第4話 第一試練

 目を開くと、まず困惑する参加者の姿が目に映った。

 見渡せど見渡せど、視界に収まるのは参加者の姿ばかり。視線を少し上に向ける。見渡せど見渡せど、視界に収まるのは塔の外周を象ったような白い壁ばかり……と、一部分だけ軌跡が断絶している部分があった。

 金網のかかった縦長の矩形。

 その奥の暗がりに、おぼろげながら階段が確認できる。上の階に続く階段だ。


(ここが会場か)


 極端に広く、しかしなにもない空間だった。


 ポケットに丸めて入れていた白紙の紙を引っ張り出す。両面まっさらな紙。

 第一試練で必要になると言っていたが、はて、どのように活用するのか。まるで使用用途がわからない。


これまでの経験上、抜き打ちでペーパーテストを実施するなんてことはありえないだろう。ツキクサとしては、そうなってくれた方がありがたいが……と、喧騒をかき消す殊更に大きな声が響き渡った。


「本日は〈エデンの塔〉に参加していただきありがとうございます」


 運営からのアナウンスだった。


「皆様にはこれから、事前に告知した通り試練に挑戦していただきます。尚、開始前に一分ほど〈転移装置〉を用意いたしますので、気が変わって辞退したくなった、という方はそちらからご退場ください」


デスゲームかよ、と、参加者の誰かが冗談めかしてぼやいた。


その通りだ。〈エデンの塔〉は攻略不可のデスゲーム。辞退すればあたかも生還できるような言い回しをしているが、残念ながらそうはならない。頂上にある〈転移装置〉以外が転送する先は、決まって〈地下〉だ。

 

 落ちたら最後。

 今後、陽の光を浴びることは叶わない。


「それでは、第一試練の内容を発表します」


 ごくりと生唾を飲み込む。体裁だけでも穏やかな内容を期待したい。


「第一試練は――受付の際に渡した白紙を三十分間、自分のものにしたまま終えることです」


 発表された直後、ツキクサは密やかな願いが潰えたことを悟った。


「先ほど渡した白紙を制限時間終了まで自衛した方を、第一試練の合格者とします」


 言わずもがな、第一試練の脱落者がもっとも多い。九割以上の参加者がここで脱落するよう、恐らく難易度は調整されている。少なくともツキクサが参加した前二回の〈エデンの塔〉では、大多数が第一試練で脱落――命を落とした。命を落とさずとも全員通過できる内容だったのに。


 今回も同じだ。


 ――白紙を持ったまま試練を終える。


 こう言い換えればわかりやすいが、この試練はそもそも参加者選別の役割を果たしていない。

 なにもする必要がないのだ。白紙を集めろとは言っていない。自衛しろとだけ言っている。


 単に言葉の綾で争いを煽っているだけなのだ。そして、それは冷静に考えれば誰でも気づけることだ。参加者のほとんども、そのことに気づいていた。誰も巧妙な罠だとは疑っていなかった。


〈転移装置〉が起動してからも、誰も辞退しようとはしなかった。第一試練がこの調子なら、残された三つの試練も恐れるに足らないと踏んだようだった。


〈転移装置〉が起動停止し、上空に3Dホログラムが浮かび上がった。

 ゆらりゆらりと、三百六十度踊るのはプルシアンブルーの四桁の数字。


「30:00」


 それはすぐに「29:59」となり、参加者一同は、ほどなくして試練がはじまったことを理解した。


「これが終わったら、次はなにすんのかな」

「ぬるいもんだな、こんなのが試練だなんて」

「おなか空いたぁ~、お昼ご飯しっかり食べてくるんだったなぁ~」

「ふぁ~早く終わんねぇかな」


 緊迫した空気が沈殿したのは一瞬のこと。すぐに弛緩し、先ほどまでと変わらない穏健たる空気が場に広がっていく。

 わいわいがやがや、世間話が飛び交う。談笑が飛び交う。笑顔が飛び交う。


「きゃあッ!」


 ――一筋の悲鳴が、幸福の音色をかき消した。


「……やはりこうなるか」


 集団から離れてひとり壁に背を預け、その瞬間に備えつつも杞憂で終わることを望んでいたツキクサは、ため息をついて壁から背を離した。


 束の間の平穏だった。遥か頭上できらめく数字に目を凝らせば、「28:47」を示している。安寧は一分と十秒ほどで淡く崩れ去り、代わりに絶望を引き連れてきた。


 平和はいつだって脆く、儚く、突拍子もなく崩壊する。ツキクサの人生を大きく揺らがせた、あの忌まわしき光の粒が降り注いだ日のように。


「――聞け凡愚どもッ!」


 静寂の中、その重く濁った声はよく響いた。


 参加者の視線が、吸い寄せられるように声の先に向かう。顎髭を蓄えた男がいた。手には血に塗れたナイフが握られていた。ツキクサの位置からは、はっきりと凶器が確認できた。


「殺せば殺した分だけ、後々の競争相手が減るッ!」


 男は短いナイフを上空に突き出した。切っ先から滴り落ちた鮮血が、純白の床に赤いシミを作った。雪の絨毯に、鮮やかな真紅の花が咲いたかのようだった。


「お前ら願いを叶えにきたんだろッ!? だったら仲良しこよししてる場合じゃねぇだろッ!」


 言って、眼下で四つん這いになり喘鳴する無抵抗の女性の背中にナイフを突き刺す。深々と突き刺す。女性の顎がかくんと上がり、絶命寸前の眼が偶然にもツキクサを捉えた。それは絶望から悲しみに、悲しみから涙に、そして徐々に光を失っていき――事切れた。


 森閑とする会場に、人間の頭部が無抵抗に床に叩きつけられるけたたましい音が反響した。刹那の沈黙を挟んだのち、誰かの嗚咽を皮切りに、夥しい絶叫と悲鳴が部屋にこだました。


「間違ったこたぁ言ってねぇだろ?〈祝祭〉を享けられるのはこの中のひとり。となれば、遅かれ早かれ殺し合うのが必定だ。甘いヤツは死ぬ。シンプルでわかりやすいじゃあねぇか!」


 男が狂喜めいた表情で口にしたことは、しかしなにも間違っていない。理路整然としている。

 だから質が悪い。

 それは混乱する参加者を煽り、扇動するのに充分な力を持っている。


 二人目の犠牲者が悲痛な叫びを上げた。続く同情の慟哭はなく、代わりに声にならない叫び声がどこかから上がった。追従するように絶叫が上がった。


 まるでドミノ倒しでもするように、不幸の音色は連鎖する。白い床に赤が目立ちはじめる。

 そこに数分前までの和やかな空気の面影はなく、今あるのは殺戮と狂気と絶望だけだった。


「少しだけ期待していたんだけどな」


 ツキクサはつぶやいた。

 眼前の凄惨な光景は予測の範疇であったため、焦りはほとんど生じなかった。が、失意の念は沸々と湧き上がっていた。すぐに押し殺した。邪魔な感情だから。


「こうなった以上は、暴力に頼らざるを得ない」


 腰に携えた二本の剣のうち、一本の剣を抜いて構える。

〈輔弼連合〉の名工がツキクサの身体能力や〈エボルブ〉を吟味した上で叩き上げた剣――『水鳴みずなり』。縹色の刀身が特徴的なのだが、その輝きは今、檜皮色の鞘に覆われて少しも垣間見ることができない。


 これでいい。刀身が参加者に露見することなく試練を終えるのが理想だ。

 なぜなら露見することは、誰かの命を奪わなくてはならない状況を意味するから。


 誰ひとり欠けることなく、第一試練を終えること。


 そんな夢物語が実現することを、心のどこかで期待していた。二度裏切られているのに、懲りることなく期待してしまっていた。

 迷いを払い、雑念を振り切るように、ツキクサは柄を握り締める拳に力を込める。


「一仕事するか」


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