第47話 おかえり
「ツキ!」
「ツキクサ!」
「ツキクサさん!」
背後から喜びの声がした。
「……」
彼らは大切な友だちだ。大切な存在だ。
感謝している。幸せになってほしいと心から思っている。
これからも仲良くできたら、なんて思いつつあるのも事実だ。
「……ごめんみんな」
けれど、彼らの幸福はツキクサの優先順位の二番目に位置するものだ。
目の前に転がった〈祝福の欠片〉を手に取る。
何色もの光彩を包容するその結晶は、五センチにも満たない小さなもので。
けれどもそれは、ツキクサにしてみればなによりも大きなものだった。ずっと求め続けたものだった。
「十年も待たせちゃったな」
キノカを人の身に戻せば、いつの日か〈カスア〉が顕現するだろう。それはきっと、今とは比較できないほどの硬度を誇るに違いない。べガルアスのように、キノカが十年で息絶えるはずなどないのだから。
「今、助けるからな。幸せな日常に戻ろう」
最低だと思う。〈カスア〉を五人で倒し、〈祝福の欠片〉を手に入れた。
レンには亡くなったお嫁さんを生き返らせたいという願いがある。
カリナには村を繁栄させたいという願いがある。
モモエにはお菓子を復活させて笑顔を増やしたいという願いがある。
どれも素敵な願いだ。
くだらない願いだと唾棄するつもりは甚だない。どれも誰かを想った美しい願いだ。そして三人には、その願いを〈祝福の欠片〉で叶える権利がある。
「……」
大勢が不幸に傷つこうが、友だちから失望されようが、知ったことではない。
キノカが人の身を取り戻せるのなら、あの日々に戻れるのなら、ほかになにもいらない。
そう言い聞かせる。強く言い聞かせる。
身体が震えているのは、喜びに打ち震えているからだ。
〈祝福の欠片〉を握りしめ、そっと目を閉じ、ツキクサは願う。
神様。どうか妹を――
「わたしのために苦しまないで」
驚いて振り返ると、キノカが背後からツキクサを抱き留めていた。どうやら三十分の猶予はまだ枯渇してきっていなかったらしい。
キノカに体温はないはずなのに、その抱擁は陽だまりのようにあたたかく感じられた。
「……苦しくなんかないよ。ようやくキノカが取り戻せるんだ。後悔なんてあるわけないだろ」
「ならどうして震えてるの?」
「……嬉しいから、震えてるんだよ」
そうに違いない。そうに決まっている。
「わたしの兄様はね、誰よりも優しい人なんだ」
誇らしげな声だった。
「困ってる人を迷いなく助けるヒーローみたいな人でね、そんな兄様がわたしのなによりの自慢なんだ」
甘く優しさに満ちた声だった。
「そんな兄様がいるってだけで、わたしは満ち足りてるよ。運命を呪ったことなんて一度もない。兄様がよく話しかけてくれるから寂しくもないしね」
「……そんなのって」
手のひらから〈祝福の欠片〉が転げ落ちる。
キノカは微笑んだ。
「やっぱり兄様は誰よりも優しい人だよ。自分の願いよりもわたしの願いを汲んでくれる。誰にでもできることじゃないよ」
「……当然だろ。俺は、キノカの自慢の兄でありたいんだ。その期待は……裏切れないよ」
溢れ出した涙が滴り落ちる。
すべてキノカの言う通りだった。
この期に及んでツキクサは〝情〟に屈服していた。
友だちを傷つけたくなかった。誰も傷つけたくなかった。
これまで〈特別国政補佐官〉として過ごし殺してきた感情が、この期に及んで芽生えてしまっていた。友だちの優しさが、キノカの優しさが、ツキクサの凍てついた心に雪解けをもたしてしまった。
結局のところ、ツキクサにはなにを犠牲にしてでもキノカを救う覚悟がなかったのだ。
「ほんとうに、いいのか? こんな好機、二度と巡ってこないぞ?」
「兄様を苦しめるこの瞬間を、わたしは一瞬だって好機だと思っていないよ」
冷たく細い指が、ツキクサの目尻から零れる涙を拭う。
「兄様にこんなに愛されて、わたしは世界中の誰よりも幸せ者だなぁ」
言葉に違わない、至福に浸かった微笑みの音色が鼓膜を撫でた。
「兄様。わたしは生きてるだけで幸せだよ」
「……ほんとうに、そう思ってるのか?」
「兄様に嘘はつかないよ」
背中から離れて、ツキクサの前に回り込んでくる。
「今のわたし、悲しそうに見えるかな?」
言って、弾けるように微笑んだ。
「はは……」
悲しみとは程遠い溢れんばかりの喜びで満たされた笑みに、ツキクサは微笑んでしまう。
笑顔は人を笑顔にする。キノカの笑顔は、誰しもに幸福をもたらすものだ。
「キノカはいつも楽しそうだな」
「兄様の側で過ごす時間は、わたしにとってなにより楽しい時間だからねっ」
姿は違えど、キノカは十年間、ツキクサの側で過ごし続けていた。
「そっか。なら……よかっ…………うぅ」
これからも、そうやってツキクサの側で過ごし続けるのだろう。
年に一度、誕生日にだけ人の身となって。
その日以外は、人の身となることを赦されずに。
「兄様の苦痛で手に入る幸福なんて、わたしはちっともほしくないよ」
「ぁあ……うぁ、うううぅ……」
キノカが頭を抱き締めてくる。
「兄様の幸せが、わたしの幸せなんだよ。だからもういいの。今日までわたしのためにありがとう。そんな誰かのために必死になれる兄様が、わたしは昔からず~っと大好きなんだよ」
「ああああぁぁぁぁ!」
感情が決壊した。
吹っ切れたように涙が溢れ出す。これまで無理やり抑え込んできた感情が、涙となって放出されていく。
嗚咽と涙が止まらないのに、不思議と胸は軽くなっているような気がした。苦しくて清々しい、そんな矛盾した感覚に満ちていた。
「苦しかったよね。兄様、ずっと無理してたもんね。……ごめんね、わたしのせいで」
気づけば嗚咽がふたつに重なっていた。キノカが泣いていた。〈祝福の日〉以来、はじめて見るキノカの泣き顔だった。
涙に瞳を湿らせながらも、キノカはツキクサを抱き締めてくれる。優しくあたたかく抱擁してくれる。
そんなキノカを、ツキクサも抱き締め返す。兄妹そろって、えんえんと子供のように泣き声を上げた。
「あれぇ?」
キノカが頓狂な声を上げた。
何事かと顔を上げ、ツキクサは息を呑んだ。
「キノカ……髪が……」
真冬の銀世界を切り取ったかのような白銀の髪が、光を吸い上げキラキラと光沢を放つ黒い髪になっていた。その髪色を最後に見たのは十年前――〈祝福の日〉だ。
違和感はあった。キノカが人の身を保てる三十分は、もうとっくに過ぎている気がしていた。
恐る恐るツキクサはキノカの胸に耳を近づけ押し当てる。
――とくん。とくん。とくん……
「っ!」
鼓動が刻まれていた。
「……兄、様……」
信じられないとばかりに、キノカはぱちぱちと瞬きを繰り返している。
小さな頭をそっと引き寄せて額と額を重ねる。
――仄かな熱を感じた。
「……はは」
あたたかな雫が頬を伝う。しかし頬は和らいだまま、胸はあたたかさに包まれていた。
キノカの頬に触れる。
やわらかくほんのり温かい頬だった。
小さな手のひらを両手で優しく包み込む。
細く滑らかな肌は、間違いなく体温と呼べるものを孕んでいた。
「兄様、わたし……」
理屈はわからない。けれど、奇蹟が訪れていた。
当人だから、自分の身に起きたことを誰より実感しているのだろう。潤んだ瞳を儚く揺らがせ、身体を小刻みに震わせるキノカを、ツキクサはそっと抱き寄せる。
「おかえりキノカ」
ツキクサは言った。いつか必ず言おうと決めていた言葉だった。十年前のあの日、買いもののために家を出てから、キノカは長らく出かけたままだったから。
「……うん。ただいま兄様」
ややあって、くぐもった帰宅を告げる声が返された。
やんわりと抱き締め返される。しなやかで華奢な身体はあたたかく、重なった胸からは、とくとく命の旋律が伝ってくる。
「……おかえりキノカ」
十年振りの妹の体温をもっと味わいたくて、背中に回した腕に少しだけ力を込めた。キノカはへへっと嬉しそうに微笑み、滴り落ちた涙がツキクサの肩を濡らした。
「うぐっ……、よかったなぁ、ツキクサぁ、キノカぁ……」
「はは、サユとの別れを最期に泣かねぇって決めてたんだけどなぁ。……しかしモモエちゃん、こいつぁいったいなにが起きてんだ?」
「うええぇぇぇぇん! よかったよぉぉぉぉぉ!」
「あ、悪い。解説なんてできる心境じゃなさそうだな」
「なんでもいいじゃないですかぁ! ハッピーエンドに理屈を求めるなんて野暮ですよぉ!」
「モモエの言う通りだッ! てめぇも黙ってふたりを祝福しやがれッ!」
「お前らいつの間に仲良しになったんだよ……」
どうやら三人とも、〈祝福の欠片〉で願いを叶えられなかったことに対しての不満はないようだ。ツキクサとキノカに訪れた幸福を祝ってくれている。ほんとうにいい友だちに恵まれた。
ふと眼下に目をやると、〈祝福の欠片〉は極彩色の輝きを失い透明な結晶となっていた。ツキクサとキノカの涙が降り注いだ表層は、つやつやと淡い光を乱反射していた。
「……」
べガルアスに〈祝祭〉をもたらしている間も光り続けていたので、願いを叶えたために無色透明になったということはないはずなのだが……。
「ま、なんでもいいか」
〈カスア〉が顕現しないことを祈りつつ、ツキクサは胸の中でぐすんぐすん鼻を鳴らすキノカの頭を撫でた。
涙を流す妹を慰めるのは兄の使命だ。〈輔弼連合〉から下されたどの使命を完遂するよりも、この使命を完遂する方が価値がある。
この使命と役目だけは、誰にも譲れない。
次に視線を落としたとき、〈祝福の欠片〉は姿を消していた。
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