第40話 願い
「元気にしてたか、キノカ」
「うんっ! わたしはいっつも元気だよっ!」
底抜けに明るい声音が鼓膜を撫でる。
「……なん、で」
瞼が熱を帯びたかと思えば、瞬く間に視界にモヤがかかりはじめる。
「なんで人の身体に戻ってるんだよ……」
一年に十分間だけ人の姿を保てる時間は、毎年キノカの誕生日に充てようと約束していた。
こうしている間にも、今年の誕生日にキノカと会話できる時間は刻々と削られている。ツキクサはキノカを救うと決意しているが、必ずしもその本懐が遂げられるとは限らない。もし失敗に終われば、キノカには変わらず枷が課せられつづける。異形として過ごす日々を強いられる。
「剣が砕かれても、別の武器になれただろ。わざわざ人の姿にならなくても――」
「間違ってるって言いたかったの」
力強い声色だった。
「べガルアス陛下の優しさは、ずっと兄様といっしょに過ごしてきたから知ってるよ。常に国民の幸せを最優先にしてるってことも知ってる」
けどね、とキノカはツキクサの胸から顔を上げて後ろを振り返る。キノカの視線の先では、べガルアスが赤い溜め池に身を浸らせている。
「幸福を増やすためだからといって、誰かを傷つけることが赦されるわけじゃない。誰かの苦しみを犠牲に築く幸せなんて、わたしは絶対に認めない」
「至極もっともな意見だ。余に反論の余地はないよ」
と、あろうことか、べガルアスは寝返りを打って仰向けの体勢を取った。
「そんなはずは……」
まだ再生すると言うのだろうか。
そんな懸念からぞぞっと全身が粟立つが、しかしそれは杞憂だとすぐに理解が追いつく。
「はは、驚いたな。てっきり汝の妹君は夭折したものだと思っていたんだが」
こほこほと咳き込み血反吐を散らす。
べガルアスの双眸からは普段の研磨直後の刃物のような鋭さはまるで感じられず、かすかに揺らぐか弱いふたつの光は、消えかけの蝋燭を思わせた。
ツキクサは確信する。
まもなくべガルアスは息絶える。
「誰も命を落としたとは言っていないよ」
ツキクサが言い返すと、べガルアスはふっと相好を崩した。
「老獪なヤツよ」
つぶやき、首を傾けてツキクサとキノカに視線を向けてくる。
「すまぬな、ふたりとも。物騒なことをしてしまって」
眉根を寄せて、心の底から申し訳ないと思っているような顔で、べガルアスは謝罪の言葉を口にした。
「モモエと……誰だったかな、拳銃使いの少年と戦斧を背負った少女にも余の非礼を詫びたい。申し訳なかった」
真摯な想いの込められた謝罪だった。
レンとカリナとモモエは、理解できないとばかりに目を瞬かせている。
しかしツキクサとキノカは動じず、その言葉を受け止めていた。
ふたりは、べガルアスという人物を理解していたから。
「なにも恨みがあったわけではないのだ。だが相反する信念を前に、余と汝らは戦わざるを得なかった」
微笑み混じりに続ける。
「難しいものよな。慈しみだけでは世界は回らぬ。憎悪や怨嗟とて必要なのだ。……しかし、どうやら余はさじ加減を間違えていたようだな。死に際になってようやく自覚するとは、余もまだまだ未熟なものよ」
「陛下……」
しょんぼりとキノカが肩を落とす。
憂えた顔からは強い後悔が感じられた。
「そう自分を責めるな、ツキクサの妹よ。汝は余という悪を成敗することで、自らの正当性を示したのだ。誇りなさい。立派な偉業を成し遂げたのだよ」
「で、でも……もしかしたら、別の道があったかもしれないし――」
「兄に似て妹も甘いな」
頬をかすかにほころばせて、べガルアスはツキクサに視線を向けた。
「ツキクサ。余の最期の頼みを聞いてくれぬか?」
「聞くだけ聞いておこう」
「はは、汝にも人間らしい一面があって余は安心だよ」
こほっとひときわ強く咳き込むと、べガルアスは清々しい笑みを湛えて天井を見つめた。
「余が亡くなれば、リバルが国王となるだろう。だが、あやつはまだ青い。動顛した民に安らぎを与えることも、今の政治情勢を保つことも、あやつひとりではできぬ。だからツキクサ、しばしの間でいい。あやつに手を貸してやってはくれまいか?」
死の間際だ。もっと言いたいことがあるはずだ。
この瞬間が楽しかった。こんなはずではなかった。
多くの人が最期に現世に残す言葉は、そのどちらかだろう。
しかしべガルアスは幸福の記憶に縋らず、怨嗟を吐くこともなく、ただただ国民の幸福を憂えた。偽りのない愛国心を見せた。
そこにいたのは、紛れもない王だった。
「……あぁ、まかせてくれよ。俺はあなたの〈特別国政補佐官〉なんだから」
「ありがとうツキクサ」
両眼から光の粒を滴らせ、柔らかく優しさに満ちた笑みを湛えてべガルアスは言った。
ツキクサは奥歯を噛み締めた。宿敵がまもなく事切れてキノカを救う瞬間が訪れるというのに、胸を満たすのは喜びよりも大きな哀しみだった。
「妹と末永く幸せにな」
そう言い残し、べガルアスはそっと目を閉じた。
そのまぶたが再び持ち上げることはなかった。
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