7-4
『ヘンデルの主題によるパッサカリアとサラバンド』より『パッサカリア』。ヨハン・ハルヴォルセンが作曲した、弦楽器で演奏される彼の代表的な名曲だ。
題名にもあるようにヘンデルの『ハープシコード組曲第7番』の第6曲パッサカリアを元に作られたものだが、ハルヴォルセンが編曲したパッサカリアの方があまりにも有名である。
何よりの特徴は、とんでもねぇ超絶技巧を必要とするアレンジだ。ヴァイオリンとヴィオラ、もしくはヴァイオリンとチェロの構成で演奏するのが一般的だが、いずれも高い技術が要求される。初見で弾ける奴はごく稀だろう。だがひとたび演奏すれば、誰もがそのドラマチックな展開と迫力に圧倒されるはずだ。
そう。安芸が弾けと渡してきた楽譜は、このハルヴォルセンの傑作『パッサカリア』である。
しかも奴はヴァイオリンパートをクラリネットで演奏するというのだから、余程腕に自信があるらしい。
楽譜を受け取った俺は安芸の意図がよく分からないまま、拒否権もなくいつもの配置で椅子に座りチェロの準備を始めた。一応その時間くらいは与えてくれるようで、安芸もウォーミングアップのための
一段落ついたところで安芸に「いいぞ」と声を掛けると、特にそれ以上会話を交わすこともなく、奴は俺を一見してから楽譜に目を向けた。そしてクラリネットを咥えた安芸のブレスに合わせて、俺も深く息を吸った。
出だしはスピード感があれど、哀愁感漂う落ち着いた妖美なメロディから始まる。ここはまだ演奏にも余裕があり、まずは小手調べといったところか。だがその穏やかさは長く続かず、情熱的な旋律が徐々に頭角を現してきた。
複雑な旋律になっても、安芸は朝飯前だとばかりに吹きこなす。高速で激しいメロディに伴う指使いも、それに合わせた息づかいや抑揚、感情表現のどれをとっても秀逸だ。随分前から練習を重ねていたのだろうが、初めて合わせる相手でも全く物怖じしていない。仕方なくチェロを始めた俺と違い、安芸のクラリネットに対する姿勢は真摯なものだと思っていたが、これほどとは。
だが俺だってこの曲は何度か演奏をしており、腕に自信がないわけじゃない。安芸の音色に負けないよう、チェロの優雅な低音を響かせる。
ただ、曲調が変化した時から俺は奴の音に僅かな変化を感じた。
激情化する旋律に、安芸自身の感情が乗せられているように聞こえるのだ。
<何故、和泉を拒絶するんだ>
俺にはそんな言葉が聞こえた。チラリと安芸の表情を伺えば、パッサカリアの世界観に集中しているのが分かる。目を閉じて眉を潜め、音の1つ1つに魂を込めているのだ。
これは音楽を通しての対話だ。なるほど、お前らしい選択じゃねぇか安芸。こうなると応えたくなるのは、同じ音楽家としてのサガか。
<違う。アイツを拒絶したわけじゃねぇ>
<違わない。どんな理由であれ、和泉を拒絶したことに変わりはない>
チェロの旋律に重なる掛け合いのようなメロディの如く、奴の言葉が食い気味に突き刺さる。……容赦がない。
<仮に拒絶したとして、お前にとっては好都合だろうが>
<あぁそうだな、いずれ和泉の心は僕が掴んでみせるさ。けどそれ以前に僕たちはチームなんだ、亀裂を生んでる場合じゃないだろ>
<んなこた分かってんだよ! だが、まだ俺の中には……>
<君が生きてるのは〝今〟だろ! 生まれ変わりだろうと何だろうと、僕たちは今を生きてるんだ。……それなのに>
安芸の力強い演奏に圧倒され、気がつけば俺も演奏に熱を込めていた。怒濤のような音並びにブレスのタイミングを失って息苦しく、弓を弾く腕が重い。くそっ……何で対面で会話するより、こんなに身体の中心を貫いてきやがるんだ。
やめろ。
それ以上、言うな。
<それなのに、どうして君だけは未だ〝前世の和泉〟に囚われているんだよ!?>
「やめろ……ッ!」
精神的にも追い詰められた俺は思わず声を荒げた。その瞬間、弓を引いた時に変な力が加わったのか、高音を出す一番細い弦がプツリと切れる。体中が熱く、ランニングの時と変わらないような汗が、輪郭をなぞっていくのを感じた。
安芸を睨みつければ奴も同じように呼吸を乱し、頬を紅潮させていた。これだけの曲を全力で吹けば、酸欠になっても不思議ではない。お互いが極限の状態だったとその時に気づいた。
「もうよせ、やめてくれ」
「待てよ。何故君は乗り越えようとしない!? 逃げるなよッ、日向!」
安芸の制止を振り切って、俺は防音ブースを飛び出した。するとその最悪の状況で扉の前に和泉が立っており、俺の表情を見て驚いたように少し目を見開く。何でこんなタイミングでいるんだよ……!
咄嗟に視線を外して、和泉が俺を呼ぶのも無視して足早に立ち去った。
今朝の予感のとおり、外は雨が降り始めていた。
楽器も傘もブースに置いてきた俺は、濡れながら街中を突っ切る。心が悲鳴を上げていた。
パッサカリアはヴァイオリニストでもあるハルヴォルセンが、自分の力量を披露するために超絶技巧をふんだんに使って作られたものだ。しかしそこには〝自分の腕を信じる覚悟〟と〝それほどヴァイオリンに情熱を注いで真剣に向き合っている〟という彼の強い意思が感じられる。
安芸がこの曲を選んだ理由は恐らくそこにある。あの曲を完璧に演奏できるほど、自分もハルヴォルセンのように本気だと。
和泉に対する想いも、俺に対する思いも、全て本気だと。
安芸は
俺だって好きで縛られているわけじゃない。頭の中で蘇る彼女の姿は前世の記憶だ。ただそれがあまりに眩しいほど美しく、失いたくない大切な瞬間だとばかりに刻まれている。
それほど愛していたのだ、前世の和泉を。俺にとって〝和泉〟という存在は前世の彼女が全てだ。俺を「日向」と呼ぶ彼女だけ。
なのに俺は、無性に
……もう、どうすりゃいいのか分かんねぇよ。
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