第三十六話  我を可鶏山の

 足柄あしがりの  可鶏山かけやま


 かづの木の


 をかづさねも  かづさかずとも




 阿之賀利乃あしがりの  和乎可鶏夜麻能わをかけやまの

 可頭乃木能かづのきの 

 和乎可豆佐祢母わをかづさねも     

 可豆佐可受等母かづさかずとも




 足柄あしがら可鶏かけ山───あたくしを心に懸ける山───のかづの木ではないけれど、数に入れなくとも門を開けなくともいいよ。




 ※かづの木……ヌルデ。



    万葉集  作者未詳






    *   *   *




「そんなに、ご自分の頬を叩いてはいけません。長尾ながおのむらじの佐久良売さくらめさま。……話がしたい。少し、つきあってもらえませんか?」


 道嶋みちしまの宿禰すくねの嶋成しまなりはそう言い、すぐに佐久良売さくらめをの手を離した。

 佐久良売は、鷲鼻わしばなの目立つ顔を、ごくり、と唾をのみこんで見つめた。


(なぜ、貴族の息子が、一兵士の姿で、桃生柵もむのふのきにいるのだろう?

 わけがわからない。

 でも、あたくしは、この方に以前、ひどい対応をした。話したいと言われて、逃げるわけにはいくまい。)


「わかりました。」


 佐久良売さくらめは涙をそっとふいた。


「オレは……。オレは。」


 嶋成は、話がしたい、と言いながら、言いよどんだ。だから、佐久良売さくらめから口を開く。


「百合の花束をありがとうこざいました。」

「えっ?!」

「あの花束は、ぐ……、軍監ぐんげん殿のふりをしたみなもとがくれましたが、ちゃんと言い添えてくれましたよ。これは嶋成さまからだって。」

「あ、あいつめ……。」


 嶋成は顔を赤くした。

 佐久良売さくらめは姿勢を正した。


「縁談の席の非礼を、謝罪いたします。あたくしを許していただけますか?」

「!」


 嶋成が驚いて息を呑んだ。



    *   *   *



 一月前になるか、ならないか。

 佐久良売が桃生柵もむのふのきに帰ってきてすぐ、父親に縁談を組まされた。

 佐久良売、二十三歳。

 嶋成、二十一歳。

 縁談で初めて会った嶋成は、


佳人かほよきおみなですね。年増なのは仕方ないとしても、枯れ枝みたいな体形なのは、良くありませんね。妻となったら、もっと食べてください。」


 と言ってきたので、佐久良売さくらめはムカムカした。

 漢詩をわかるか、ふっかけてやり、言葉につまった嶋成に、


「これがは踊らす赤鱗せきりんの魚よっ!」


 と川魚の煮付けを顔面に盛大にお見舞いしてやった。

 ……赤い魚ではなかったのが悔やまれる。


「何するんだ、こんちくしょう!」


 嶋成は真っ赤になって叫び、


「こんな縁談、こっちからお断りだ!」


 と縁談の途中なのに、席を立ち、帰ってしまい、それきりになった。


 佐久良売さくらめは父親からこってり絞られるだろう、と身構えたが、ちょうど、厨屋くりやで調理中の不注意から小さな火事がおこり、怪我人はいなかったものの、騒ぎになったせいで、あまり怒られずにすんだのだった───。



    *   *   *



「オレは、酷い事を言いました。

 あの時のオレは、失礼だと思わずに、あんな事を言ったんです。佐久良売さまは、細身であっても、くわです。

 バカでした。許してください。」


 佐久良売さくらめは驚いて嶋成を見た。

 嶋成の目には、真摯しんしな光りがあった。


「あたくしも、今考えると、やりすぎました。………では、あたくしも謝罪し、嶋成さまも謝罪してくださった。それで、もうこの件は、よろしいでしょうか。」

「まだ、訊きたい事があるのです。縁談では、オレが失礼な事を言ったから、佐久良売さくらめさまに、あんな態度をとられた。

 でも、オレが失礼なことを言う前から、佐久良売さくらめさまは、なんだか険悪な雰囲気だった。

 なんでです? なんで、オレとの縁談、そんなにイヤだったんですか? オレの、何が……。」

「嶋成さま。それは違います。」


 佐久良売さくらめは慌てて言った。


「違うんです……。聞いてください。あたくしは……、あたくしは……。」


 佐久良売さくらめ領巾ひれを握りしめた。


「あたくしは、おのこに恋する事ができないのです。

 初恋と呼べるようなものは、まだわらはの頃にしたかもしれません。でも、それ以降、まったく、どんなおのこにも心が動かないのです。

 おのこを素敵だな、とか、そわそわする、という気持ちにならないんです。」


 奈良では、ひな(田舎)では見ることのない、着飾った身分の高い男達がいた。他の采女うねめ達が皆、頬を染めてうっとりするようなおのこを見ても、あたくしは一人、しらけた顔をして、ちっとも心が動かされなかった。


清童きよのわらはなのがいけないのか、と、無理に率寝ゐね同衾どうきんの田舎言葉)もしてみました。」


 ───何かがおかしい。

 あたくしは、恋ができない?

 抱かれれば、何か変わるだろうか?


 そう思い、熱心にふみで口説いてきたおのこ率寝ゐねをしてみた。

 ……条件の良いおのこだったから、歳をとる前に妻にしてもらうのも有りか、という打算もあった。


「でも、ちっとも心は動かず、冷え冷えとした心で相手を見ることしかできませんでした。甘い言葉を言われても、返事さえ億劫おっくうで、率寝ゐねを重ねるたび、相手を嫌悪したくらいです。」


 始めは新鮮な驚きで、率寝ゐねとは悪くないものだと思った。でも、幾夜も重ねるうち、嫌悪感が増した。おのこは笑顔で佐久良売を褒めて、優しい態度を崩さなかったのに、不思議な事であった。

 あの関係は、酷い裏切りで終わったが、そうなる前にとっくにあたくしは、あのおのこも、あのおのことの率寝ゐねも、ほとほと嫌になっていたのだ。なのに、


 ───畿内きないの豪族の妻になったら、きっとお父さまも同母妹いろもも喜ぶわ……。


 そうやって自分の心から目を逸らし、ずるずると関係を続けてしまったのだ。


「あたくしは、家族のことが大好きです。お父さまも、同母妹いろもの事も、心から、気遣うことができます。

 でも、おのこを恋する心だけ、あたくしのなかから、不思議と欠落してるのです。

 あたくしは、欠落を持って生まれてきたのでしょう。

 あたくしは嶋成さまと夫婦めおとになったとしても、つまを気遣い、心から仕える妻にはなれません。優しくしてもらったとしても、いずれ、嫌悪の目を向けてしまうかもしれません。

 このようなおみなを妻にしてはいけません。

 あたくしは恋ができない。

 だから婚姻もできない。

 あたくしを、妻にできるおみなの数に入れないでほしいんです。」

「………もしかして、それで、他の縁談も断り続けたんですか?」

「そうです。」


 嶋成は黙った。


をかづさねも、かづさかずとも。

 こんな愚かなおみながいた事は、どうぞ忘れてください。

 あたくしは、ここで、家族と過ごし、お父さまが黄泉渡りしたら、一人で生きていくのです。

 それがあたくしの望みです。」

「佐久良売さま……。」


 そこで、道の向こうが騒がしくなった。


「どけどけ!」

「わあっ。」


 とおのこの声がし、ガシャン、と大きな音がした。


「何かしら?」

「いってみましょう!」


 見ると、坂道に荷車にぐるまが横転している。一人の負傷兵が砂利道に投げ出され、動かず、二人のおのこが、


「バカ野郎! いきなり飛び出してきやがって!」

「そっちが前を見てなかったんだろうが!」


 と言い争っている。

 その負傷兵は、真比登まひとだった。


「きゃああああ!」


 佐久良売さくらめは悲鳴をあげた。

   

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