第44話 誕生日
「なぁキノカ」
「ん?」
鼻のてっぺんに生クリームをつけたキノカがこてんと首を傾げる。
去年のキノカの誕生日のことだった。
「人に戻りたいって思ったりしないのか?」
一年に三十分しか設けられない貴重な時間だ。キノカにはずっと笑っていてほしいし、そうなるようにツキクサは暗い話題を意図的に避けていた。
けれど、ふと思ったのだ。
現実から目を逸らし続けてはいけないと。
喜びだけが積もるなんてことはありえない。
光が照らせば影が伸びるように、家畜を犠牲に人が食事で幸福を満たすように、幸福と不幸はいつだって表裏一体の関係にある。
味覚が機能していないにもかかわらず、キノカはぱくぱくケーキを口に運んでいる。その姿があまりに幸福感に満ちているものだから、味覚が回復しているのではないかと疑ってしまう。
しかし、そんな奇跡は起こりえない。現実は甘くない。キノカが頬張るケーキのように。
一切弱音を吐かないキノカだが、果たしてほんとうに一抹の不安も胸にわだかまっていないのか。
そんなはずはないだろう。人間誰しも弱さや悩みを抱えて生きている。
だからツキクサは問いかけた。
負の感情を吐き出さないと、キノカの人格が壊れかねないと思ったからだ。
「そりゃまぁ、戻れるなら戻りたいよ」
一切の難色を示さずキノカは言った。
「けど、ぜったい戻りたい! ってことはないかな。兄様が無理するくらいなら、わたしはこのままで構わないよ」
柔らかな微笑み。少しの緊張も感じさせない佇まい。
それは間違いなくキノカの本心だった。
「……つらく、ないのか?」
そう問うツキクサは、苦しくてつらくて今にも泣きそうだった。
キノカの笑顔が胸を締め付ける。どうしてこんなにも優しい子が過酷な運命を背負わなければならないのか。無慈悲な神を恨みたくなる。憎しみと悲しみが胸の中で渦巻いていた。
「つらいはずなんてないよ」
柔らかなキノカの声が、痛かった。
「兄様の側にいられる。その幸せだけで、わたしはいつもお腹いっぱいなんだぁ」
夢見る少女のような顔をしていた。
「だから兄様、無理しないでね? 兄様が傷つくのが、なにより悲しいことだからさ」
まっすぐで優しさに満ちた微笑みが、ツキクサの涙腺を強く揺さぶった。
「……そんなのって」
手のひらで顔を覆い漏らしたその声は震えていた。
キノカ以外の誰かが同じことを言ったとしても、ツキクサは信じることができないだろう。
人は、本質的に自分をなにより愛している。不利益は被りたくないし、不幸に見舞われれば嘆く。
誰だって、物事の価値観を図る基準は自分である。まず自分があって、次に他人がある。自分が誰より不幸にある状態で誰かを慮ることなど、できるはずがないのだ。
人間はそんなに強い生きものではない。
独善的で、脆弱で。
それが人間の本質。ツキクサもそうだ。
「兄様、苦しいの?」
とことこ近づいてきて、キノカが顔を覗き込んでくる。
「大丈夫? わたしになにかできることあるかな?」
眉尻の下がったその顔には、不安が色濃く滲んでいた。
自分の不幸を一切嘆かないキノカが、ツキクサが泣いている姿を見て悲しんでいた。
「ごめん……ごめんなキノカ」
言葉通りだった。
はじめから疑ってなどいなかった。キノカは嘘をつかない。ツキクサはキノカという妹を誰より理解している。ずっといっしょに過ごしてきたから知っている。
「兄様が謝ることなんてないよ。わたしが不安を抱え込んでるんじゃないかって思って、苦しいのに話題を切り出してくれたんだよね」
頭を引き寄せられた。
「ありがとう兄様。わたしはそんな優しい兄様が大好きだよ」
「……ごめん。ほんとうにごめん。せっかくのキノカの誕生日なのに俺――」
「兄様の優しさっていう、最高のプレゼントがもらえて最高の誕生日になったね。ありがとう兄様。あたたかくて、ふわふわで、心地よくて。わたし、今世界中の誰よりも幸せだよ」
「……来年はもっと素敵なものをプレゼントするからさ、だから期待してて」
「うん。楽しみに待ってる。兄様がくれたモノなら、どんなモノでもわたしにとってかけがえのない大切な宝ものだからね」
「……ごめん、ごめんなキノカ……」
「大丈夫、わたしは全然苦しくないよ。誰かの笑顔を犠牲にして自分が笑顔になることに比べれば、全然へっちゃらへっちゃらっ!」
「……そっか。ならよかった」
ようやく荒れ狂う感情が静まった。
顔を上げると、キノカは弾けるように微笑んだ。
「うん! やっぱり兄様には笑顔がよく似合うねっ!」
「キノカほどじゃないよ」
それに、こんな風に笑えるのは今日限りだ。明日になれば、〈特別国政補佐官〉ツキクサに戻る。キノカの兄であるツキクサは、一年に一度しか現れないのだ。
「あっ、まずいまずいもうすぐ時間切れだ。兄様、ちょっとじっとしてて!」
言って、頭に乗せていたとんがり帽子を外し、ツキクサの頭に乗せてきた。「本日の主役」と書かれたタスキも外し、ツキクサの肩に掛けてくる。机上に置かれた円錐形のクラッカーを手に取り、紐を引いてパンっと部屋にけたたましい音を響かせる。
吹き出した紙テープがツキクサの頭に乗っかる。
満面の笑みを浮かべてキノカは言った。
「お誕生日おめでとう兄様!」
言葉を紡ぎ終えた直後、キノカは剣となって床に落ちた。
「……ありがとうキノカ」
奇しくも、ツキクサとキノカはまったく同じ日に生まれていた。
誕生日が同日であることは幸運だった。
一日に、キノカの三十分を費やすことができるから。
キノカだけが、毎年ツキクサの誕生日を祝ってくれた。
それだけで、ツキクサは満足だった。
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