第3話 生きて

 永遠の暗闇。出入口の分からぬ場所で、アリアリーナは開眼した。どうやら、地獄に来てしまったらしい。高貴なるツィンクラウン皇族を絶滅させ、愛する人を苦しめた罪は、やはり重かったようだ。

 アリアリーナは、地獄をひとり彷徨さまよう。やがて歩くことにも疲れてしまい、その場でうずくまってしまった。自分を救ってくれる人はいない。暗澹あんたんたる闇の中で、気の遠くなる無の時間、感情の起伏きふくも何もない監獄かんごくに、閉じ込められた。ひとり、ただひとり、誰の助けも得ることができぬまま、ここで魂がち果てるのを待つしかないのだ。絶望にも似た感情を抱いた時、背後に気配を感じ取った。


「お待ちなさいな」


 アリアリーナは立ち上がり、振り返る。目前には、艶やかな黒髪を持つ美しい女が立っていた。クリムゾンの双眸がアリアリーナを捉えて離さない。不自然に赤い唇が緩慢に吊り上がる。幽霊ゆうれいと言われても納得できてしまう風貌ふうぼうの女は、ゆっくり、ゆっくりとアリアリーナに近づいてくる。女はアリアリーナの耳元でささやく。


「あぁ、やっぱり……その瞳、綺麗ね。大丈夫、あとは私に任せてお眠りなさいな」


 甘味のような甘い声が脳内に反響する。アリアリーナが感じたこともない恐怖を覚えた途端、暗闇に白金の光が射し込んだ。


「あ゛あ゛っ!!! 熱いっ!!! あ゛づい゛!!!!!」


 女は顔面を手で覆いながら、絶叫する。そして無惨むざんにも塵となって、その身ごと消え去ったのであった。瞬間、視界は白に染まる。なんの因果いんがか、暗黒の牢屋から脱出することに成功したようだ。一面、真っ白の世界が広がる。不純物が混じらない、白一色。アリアリーナの髪色と極限まで似た色味だ。

 アリアリーナは一歩踏み出す。ぽちゃん。足元から水の音が聞こえる。足元を見遣ると、そこには浅い湖があった。その湖も、一面に広がっている。

 地獄から一変、天国にでも逝けたのだろうか。そんなわけがない。自分に、そんな資格はない。アリアリーナが瞳を伏せた瞬間――。



「生きたいかい?」



 すぐ傍、優しい声が聞こえる。アリアリーナはかぶりを振る。


「あんな思いをしてもなお、生きろと? 馬鹿馬鹿しい話だわ」


 アリアリーナは最悪だった一生に、毒を吐いた。

 生きたくなどない。もう、嫌だ。あんな一生を歩むくらいなら、ここで死にきったほうがずっと楽な気がする。


「アリアリーナ・コルデリア・リゼス・ツィンクラウン。偉大なるツィンクラウン初代皇帝の血を引き、今は失われた呪術師一族リンドル家初代当主の血を引く者よ」


 アリアリーナは開眼しながら、面を上げる。目前には、青みがかった黒髪とシーブルーの眼を持つ美青年が立っていた。特徴的なローブを身に纏っていることから、魔法や呪術の類を扱う者だろう。


「もう一度、問おうか」


 男の声が空間にこだまする。

 何度問われても答えは同じだ。人間を狂わす絶世の美貌を持ち、呪術と暗殺の才を高めたうるわしの姫だとしても、アリアリーナの生は悲劇の塊であった。誰もが羨むものを全て持ち合わせていようが、そんなものに高い価値はない。なんの縛りもない、なんの取り柄もない人間のほうが、余っ程幸せだ。

 シーブルーの瞳が放つ眼光は、青白く美しい。自然と魅了されていく感覚に、アリアリーナは恐れを抱く。



「生きたいか?」



 声に確かな芯がある。男の声に呼応して、心臓がきしむ音がする。アリアリーナは自身の胸元で拳を握り、首を左右に振った。


「運命に縛られ、ことわりに従った人生は、君にとって退屈だっただろう。宿命と愛に振り回され、君はいつだって、自分のためだけに生きることはできなかった」

「何が、言いたいの……」

「いろいろ言いたいことはあるけど、時間がないから手短に言おう」


 男は、微笑む。



「自分のために、生きろ」



 たった一言。されど、一言。

 アリアリーナの固く閉ざされた心の扉を木端微塵こっぱみじんに破壊するには、十分すぎる言の葉であった。乾ききっていた心の聖杯に生命力のみなもとである水が注がれてゆく。やがてそれは溢れ出し、彼女の全身を潤わせた。オパールグリーンの瞳から涙が溢れ出す。乾いた唇にじんわりと染みていく。


 人は学ばない、みにくい生き物だ。

 絶望を前にしても、生きたいと願うのだから。

 死を経験しても、生きることを諦めないのだから。


 アリアリーナの涙が全ての答えだった。男は破顔一笑はがんいっしょうし、彼女に歩み寄る。透けるように美しい手で、彼女の頬に触れた。

 刹那――。

 アリアリーナの世界は、暗転したのであった。

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