らすようなタイプではない。

 全ては伊藤が仕向けているのだ。テストの成績にしたって、運動のできにしたって、全て僕が少しだけ彼を上回っていることへの当てつけなのだろう。

 報復の名を借りた伊藤の攻撃は、同時に実利も兼ねているのだ。僕がいなくなれば彼の順位はひとつだけ上がる。ただそれだけのために、僕はクラスから抹殺されようとしていた。


 ☆


 繰り返される暗黒の日々に、いつしか時の感覚もなくなっていた。

 今日が何月何日かなんて、さして重要ではない。毎日代わり映えのしない、恐怖に彩られた孤独がそこに在るだけなのだから。

 僕は菊の花瓶が置かれた自分の席に身を潜め、ひたすら息を殺して授業の開始を待つ。

 誰に話しかけても、もはや反応してくれる者などいない。悪意のコミュニティはすでに学校全体に広がっており、全員で僕をシカトする取り決めがされているのだ。

 花瓶を置かれるくらいは受け入れるしかない。勝手にそれをどかしたりすれば、再び須貝たちから殴られるだろう。暴力で相手してもらうよりは、ずっとシカトされてるほうがありがたいに決まっている。

「起立」

 その声にハッとして顔を上げる。

 いつの間にか担任の先生が来ていたようだ。身体と声だけは無駄に大きい、無骨な体育教師。常にジャージを着用している体育大卒の彼は、運動嫌いの僕にとって最も縁遠い存在である。

「礼」

 全員で頭を下げ、着席する。

 教壇に立った先生は、いつものように教室全体を見渡してから軽く咳払いした。その際、チラリと僕の席に目を留めた気がした。いくら鈍感な人間でも、机上で鮮やかな色彩を放つ菊の花に気付かないわけがない。

 だが先生はそれには触れず、平然と出欠をとり始めた。

 もちろん僕の名前は呼ばれない。悪意のコミュニティは教師たちとて例外ではないのだ。特に彼は陰鬱なこちらの態度が反抗的に見えたらしく、いつしか率先してこの残酷な遊びを楽しむようになっていた。

 途方もない孤独感が全身を蝕んでいく。担任教師ですら自分を虐げるというなら、いったい誰を頼ればいいのだろう。ホームルームを終え、教室を後にする先生の背中を見送りながら小さくため息を吐く。

 悪いことなんて何もしていないのに、どうしてこんなに傷つかなくてはならないのか。遣る方ない恨めしさが込み上げてきて、唇をきつく噛みしめる。

 ふとそこで、こちらをまっすぐ見つめる何者かの視線を感じた。

 なんだろう。随分と久しぶりの感覚。善意でも悪意でもなく、小川の水が滔々と流れるように送られてくる柔らかな視線。

 僕は胸の高鳴りを抑えながら、ゆっくりと顔を向ける。

「――あっ」

 思わず息を吞んだ。

 視線の主はふたつほど離れた壁際の席に座る、芹沢という男であった。

 一見すると少女のように白く整った顔立ちをした彼は、じっとこちらに視線を送りながら、なぜか微笑みを浮かべている。

 いったい、なぜ。訳が分からず目で尋ねると、芹沢は教室の外へと顎をしゃくって見せた。付いて来いということらしい。

 その辺りはこちらも心得ていた。人前で僕と話したりしたら、須貝たちからイジメのターゲットにされてしまう。仮に僕と話すことがある場合、人目を避けるのは当然である。

 問題は、素直に付いて行って大丈夫かということである。罠という可能性も捨てきれないのだから。

 考えている間に芹沢は勝手に立ち上がり、教室を出て行ってしまった。こちらが付いてこようがこまいが構わない。彼の背中がそう告げていた。

 僕は慌てて立ち上がり、芹沢の後を追った。久しぶりに他人からコンタクトを取ってもらえたことが嬉しかったし、何より、彼の澄んだ瞳に疚しさは感じられなかったのだ。

 窓が北側に面しているため、陽がほとんど射さない薄暗い廊下。ひんやりとした空気を切り裂きながら黙々と進んでいた芹沢は、そのまま階段を上り始めた。

 少し距離を置いて追いかけていた僕は内心、焦りを覚える。

 一年生の教室は最上階の三階にあり、その上には屋上しかない。普段は生徒が立ち入ることはない、未知の領域である。

 やはり罠だろうか。不穏な予感が胸中に渦巻く。

 屋上に出た途端、待ち構えていた大勢の男たちから袋叩きにされるかもしれない。あるいは、もっと悲惨な……。

 そこまで考えて、急激な腹痛に襲われた。言いようのない感情が全身を駆け巡り、思わず絶叫したくなる。

 ――イヤダ。コワイ。タスケテ。

 芹沢は歩みの鈍くなった僕を振り返り、安心させるように笑みを浮かべた。

「大丈夫だよ。心配することはない」

 その言葉に、なぜだか涙が零れそうになった。初夏の微風を思わせる涼やかな声音に、忘れかけていた人と交わる喜びを思い出す。

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