第38話 勧誘

 黒い液状の物体。


 それが〈祝福の日〉以降のキノカの姿だった。


 そう知れたのは、ツキクサに相手の〈エボルブ〉を見抜く力が宿ったからだ。この力がなければ、ツキクサもキノカが亡くなったと思っていたことだろう。


 キノカの生存を知るのは世界でただひとり、ツキクサだけだった。連綿と不幸が押し寄せる人生に舞い降りた奇蹟だった。


 ツキクサは妹が異形の姿を保ちながらも生きていることに感謝し、なんとしても妹を元の姿に戻すと決意していた。まだ七歳の頃だった。


〈祝福の日〉が訪れてから半年が経ったある日のこと。


「こんにちは」


 家にひとりの女がやってきた。女はパリッと糊の効いた軍服のようなものに身を包んでいた。


 相対するツキクサの衣服は、薄汚れたみすぼらしいものだった。

 身なりに気を遣う金銭的余裕などなかった。〈祝福の日〉を境に、子を捨てた罪悪感からか毎月欠かさず送金されていた両親からの仕送りがぴたりと止まり、幼いツキクサを雇ってくれていた羊飼いのおじさんが〈祝福の日〉に命を落としたために職を失い、そんな中でも社会が不安定になるにつれて青天井に物価は高騰し。

 その結果、ツキクサは節制を強いられていた。


 キノカはなにも食べなくても平気なようで、けれども食費が浮いたことに対する喜びは少しだって湧き上がらず、むしろ食事をひとりでする度に寂しさが胸を傷つけてきた。涙で視界が滲んだ。

 それでも食事しないと生きられないから、ツキクサは毎日空腹を満たした。


「私は〈輔弼連合〉に所属するものです」


 世界平和を目的に活動する慈善団体とのことだった。知らない団体だった。

 ツキクサにその一員になってもらいたいと思い、やってきたのだという。


「あなたは素晴らしい才能に恵まれました。その才能を、是非とも世界平和のために生かしていただきたいのです」


 胸に手を添え雄弁に語る仕草は様になっており、反射的に「わかりました」と答えてしまいそうになった。


「妹さんを救いたいのでしょう?」

「っ!」


 キノカは戸籍上死去したことになっていた。ツキクサは何度もキノカは生きていると役所に抗議しに行ったが、その度に「現実を受け入れなさい」と大人に優しく諭されて追い返された。


 その当時のキノカは自身の〈エボルブ〉をうまく扱うことができず、液体形状を保つことしかできなかった。いっしょにいるが、コミュニケーションは取れないという状況だった。


「……あぁ。救いたいよ」


 キノカは生きていると反駁したところで、おざなりに扱われた挙句に憐れまれるのが目に見えていた。その一連の流れがツキクサは嫌いだった。


 ツキクサが打ち明けた想いの丈に、女は柔和な笑みを湛えて深々と頷いた。


「あなたがどのような不幸に見舞われたか、我々は把握しております。〈輔弼連合〉に所属した暁には、高品質な衣食住の提供と共に多額の報酬を支払うことを約束しましょう」

「そんな特別な待遇をするほどに、俺はあんたらにとって価値ある存在なのか」


 あまりに出来過ぎた話だった。裏があるとしか思えない。


「はい。我々にとってあなたは看過できない特別な存在です」


 看過できない。

 どうも不自然な表現に思えたが、口を挟まず話に耳を傾ける。


「あなたが欲したものであれば、我々は可能な限りどのようなものでも用意する所存です」


 滔々と紡がれた言葉に、一切の誇大や偽りはないように思えた。


「また〈輔弼連合〉に十年勤められました暁には、あなたのどのような願いも叶えましょう」


 言って、女は懐から何色もの輝きを放つ小さな結晶と小包みを引っ張り出した。

 包みを開くと、中には蝶が収められていた。傷ひとつない美しい両羽を持ち、しかし蝶はぴくりとも動かない。羽根も触覚も動かない。息絶えていた。


「こちらをご覧ください」


 女は摩訶不思議な光沢を宿す結晶を蝶に押し当てた。

 すると、蝶がむくりと身体を起こし、空に羽ばたきはじめた。


「……」


 目を疑う光景だった。

 死骸だったはずの蝶が、ぱたぱたと軽快に空を駆けている。


「これは〈祝福の欠片〉と言います。どのような願いも叶えることができる代物です」


 胡散臭いと思っていたが、こうして奇蹟を目の当たりにしては信じざるを得ない。


 女がすっと、手のひらを見せてきた。そこには枝木で切り裂かれたような傷が複数刻まれており、赤黒い血がじんわりと滲み出ていた。


「この傷は、願いの代償です。蝶を蘇生した代償として、私の手のひらが傷つきました」


 女の話はあまり頭に入ってこなかった。早く聞きたいことがあったからだ。


「キノ……人を生き返らせることもできるのか?」


 食い気味に尋ねると、女はこくりと頷いた。


「はい。可能です」

「なら――」

「しかし、多くの犠牲が伴います」


 ぴしゃりと女は言った。


「〈祝福の欠片〉により享けた奇蹟を〈祝祭〉と言うのですが、〈祝祭〉は奇蹟を与えると共に代償を必要とし、願いの規模が大きなものであればあるほど、多大な犠牲を必要とします」


 ポケットからハンカチを取り出し、傷ついた手のひらを抑える。白いハンカチはみるみる血を吸い込み、瞬く間に深紅のハンカチとなった。


「蝶一匹でこれだけの深手を負うのです。果たして人間を蘇生したらどれほどの犠牲が伴うのか。前例がないのではっきりとは言えませんが、人の命が犠牲になるのは間違いないでしょう」


 それもひとりでは済まないような気がする。根拠はないが、そんな気がした。


「代償なしに願いを叶えることはできないのか?」


 そんな虫の良い話はないだろうと思いつつも尋ねると、意に反して鷹揚な頷きが返された。


「世界全土に散らばる〈祝福の欠片〉をすべて集めて完全なものとすれば、一切の代償を伴うことなく願いを叶えることができます」

「けど、十年でその〈祝福の欠片〉ってヤツが全部集まるっていう保証はないだろ?」


 先ほど女は、〈輔弼連合〉という場所に十年勤めればどんな願いも叶えると言っていた。


「幼いのに聡明なのですね」


 くすっと女は妖艶に微笑んだ。


 なにも聡明なわけではない。ただ疑り深い性格というだけだ。


 それにこの女からは、自分とキノカを捨てていなくなった母親と同じ匂いがする。


 だから、警戒を怠ってはいけない。

 ツキクサの選択で、キノカを危険な目に遭わせるわけにはいかない。


 後ろを振り返ると、ベッドの下で黒い影が蠢いていた。ツキクサは微笑みを向け、しかし前を向き直れば、七歳とは思えない峻厳たる面持ちで女と対峙していた。


「〈祝福の欠片〉をすべて集めれば、願いはいくらでも叶えることができます。ですので我々に手を貸していただけませんか? あなたにとっても悪い話ではないはずです」

「わかった」


 逡巡なく返事をすると、女はぱちぱちと瞬きを繰り返した。


「よろしいのですか?」

「誘いかけてきたのはそっちの方だろ。それに俺も、ちょうどいい寝床を求めてたんだ。食事はもちろん三食あるんだよな?」

「もちろんでございます」

「決まりだ」


 このまま餓死するよりはマシな選択だろう。

 同世代の多くが通う学び舎にも、自分はお金がないために通えないのだ。月並みの子ども時代を送ることなど端から諦めている。


「はい。確かに契約いたしました」


 にこりと崩された相好は、機械染みていて怪しくて。


 だから完全に信頼しきらず、心の内側には常に疑念を忍ばせておこうと、ツキクサは張りつけた微笑みの裏で決意した。


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