第26話 誰でもない貴女
「マリーちゃーん!!」
ちゃーん、ちゃーん、ちゃーん……。
私の声は、ただただ虚しく木霊するだけだった。
数十分前、私たちが振り返った時には、マリーちゃんはそこにはもう居なかった。それからどれだけ探しても、マリーちゃんは見つからない。
何故か転移石も発動しない。なかなか見つからないことに、不安が大きくなってきた。
「……どうしよう。このまま見つからなかったら……」
涙が出そうになったけど、ぐっと堪えた。ここで泣くわけにはいかない。それに、泣いている場合じゃない。まずはマリーちゃんを見つけ出さないと。
うん、と頬を叩いて気合いを入れると、ひらひらと私の横を赤い何かが横切った。
「……え?」
それをよく見てみると、それは、赤く光った蝶────実際には存在しない、恐らく魔法か何かで作り出された蝶────だった。
その瞬間、最悪の想定が頭に思い浮かぶ。
いや、想定じゃない。これはもうすでに起こっているだろう。
何故ならこの蝶は────狂気姫が愛用していた技の一部だったからだ。
それに気づいた時、誰かが私を押し退けて走っていった。
「きゃっ!?」
その人は振り返ることなく、ただひたすらに走っていく。
顔は見えなかったけれど、私はその人が誰であるかを知っている。
その雰囲気、その気配を、忘れるはずがない。
でも、何で今ここに……。
そう思った瞬間、背後から薔薇の香りがふわりとした。
その香りに、思わずぞっとする。本能が警戒している。────これは危険だと。
恐る恐る振り向くと……やはりそうだ。
黒に近い灰色の髪に、深紅の瞳。
いつもと変わらない、マリーちゃんの姿。なのに、そこにいるのは彼女ではなかった。
「貴女、大丈夫? 手を貸すわ、はい」
そう言って差し出してきた手は、すでに血で塗りたくられていた。これは誰の血だろう。彼女だろうか、それとも、先程走り抜けていった人の血だろうか。
私が手を取るのを躊躇っていると、彼女は今更気づいたようにくふくふと笑った。
「あ、ごめんなさい……血塗れだったわね。はい、もう拭ったから」
「あ……ありがとうございます」
私がそう言うと、彼女は微笑んだ。
────この人は、誰?
マリーちゃんでも、狂気姫でも────マリア様でもない。
誰でもないようで、全員でもある。それが薄気味悪くて仕方がなかった。
彼女は、そんな私を知ってか知らずか、何も言わずに静かに歩き出していった。
「……っ、待って!!」
私がそう叫ぶと、彼女は立ち止まって、振り返った。
「────なあに?」
その微笑みが、ひどく恐ろしい。
見かけ上は穏やかなのに、心の奥底に、復讐心と、狂気と、偏った愛情を秘めているような、そんな微笑み。
でも、ここで行かせるわけにはいかない。私は彼女の手を取った。
「マリーちゃん、お願い、戻って……っ」
私がそう言うと、彼女は驚いたように目を開き、それから何度目かの微笑みを見せた。
「……私の邪魔をするの?」
「……え」
彼女はそのまま私の手を握り返してきた。───骨が軋むぐらい、尋常じゃない程の力で。
「いっ……」
「私の邪魔をするなんて」
私の首に手をかけて、そっと力を入れた。
「貴女────愚かね」
殺される。
本能でそう感じ取って、ぎゅっと目を瞑った。
けれど、予想していた痛みは起きなかった。何故なら、私の首から彼女の手を────
「目を覚ませ、マリー嬢」
────ジル殿下が、取っていたからだ。
「……ジル、でんか……」
「あら? 貴方は……」
彼女は一瞬不思議そうな顔をして、それからふと真顔になった。
「……貴方、誰だったかしら」
「……記憶が戻っていないのか」
重症だな、と呟いて、殿下はそのまま彼女の手を捻りあげた。
「っ、殿下!?」
私が声をあげても、殿下はぴくりとも表情を動かさなかった。
ただ、彼女は痛みを伴った不服そうな顔で、殿下を睨み付けた。
「……お前、何のつもりだ」
「もう一度問う。記憶は戻っていないのか」
「……お前」
そう呟いた瞬間、彼女から莫大な魔力を感じた。
ビリビリと、皮膚を突き破って骨まで刺さるような魔力の出し方に圧倒される。
それでもなお、殿下は表情を変えなかった。
「お前……っ! 私の邪魔を……!」
「記憶が戻らないなら、しょうがないな」
そう言って、殿下はハンカチを彼女の口元に思い切り押し付けた。
彼女は一瞬目を白黒させたが、すぐに目の光を失って、気絶した。
その一連の流れがあまりにも手慣れていて、思わず殿下を凝視してしまう。
殿下はというと、何事もなかったかのようにハンカチをしまい、マリーちゃんを抱き上げた。
「え、えと、殿下……」
「詳しいことは後で話す」
そう言うと、殿下はこちらを振り向いた。
……彼の目の下にクマが見えたのは、きっと気のせいではない。
「……ひとまず、貴女とマリー嬢とエルザ嬢は、今すぐ帰宅してもらう」
彼は、ひどく疲れきった顔をしていた。
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