第8話 感情

「おにーさんっ」


 ツキクサは淡交に努めている。〈エデンの塔〉の期間だけ築かれる限定的な付き合いと雖も、離別には常に郷愁が付き纏うものだ。故に関わりから忌避していた。


 ――情。


 それが悲願を遂げるに即してなにより弊害となり得るものだと、ツキクサはこれまでの経験から深く学んでいた。


「驚いたな。てっきり辞退したものだと思っていたよ」


 が、無視して傷つけるのも申し訳ないので、食事の手を止めて弾んだ声に応じる。

 

 トレーを置いて差し向かいに腰掛けた少女は、知らぬ存ぜぬの他人ではない。

 稚さに象られた容顔。ふたつに結わえられた淡紅色の髪。

 そして、トレードマークとも言えるウェイトレスめいた衣装。


「実を言えば私もそうするつもりだったんですけどね。けど、なんて言いますか、その……湧き上がる欲望に屈してしまって……」


 第一試練でツキクサが助けた少女だった。


「恥じることはないよ。君意外にも同じ理由で進むことを選択した参加者が大勢いるはずだ」


 その根拠に、階段を登る前と登った後とで参加者の総数にほぼ変動はなかった。


「スパゲッティ、お好きなんですか?」

「あぁ。塩スパゲッティが好物なんだ」

「はは、せっかくの機会なんですから、もっといいものを食べればいいのに」


 美味しいものを食べたいという欲求は、ここ十年ほどツキクサの中で湧いていない。


「この先も、あのような試練が続くんですかね?」


 少女の前に置かれたトレーには、スイーツがこんもりと盛られている。ショコラ。マカロン。タルトレット。カヌレ。マシュマロ。ガトーショコラ……。


「恐らくね」


 その幸福の代償に命を賭けている。

 遅かれながら自身の軽はずみな選択の重さを痛感したのか、スイーツの山に降りかかる失意の雨はなかなか上がる気配を見せない。俯き、無言で、少女は浅はかな自分にお灸を据えるように身を縮こまらせている。


「後悔したってなにも変わらないよ」


 スパゲッティをフォークに絡めてツキクサは言った。


「反省したって、過去の過ちが帳消しになるわけじゃない。それに、この選択によってもたらされたのはなにも不幸だけじゃない。しっかり幸福という対価を得ている。だから今は幸福を堪能しようよ。次は間違えなければいい。簡単な話じゃないか」

「おにーさん……」


 少女はしばし逡巡するようにスイーツを眺め、やがてええいままよとばかりにフォークをカヌレに突き刺した。そのままの勢いで、豪快に一口で頬張る。


「んん~っ、おいっしい~!」


 嵐が去って虹がかかるように、少女は華々しい笑みを浮かべた。


「おにーさんおにーさんっ、これものす~っごくおいしいですよっ! 一口食べませんか?」


 新しいカヌレにフォークを突き刺し、ツキクサの口元まで運んでくる。


「遠慮するよ。スイーツは自制しているからね」

「そうストイックなこと言わず、がんばった自分へのご褒美だと思って」


 光を吸い込み光沢を帯びる芸術めいた漆黒の円錐台。漂うまろやかなビターの香りが食欲とは別の欲求をじわじわ刺激してくる。が、


「悪い。その要求は呑めない」


 、スイーツに限らず食事で満足することは許されない。


「そうですか……」


 至極残念そうにつぶやくと、少女はカヌレからタルトレットにフォークを差し替え頬張る。失意に翳る幼さを残した顔は、瞬く間に至上の微笑みに転じた。なんとも切り替えの早い。


「私、モモエって言います。おにーさんはなんていうんですか?」

「……ツキクサだ」


 名乗ることに抵抗を覚えたのは、名乗ったところで募るのは虚しさしかないと感じたからだ。モモエと名乗ったこの少女が今後の試練で生存する確率は、ツキクサが思うに極めて低い。


「ツキクサさんは、どんな野望を胸に試練に挑まれているんですか?」


 食事のつまみ程度の感覚で話題を切り出している風だった。


「失われた日常を取り戻すこと。それが僕の叶えたい願いだよ」

「へぇ~、壮大ですねぇ。現状に不満を抱いているんですか?」


 レスポンスが速い。ほわほわした印象に反して、この子は機転が利くのかもしれない。


「不満というよりは、変化する前の世界が好きだったというべきかな。〈祝福の日〉が訪れる以前の、誰もが人間のままでいた世界。僕はその世界が好きだった。だから取り戻したいんだ」

「なるほど。……でもツキクサさん、〈エボルバー〉ですよね? 仮に〈エボルブ〉がなくなったとして。そのことを名残り惜しいとは思わないんですか?」

「かつての日常を取り戻せるのなら、どんな犠牲も厭わないよ」

「優越感には一切興味なしですか。……やっぱり優しい方です。普通はそうはいきませんよ?」


 お気に召したのか、モモエはひとえにショコラを食べ続けている。ショコラが一向に減らないのは、彼女が〈エボルブ〉を使っているからだ。

〈エボルブ〉でお菓子を増やす。平和的な力の使い方に、ツキクサは頬を和らげる。ごくりと喉を鳴らし、微笑んでモモエは言った。


「ちなみに私は、スナック菓子を再び普及させたくて〈エデンの塔〉に参加しました」


 科学進歩に伴い、かつては高級菓子と呼ばれていたものが容易に製造できるようになった。そのために安価となり、安価が売りのスナック菓子は気が付けば市場から姿を消していた。


「ツキクサさんの大志とは比べるに値しない幼稚な願いですけど、私だけ黙秘するというのはフェアではありませんからね。念のため伝えておきました」

「いいや、立派な願いだと思うよ」


 同情でも社交儀礼でもなく、ツキクサは心からそう思っていた。


「どんな願いも等しく大切なものだよ。〈祝福の日〉は世界を大きく進歩させた反面、多くの宝ものを奪い去っていったからさ。……与えられるだけならよかったのに」

「ツキクサさん……」


 気遣わしげな声に顔を上げると、モモエが眉尻を下げて瞳に戸惑いを宿していた。


「悪い。至福のひと時に水を差すような真似をしてしまって」

「いえ、元を辿ればこの話題を切り出した私が悪いんです」


 気持ちを切り替えるように頬をほころばせて、モモエは言った。


「がんばりましょう、お互い」

「うん。がんばろう」


 もしも、モモエが最後のひとりまで残ったとして。

 そのとき、自分は躊躇いなく彼女に剣を突き立てることができるだろうか。


「うぷっ、も、もう限界……このカヌレ、どうしましょう? ツキクサさん食べます?」

「勿体ないが処分しよう。次からは食べきれる分だけ取るように」

「ごもっともな窘めです。……カヌレさんごめんなさい。少し胃袋を過信しすぎました」


 しょんぼり肩を竦めるモモエに、ツキクサは一切の感情を排した上辺だけの笑みを向ける。

 やはり情こそ、なにより懸念すべき難敵のようだ。

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