7-3

 夜はまだ羽織るものがないと肌寒いけど、春らしい陽気への変化を日々感じる。


 初めて和泉を自宅に送った時も、彼女はこうしてお預けを食らった子犬のように落胆していたっけ。あの時は、突然ワケの分からない使命を突きつけられて、不安に押し潰されそうになっていたのだから無理もない。

 だが今回は、僕たちに親しく歩み寄ろうとしてくれた和泉の気持ちを、あろうことか日向あの馬鹿が踏みにじったのだ。結局あの後、奴は異を唱える僕を振り切って、毎度の如く自室に籠もったから、後味の悪い解散になってしまった。


「ごめんね、和泉。後で日向には僕からお灸を据えておくから」


 和泉にこんな思いをさせて、流石の僕も腸が煮えくりかえっている。

 でも彼女は首を小さく振った。


「ううん、きっと本当に嫌だったんだよ。でも私、高杉君が分からない。励ましてくれたと思ったら、〝俺のことは疑って構わない〟って突き放されちゃうし。それでも最近、カノンを弾く高杉君の音がすごく優しくなったから、少しは心を開いてくれたのかなって思ってたんだけど……」


 そう胸の内を話してくれる和泉。僕も日向の全てを知っているわけじゃないけど、アイツが名前で呼ばれることを拒否した理由は何となく分かっている。だからってあの態度は許せるものでもなく、奴は一体いつまで足踏みを続けるつもりなのか。


 だが日向のことより、いま僕が気になるのは和泉自身の気持ちだ。名前で呼びたいと言ってくれたのも、僕たちに対する心の距離に変化が起きている証拠だろう。僕たちは和泉のことを昔から知っていたけど、彼女にとっては赤の他人でしかなかったのだから。

 僕はこうして和泉とよく話しているし、仲が良い分類だと自負している。最近は近江とも人並みに会話をしているようだから、彼女の中で僕と近江への親密度が上昇していることは分かる。


 でも日向は? あんな態度を取られても、疑って構わないと意味深なことを言われても、君にとって距離を縮めたい存在なの? それはブリッランテの仲間だからか、それとも。


「和泉、君は――」

「……ん?」


 いずれは聞いてみたいと思っていた言葉が、胸の奥から込み上げてくる。


 僕の言葉の続きを待つ和泉が、その無邪気な瞳を向けて首を僅かに傾ける。愛らしさが溢れる動作に、僕の心にほんわかとした温かさが広がり、このまま君を連れ去りたい衝動へ駆られた。

 きっとそれを聞いたところで、和泉が僕の真意に気づくことはないだろう。それに彼女の気持ちを知ることは、かえって僕自身を追い込むことにもなりかねない。今はまだ、自分の気持ちを押しつける時期ではないのだ。あくまでも僕たちはブリッランテの同士である。


 ――君は日向のこと、どう思ってるの?


 だから僕はその言葉も、波のように押し寄せる感情も、全てを呑み込んだ。


「君は、本当に仲間思いだね。それが分からない日向は、やっぱりどうかしてるよ」

「そ、そうかな」


 ……適当すぎたかな。許して、和泉。

 全てが終わったら、僕は自分の気持ちを打ち明けるつもりでいる。それまでは、こうして不意に与えられる二人の時間を楽しめるだけで十分だ。それに……。


「いつもありがとう。じゃあ、またね。君」

「うん。また明日ね、和泉」


 呼び捨てではないけれど、ずっと待ち望んだ彼女からの呼び名に満足して、僕は彼女に微笑んだ。

 でも来た道を引き返す時には、あの男に対するやりきれない感情が湧き上がり、無意識に早歩きでハウスへと向かっていた。




 まだ夜明けの兆しもない早朝。

 何となく空気が湿っぽく、今日は雨が降りそうな予感だ。


 俺は体力作りのため、毎日一人でランニングをしている。外気はまだ冷え込むが、走っていればすぐに暖まるから心配ない。

 和泉市の町並みもすっかり見慣れた。同じくランニングしながら通りすがるオッサンと、〝お互い今日もやってるな〟とアイコンタクトで意思疎通できるくらいになったほどだ。


 でも今日はやけにムシャクシャしていた。走ると大概のストレスは解消されるのだが、胸焼けを感じて仕方がない。


 分かってる。これは他でもない俺自身のせいだ。

 自分で自分を追い込むなんて、馬鹿みてぇ。


 結局いつもより30分早く切り上げてシェアハウスに戻った。これでも他の二人を起こさないように、行きも帰りも音を立てない気遣いはしている。大体俺がシャワーを浴びている頃に安芸が起きて自分の朝食を作り始め、それを横目で見ながら俺が適当に買ったパンを食っていると、近江が起きてきて安芸の朝食をつまみ食いする……というテンプレが多い。

 だが今日はリビングに入った瞬間、机の上にラップがかかった焼き塩鮭の定食と、添えられた一枚の紙が目に入った。


『朝食を作ってやったから、さっさと食べて早急に防音ブースに来い。来なかったら承知しない』


 紙には整った文字でそう書かれていた。定食はご丁寧に2食分用意されているが、近江がこんな早くに起きてくることはまずないだろう。

 ……あのヤロー、サシで話をしたいわけだな?


「何が〝承知しない〟だ。ったく……、相変わらずおっかねぇ奴」


 アイツの〝承知しない〟は舐めていたらマジでロクなことになりかねない。俺は深く溜め息を吐いて、とりあえず手短にシャワーを浴びると、小鉢と卵焼きまでついた完璧な朝食を取った。いいになれるだろうな、あの男は。


 後片付けを済ませ、チェロを持ち再びハウスを出る。日は昇ったが空も俺の気分も薄暗く、気持ちの良い朝ではない。

 和泉が行きつけている防音ブースは、カルテットの練習場所として俺たちも最近よく利用している。指定された部屋番号の前に着くと、深呼吸を挟んで扉に手をかけた。開いた瞬間、分厚い壁に守られていた室内からクラリネットの響きが溢れ出す。


「……よぉ安芸、お望みどおり来てやったぞ。用件は何だ」


 分かっているくせにワザと聞くところが、我ながら素直じゃない。クラリネットの音がピタリと止み、安芸は俺を睨むように鋭く見つめた。


「これを。君の腕なら余裕だろう?」


 それだけ言うと安芸は無言で数枚の紙を差し出した。面倒くせぇと思いながらもそれを奪うように受け取って目を通すと、それはとある曲の楽譜だった。

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