第二十九話  紅閨の虜囚

 ※紅閨こうけい……紅いベッドルーム。 


 ※狂號きょうごう……ものぐるおしく泣き叫ぶ。



    *   *   *



 桃生柵もむのふのき正殿せいでんは、まさに今、焼け落ちようとしている。


 佐久良売さくらめ

 その父、佐土麻呂さとまろ

 佐土麻呂のもとで働く文官、三根人みねひと


 その、三人の前に、燃える柱が落ちてきて、行く手を塞いだ。


「きゃあっ!」

「うっ!」

「あちっ!」


 柱は、ぼうと燃え立ち、息苦しい熱波を生み、火の粉を男二人に散らした。

 男二人は目をつむった。


 その時、信じられないものを、佐久良売は見た。


 燃え盛る炎が、メラメラ踊りながらこごり、人の形をとったのだ。

 それは佐久良売が八歳のときに見たおのこ

 朝獦あさかりさまだ。


「ひぃっ!」


 炎の朝獦あさかりさまは、胸から上だけが見える。

 怒りの牙をむき出しにし、洞穴ほらあなのような、黄泉よみにつながる真っ黒な目で。


 佐久良売をにらんだ。



 ───ゆ───る───さ───ぬ───ぞぉぉぉ。


 ───よくも───桃生柵もむのふのきを───壊したなぁぁぁ。


 ───族滅ぞくめつ(一族皆殺し)だ─────許さぬぞぉ……。




「きゃああぁ! 今、今、炎のなかに朝獦あさかりさまがっ!」


 佐久良売は、佐土麻呂さとまろの肩にすがりつく。


「何を言ってるんだ、佐久良売。

 何も無い。

 ただの炎だぞ。」

「え?」


 まばたきをして、正面を見れば、もう、朝獦さまはいない。

 パチパチと燃える柱と、燃え立つ炎があるだけだ。

 佐久良売はキョロキョロ、あたりを見る。

 ……人影は、ない。


「くっ。こっちの道は、駄目だ。東の道を行きましょう!」


 三根人みねひとは、妄言もうげんだと思ったか、佐久良売の話を取り合わない。


(見えなかったの?

 聞こえなかったの?

 二人には、見えないんだわ。

 あたくしにだけ、見える。聞こえる。)


 熱波にあぶられるなかだというのに、佐久良売は、冷や汗を背中にかいた。


(死んだなんて嘘だったんだわ。

 いえ、違う。

 死してなお、この桃生柵もむのふのきに執着し、ずっと、桃生柵もむのふのきが壊されないか、見張ってたんだわ。なんて恐ろしいお方。

 許さないおつもりだわ。

 この桃生柵もむのふのき蝦夷えみしに燃やされようという今、お父さまに罰をくだしにやってきたんだわ。 

 そして、娘であるあたくしにも。)


 佐久良売は立ち止まる。


「佐久良売?」

「佐久良売さま?」


(おそらく、朝獦さまのお怒りを解かないかぎり、お父さまは、無事にここを脱出することは叶わないでしょう。

 ああ、そうか。)


 不意に、すとん、と佐久良売は理解した。


(そうか……。

 だから、あたくしは、平城京から、桃生柵もむのふのきに帰って来たんだわ。

 今日、この日の為に。)


「お父さま。三根人みねひと。あたくしは、用を思い出しました。」


(別れは言うまい。二人が行きづらくなる。)


「先においきなさい。」


 佐久良売は、カツッ、と鼻高沓はなたかぐつを鳴らし、炎燃え盛るなか、狭い通路を通って、一人、奥の部屋へと消えた。


「馬鹿を言うなっ!」


 慌てた佐土麻呂が、つまづく。三根人は佐土麻呂を抱き起こしながら、


「佐久良売さま、そちらに行ってはなりません! 佐久良売さま───!」


 と叫ぶが、もう、佐久良売の背中は、さかまく炎の向こうに消えた。


「うぉぉ……、佐久良売ぇ───!!」


 佐土麻呂は、炎の朝獦を見たわけではないが、娘がしたい事を、なんとなく察した。


「駄目だ、やめてくれ……。

 帰ってきてくれ、佐久良売ぇぇぇぇ!!」


 愛娘を、人身御供ひとみごくうとして目の前で失おうとする父親が、狂號きょうごうした。





   *   *   *





 はりが焼け落ち、どどぉ……ん、と轟音とともに、床に落下する。


 これで、退路は断たれた。

 四方を炎に囲まれた佐久良売は、炎のおり虜囚りょしゅうとなった。

 この炎の檻から、生きて出ることはない。


「ごほっ、ごほっ……。」


 はく(カーテン)として、遠江国とほたふみのくにからわざわざ運ばせた、贅沢なあしぎぬ(絹織物)、天井から床まで垂れ下がり、秋の涼風に揺れていたなめらかなあしぎぬが、無惨に床に落ちている。

 あしぎぬは炎の舌に舐めとられ、焦げ、穴が空き、炎に包まれて嫌がるように身悶えするが、小さな穴を押し広げられ、執拗しつようなぶられつくし、灰となった。

 

「朝獦さま。

 桃生柵もむのふのきを守りきれず、お許しください。

 お詫びに、この身を捧げます。

 あたくしの命ひとつで、ご容赦くださいまし。

 ……ごほっ。

 どうか、お怒りを鎮めてくださいまし。」


 佐久良売は、黒い煙と、爆ぜる炎のなか。

 たふときおのこだったものを籠絡ろうらくできるように、艶美えんびな微笑みを浮かべ、両腕を広げた。


「さあ、朝獦あさかりさま。

 この炎を紅閨こうけいし、いかようにも、抱いてくださいまし……。」






   








 ああ。


 燃える。


 燃える。


 全て燃えてしまう。


 桃生柵もむのふのきが燃える。




 





 

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