第7話 扇動
死屍累々。
そう形容するに相応しい惨状だった。
――参加者の半数以上が、〝死〟という形での脱落を余儀なくされた。
第一試練終了後、まっさらの紙に指名と〈エボルブ〉を記載して階段を登るよう指示された。試練終了と同時にフェンスが持ち上がった先にある階段手前の通路に、長机が並べられていた。ペンは机上に置かれていた。ペンの本数は目に見えて攻略した参加者の総数よりも少なく、けれども予め試練時間外に暴力行為を働いた場合はその時点で〈エデンの塔〉に参加する権利を剥奪すると忠告されていたため、血飛沫が上がることはなかった。が、ほとんどのペンの持ち手に、生々しい血痕があった。
「おええぇ!」
吐瀉物をぶちまける少女がいた。介護する人はいなかった。誰もが自分のことで手一杯といった様子だった。
「大丈夫?」
「は、はい。あ、ありがとうございます」
ツキクサは嘔吐した少女に肩を貸して階段を登った。
二十段ほどの階段を登り切ると、ダンスホールを想起させる煌びやかで広々とした空間がツキクサを歓迎した。
しかし、鼻腔をくすぐる芳ばしい香りとずらりと並んだ机と椅子が、この場所は別の目的で使われているのだと強く主張する。
等間隔に並ぶ吊り下げタイプの照明が淡いオレンジを放つ先では、豪勢な料理がこれでもかというほどの小山を築いて佇んでいた。
集団の上で停滞していた暗雲が霧散したような気がした。
「うっひょっ、うまそうっすねぇ~」
肩を貸している少女が、弾んだ声で興奮を露わにする。
日常的に王城で高級料理を目にしているツキクサは豪勢の一言で片づけて平静を保てるが、大多数の参加者はそうはいかない。ありふれた日常生活の中ではまずお目にかかれないであろう、華々しい料理の数々は、意識を完全に絡めとっていた。
誘惑が彼らの思考を鈍磨させているのは、表情を見れば一目瞭然だった。
「……」
胸にわだかまりを覚えつつも、その鬱積がツキクサからまろび出ることはなかった。
「第一試練攻略、おめでとうございます」
どこからともなく現れた運営が言った。慇懃に頭を下げると、右手を上げて続ける。
「こちらはクーリングダウンフロアとなっております。皆様のいらっしゃるこの部屋はレストランルーム。ルスティカーナ随一のシェフの方々が作られた料理の数々を、ビュッフェ形式でお楽しみになることができます」
ざわざわと色めき立つ参加者一同。
扇動の跫音がすぐそこにまで迫っていることに勘づいている参加者が、果たしてどれだけいるのか。
「ほかにも、フィットネス、エステサロン、スパ、バーをはじめとする一流の娯楽サービスをご用意させていただいております」
部屋の奥にある巨大なスクリーンに映像を投影し、リアリティを補完することで興奮を煽る。
「これらはいずれも、第二試練に挑戦される方にのみ無償で与えられる特権となっております」
浮足立たせてまともに思考する精神的余裕を奪った上で二者択一を迫る。
「先ほど書いていただきました書類を我々運営に渡すことで、皆様の第二試練への挑戦権と、挑戦期間中のサービス提供権が受理されます」
果たして今、第一試練の悲劇を脳裏に浮かべている人がどれだけいるのか。
第二試練は忌避したいと強く願っている人がどれだけいるのか。
「また、辞退される方につきましては入り口付近に〈転移装置〉を用意しておきましたので、そちらからお帰りください」
その一握り程度の運営の善意を、忠告を、どれだけの人間が危機的なものとして捉えたか。
「大したアジテーターだよ」
ぼそりと、ツキクサはつぶやいた。
完璧だった。
表情。語り口調。演出。
すべての面で文句のつけようのない完璧な意識誘導だった。
話を締めくくった直後、大勢の参加者が運営に押し寄せるのは必然と言えた。
「自分ももう一試練だけ、トライしてみようかな」
肩を貸している少女がぽつりと言った。
「料理もサービスも、この機会を逃したら金輪際縁がなさそうなものばかりだし……」
「――その代償で未来が潰えるかもしれないよ」
危険が待ち構えている。そう理解した上で自ら進むことを選択したのなら、ツキクサはなにも言わない。自分の命をどう使おうが自分の勝手だ。
「それでも、君は次の試練に臨むのか?」
けれども、現状においては多くの参加者が一時の感情にあてられて命を賭けることをよしとしている。幸福とも不幸とも向き合って結論を導き出しているのではなく、不幸に暗幕がかけられて、幸福しか見えていない状態で、結論を導き出している。
これは二者択一ではなく、選択の強制だ。
「……あー」
だから口を挟んだ。
このやり方は気に食わない。ツキクサのモットーに抵触する。
「自分、まだ十六なんで、大した実績も残さず夭折するのはちょっとなぁ……」
「だったら辞退することを勧めるよ。一時の感情で物事を正確に推し量ることはできない。感情任せにする選択は、たいていが間違いだからね」
「そうっすよね、はい」
思考が正常な歯車と噛み合ったようだ。危うく死に急ぐところでした、と言って笑んでいる。
「ありがとうございます銀髪さん。おかげで骨ではなく命を拾うことができました」
「どういたしまして。〈転移装置〉までひとりで歩けるかな」
「あ、はい。もうだいじょぶぐっじょぶです」
ぐっとサムズアップしたのち、少女はへへっと面映ゆそうな微笑みを漏らした。
「すいません。銀髪さんがやたらとカッコいいんで、つい甘えたい衝動に駆られてしまいまして。感情に流されるまま、体調が整っているのに身体を預けてしまいました」
久しく手入れされずに雑然と生い茂った草木を思わせる金糸の髪をくるくると弄ぶ。前髪が長すぎて、瞳はほとんど見えない。
「ほら、自分って見るからに気持ち悪いじゃないですか。社会における私の立ち位置って、たぶん雑草とか微生物と相違ないんすよね。誰かに強く必要とされてるわけでもないし……。ですので、この機会に一生接点がないであろうイケメンさんの薫りを堪能しておこうと思った次第です。最高でした。ゴチです。そしてすいませんでした。ボロ雑巾の分際でイキがりました」
ぺこぺこ頭を下げてくる。
「そんなことないよ」
「え」
前髪を一房掴んで掻き分けると、きょとんとした紅玉めいた瞳がツキクサに向けられていた。
「綺麗な瞳だ。髪だって、整えれば道行く人が振り返るほどの美しいものになる。内面も素敵だよ。こうして僕に正直な気持ちを打ち明けて、感謝を伝えることができているんだからね」
「ちょちょ、な、ななななんすかいきなりっ! ほ、褒めちぎりとかやめてくださいよっ!」
顔を真っ赤にして目をぐるぐるさせている。
感情がころころ変わるのも、魅力として光るのではないだろうか。少なくともツキクサは、キノカの天真爛漫さを好いていた。
「自信の有無で人は見違えるほどに変わるものだ。君の恵まれた容姿に自分を肯定する自信が加われば、白月の下で舞い踊り人々を魅了する蝶のように、皆が一目置く存在になると思うよ」
「い、言いすぎじゃないすかね?」
「お世辞を言っているつもりはないが?」
「っ! ……あーはいはい、わかりましたわかりましたからっ」
顔を片手で覆い隠し、もう片方の手を胸の前でぶんぶん忙しく左右に動かす。
「……私、今日で卑屈キャラ引退します。それでいいっすよね?」
「うん。それがいいよ」
ふぅと長い息を吐き出すと、少女は前髪をくしゃっと掻き上げた。微笑んでいた。
「重ね重ねになりますが、ホント感謝です。……私、アリスって言います。また別の場所で巡り合えたら、ちょいと相談に乗ってくれたりとかしてくれませんかね?」
「うん。構わないよ」
「おっ、マジすか!」
弾けるように破顔した。
「やたっ、人生初の逆ナンでイケメン釣るって、さては自分、そっち方面の才能が……」
言ってる途中ではっと顔を上げてツキクサと視線を重ねると、すぐに目を逸らしてもじもじ長い前髪を弄びはじめる。
「すいません、自分、ぼっち故に独り言が多く思い込みが激しい質でして。……ルスティカーナの東区にある酒場で働いています。といっても、裏方でエール用意してるだけなんすけどね。……私は、エールとか不向きな笑エール日陰の人間っすから」
ちらっと探るような視線を向けてきた。
「ん。どうかしたかな」
なにを求められているのかわからず首を傾げると、アリスは「……はは、死にたい」と涙目で俯いて嘆いた。悲観的な子だと思った。
「それはともかくです」
こほんと咳払いし、気を取り直す。
「基本朝から晩まで働いているんで……まぁ、その、気が向いたらでいいんすけどね? 足を運んでくれたら自分、ウサギみたくぴょんぴょん飛び跳ねて喜んじゃいますよ」
「少し大袈裟なんじゃないかな」
「いやいや、自分、嘘とか生まれてこの方ついたことありませんから」
こんな風にと言って、口頭で説明されたことをわざわざ実演してくれる。ウサギのモノマネを終えると同時に、アリスは頬を真っ赤にして「殺してください……」と嘆いていた。喜んだり落ち込んだり忙しい子だ。
「じゃ、ここらでお暇します。銀髪さんは次の試練にも参加されるので?」
「うん。叶えたい願いがあるからね」
「そっすか。では、自分は草葉の陰からこっそり応援してます」
そうだ、と手を叩き、アリスは紙の裏面に持参したペンでなにやら文字を走らせはじめる。
「……」
なぜ、はじめからそのペンで文字を書かなかったのだろう。そうすれば、嘔吐することもなかっただろうに……。
できた、と言って手渡された紙には、住所が書かれていた。先ほど言っていた酒場の住所だ。
「人間忘れっぽいものっすからね。念には念をってやつです」
「ここまでされたら出向かないわけにはいかないな」
「いやいやいやいや、別に強制しようとか退路を塞ごうとかそういう作為的なものは一切全然これっぽ~っちもないんすんよ?」
嘘をつけない素直な性格のようだ。瞳がおろおろ忙しなく泳いでいた。
「では銀髪さん、また後日」
「あぁ。気をつけて帰るんだよ」
「はは、過保護すっねぇ。銀髪さんはお兄さんに向いてますよ」
「……」
向いてるもなにも、ツキクサは正真正銘、兄だ。けれど反論はしなかった。
笑顔で手を振るアリスが〈転移装置〉に乗って姿を消したところで、ツキクサはピークの去った受付場に足を運んだ。書類を渡して受理が済み、個室のカードキーが手渡された。
「もうすぐだからな」
そう決意を口にするのはこれで何度目のことか。
約束を守りアリスの酒場に行くためにも、〈地下〉にいる彼らを救い出さなくてはならない。その瞬間までは、国王の言いなりに、国家の犬に擬態しなくてはならない。
〈特別国政補佐官〉ツキクサとして活動する日々に終止符が打たれる日は、そう遠くない未来にまで迫っている。腰に携えた『水鳴』の奥にある剣の柄をそっと撫でて、ツキクサは歓喜の濁流に呑まれる食堂へと足を進めた。
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