第35話 恩返し

 幼少期からの鍛錬によって培われた身体能力。戦闘に特化した〈エボルブ〉。それらを基幹とするツキクサは、長らく「絶体絶命」という状況に追い込まれたことがなかった。


「ははッ! どうしたどうしたッ! 避けてばかりでは追撃の手は止まらんぞッ!」

「くッ――」


 重く鋭く、ちかちかと明滅する閃光のような連打は、もはや軌道をほとんど視認することもできない。吹きつける風圧と攻撃の直前に瞬く先端の輝きだけを頼りに、ツキクサはなんとか攻撃をいなすことができていた。


『万夏』とふたりでやっとという状況だった。


 モモエ戦のように『万夏』が仲間を守ることに徹していたのならば、既にツキクサは絶命していたことだろう。べガルアスが一対一を望んだことだけは、この絶望的な状況下で唯一幸運と言えることだった。


「はあッ!」


 トンファーによる乱打が止まったかと思えば、流麗な軌道を描く三日月蹴りが迫りくる。接触寸前にやや後方に身を退き回避する。

 ――が、べガルアスの攻撃の手は緩まない。宙を切った足を瞬く間に軸足に変えて、槍のように鋭利な前蹴りを放ってくる。


「かはッ……!」


 爪先がツキクサの肺腑を捉えた。激痛が全身を迸り、腹部から喉元にかけて熱い感覚が込み上げ、軽い呼吸困難に陥る。


 思わず身をかがめると、眼前にトンファーが迫っていた。


 ――躱せない。


 致命傷を避け最低限の負傷に抑えようと首を傾けると、頬を掠める直前に『万夏』がトンファーを弾き飛ばした。


「ほう」


 弾かれたトンファーに引き寄せられて、べガルアスはやや体勢を乱す。それを好機と見たのか、『万夏』は鞘から飛び出し、べガルアスの喉元に直進する。


「ダメだッ!」


『万夏』の柄を掴み、ツキクサは手元に引き寄せる。なにがあっても、『万夏』でべガルアスを傷つけるわけにはいかない。


 ベガスアスは哄笑する。


「対峙した相手の〈エボルブ〉が咀嚼できるというのも酷なものよ。知らないままなら、こうも醜く足掻くこともなかったろうに」


 べガルアスの俊敏な動きは人間の域を優に超えているが、しかしそれは〈祝祭〉による恩恵にすぎない。〈祝祭〉を享けた人間の身体能力が飛躍的に向上するという事前知識はあったが、まさかこれほどのものとは思っていなかった。


 それだけならまだ太刀打ちできたかもしれない。現に今も、『万夏』で決着寸前にまで追い込んでいる。


 しかし、あのままべガルアスの喉を裂いたとしても彼は絶命しないのだ。


 べガルアスの〈祝祭〉の真価は不死の力――にある。


 防戦しながら一度腕を掠める反撃を見舞ったのだが、浮かび上がった真紅の直線は瞬く間に肌色に塗り替わった。そしてその真紅の直線は、代わりにツキクサの腕に浮かび上がった。


 この現象を引き起こしているのが、べガルアスの〈エボルブ〉。


「超再生に加えて、万物を反転する〈エボルブ〉。加えてそれらは、僕の〈エボルブ〉で無効化できないときた。正直、勝機が見出せずに困っているよ」


 先の『万夏』の一幕に限らず、反撃可能な瞬間は何度か訪れている。しかし、べガルアスの〈エボルブ〉がそれを阻む。

 結果として、ツキクサは劣勢に陥らざるを得ない状況にあった。


「ならば諦めたらどうだ。既に満身創痍であろう」


 べガルアスの言う通りだった。右の視界は完全に閉ざされていて、ひっきりなしの戦闘で身体は疲弊しきっている。


「そうは……いくかよ」


 それでも、ツキクサは立ち上がった。


 掠めた斬撃で制服は何か所も破け、頬や腕から鮮血が滴り、胸の内側では熱く燃え盛るような不快感がわだかまっている。


 それでも、立ち止まれない。


 立ち止まることは許されない――。


「キノカを救うって約束したんだ」


 最愛の妹のためと思えば、どんな苦難も逆境も乗り越えられた。


「そのために、今日まで生きてきたんだ」


 その瞬間は、あと少しで手の届く場所にまで迫っている。


 遥か頭上で瞬きつづけている極彩色の立体ひし形結晶――〈祝福の欠片〉。


 あれを掴み、権利さえ手にすれば――


 取り戻せる。


 大切な家族との日常を取り戻せる。


 あたたかな日々を過ごすことができる。


「こんな、ところで……あと、一歩のところでッ!」


 身体に鞭打ち鼓舞するように気持ちを声に出し、奥歯を強く噛み締めてべガルアスを睨み据える。


「諦めて堪るかッ!」


 ツキクサの決意に、べガルアスは微笑で応えた。慈愛を感じさせる柔らかな微笑みだった。


「なるほど。汝のいう平穏な日々とは、妹と過ごす日々を指していたのだな」


 言った直後、べガルアスの姿が消えた。


 否、目にも止まらぬ速さでツキクサの背後に回っていた。


「ならば、天上で妹との平穏な日々を過ごさせてやろう」


 横目に迫りくる切っ先が見える。腕を持ち上げ防ごうとするが、蓄積された疲労が祟ったのか、腕が言うことを聞かない。


「……ッ!」


 ぴくぴくと痙攣する腕に、それでも動け動けと念じてやっと動いた。が、『水鳴』で攻撃を防ぐのは厳しいだろう。闇雲に剣を振り上げず、ツキクサは冷静に思考を巡らせる。


『水鳴』で応戦することはできない。『万夏』なら応戦できたかもしれないが、攻撃を封じるためにツキクサが握り締めてしまっている。

『秘技』も、この状況においては頼ることができない。


 となれば回避しかない。


 上半身をやや前に倒し、なんとか場を繋ごうと試みるが――


「幕引きだ」


 憔悴した身体に、ツキクサの意思を完璧に遂行する余力は残されていなかった。


 意思の伝播がコンマ数秒遅れた。その数秒は致命的だった。


(くそ……)


 まもなくトンファーはツキクサの側頭部を捉える。先端の尖ったそれが頭部を穿てば、命を落とすのは必定だろう。


 これまでか。


 胸の内側から諦観の念が込み上げる。


「ごめんなキノカ」


 つぶやき静かに目を閉じると、すぐに突風が髪を切り裂いた。痛みは襲ってこなかった。


「ぐッ……」


 その苦悶の声は、ツキクサではなく、べガルアスの口から漏れ出たものだった。



「演技とはいえ、一度助けてもらいましたからね」



 それは、相手との実力差を誰よりも理解しているはずの少女――モモエの声だった。

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