4-7
渇いた地へ一滴の水が染み渡るように、艶やかに奏でられるバッハのガヴォットが身体に響いている。あまりにも心地良く澄んだ音色は苦痛から僕を解放し、驚くほど呼吸を楽にしてくれた。
それが何度も僕を救ってくれた
でも穏やかな心のままにそっと目を開くと、そこで見た光景はそれとは真逆で殺伐としていた。……何処だ、ここは。僕は一体何を?
そう思った途端に全身を鈍い痛みが走った。更に頭上から聞こえる唸り声と激しい金属音に、体を起こして見てみれば大男と交戦する二人の男の姿が目に入った。
一瞬にして脳が覚醒した。
そうだ、僕はあの大男――羽を制すために
二人がいることも気になるが、それより和泉が心配だ。どうして彼女のヴァイオリンの音がしていたんだ?
そう思った直後、高らかに発言された呪文と共に煌々と光が背後から放たれた。
「
振り返ると和泉がヴァイオリンを弓に変化させていた。何がどうなっているのかさっぱり分からない。どうして逃げずに演奏なんか……。
でも僕を驚かせたのはそれだけじゃなかった。彼女は通常の矢を弓に番えると、羽に狙いを定め始めたのだ。
援護射撃か。それとも、まさか。
「いず――」
「近江、動きを止めろ!」
彼女を静止しようとした僕の声を遮り、日向のそんな言葉が飛んできた。その指示に応えるように、近江は羽の打撃を紙一重で回避しながら背後に回り、奴の両足首を切りつけて歩行を封じた。そして間髪入れずに日向が前方から腹部に剣を突き立て、奴が前に倒れるのを阻止。更にその日向にハンマーを振り上げる羽の腕を近江が切り落とす。
見事な連携プレーに目を見張った。加えて羽の強靱な肉体を一太刀で断つ、あの圧倒的な攻撃力。流石はブリッランテで一二を争う剣の腕前の二人といえる。
「和泉、いけぇえッ!」
羽の腕から滴り落ちる黒い血に染まりながら、日向が渾身の叫び声を上げた。
和泉は迷いなく、その弓を引く。
そして。
「
知るはずのない封印呪文を口にして、彼女は矢を放った。矢は金の帯を残像にしながら、真っ直ぐと羽の胸に刻まれた印へ突き刺さる。羽は聞くに堪えない雄叫びを上げて充血した目を見開き、全身を白い光が包み込んだ。
だが羽も諦めず最後に牙を剥いた。切断された奴の腕が蛇のように暴れ出し、和泉に襲いかかったのだ。
しぶとい奴め。日向と近江は羽に気を取られて反応に遅れてしまっている。僕は奥歯を噛みしめてレイピアを杖代わりに立ち上がり、力を振り絞って奴の腕へ飛びかかった。
「貴ぃ様も道連れぇだ和泉ぃいいい!」
「させるかクソヤロ――――ッ!!」
二の腕を貫かれ地面へ固定された羽は、悔しそうに吠えながら胴体と腕から放出する光を強めていく。やがて奴の人影が霞み、閃光が渦を巻き一カ所に集まると、手の平くらいの小さな玉に姿を変えて地に転がった。
それこそが『音の小玉』、封印が成功した証である。
羽との激戦を終えた僕たちは、とりあえず夕暮れも過ぎてしまっていたので、シェアハウスへと戻ってきた。
和泉はあの直後、極度の緊張と疲労感から気を失ってしまい日向に抱えられて一緒に戻り、今はソファで穏やかな寝息を立てている。
僕も
僕は彼女を守る使命を果たせたのだろうか。
結果的に、それができたのは日向と近江だったんじゃないか。
……いや。それより何故、彼女は封印呪文を使うことができた?
そんなことばかりが頭を巡る。
実は道中、僕は日向と一言も口を聞かなかった。
彼がまた和泉に無理強いをしたのではないかと思うと、腹が立って仕方がない。
「そう怖い顔するなって、安芸。封印のことは俺も最初は反対したが、今は日向の判断が正しかったと思うぜ」
そう言って隣に座ったのは近江だった。不服な顔をすると彼は続けた。
「考えてみろ。五音衆ってことは、封印しなきゃならんメストがあと最低でも四人いる。あの場で羽を封じておかなければ、後悔するのは俺たちだ」
……確かに。羽ですら苦戦を強いられたのに、残る五音衆は恐らく奴以上の実力の持ち主たちだ。その強敵ともいずれ戦わなければならないのだから、敵の頭数を減らすためにも早急に封印しておいたほうが、いいに越したことはない。
「だからって、無理に思い出させなくても」
「日向は
それがガヴォットの演奏だ、と近江は言う。恐らく前世の和泉との繋がりがあの曲にあると踏んで弾いたのだ。弓の扱い方の吸収も早かったし、記憶はなくとも彼女には前世の潜在能力が確かに備わっている。日向は和泉を背水の陣に追い込むことで、それを覚醒させたんだ。
勿論、彼女の力を信じた上で。
「大体、安芸だって無茶してるだろ。
「僕が無茶をするのと和泉が無茶をするのは別問題だよ。彼女はブリッランテの希望なんだ、絶対に失いたくない。……ただ、近江が言うことも理解はできたよ」
僕は和泉を守ることが最優先とし、彼女に眠る力を呼び覚まそうとは思いもしなかった。でもそれはきっと日向だからこそできたことだ。
悔しい、なんだか彼と和泉の間にはまだ見えない絆があるようで。
「
「……分かってる」
近江はワシャワシャと僕の頭を撫でて、部屋へ戻っていった。
残された僕は和泉の手を握り、その顔を静かに見つめる。そろそろ起こして家に送らなきゃいけないけど、もう少しこうしていたい。
「秘密の特訓はもう、必要なさそうだからね」
君を一番近くで支えたいと思うのは、僕のワガママなのかな。
ねぇ、和泉――。
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