第59話 ごめんね、トム【放課後】・前


 帰り際、クラスメイトのクルト=レッシュが焼菓子の詰め合わせをくれた。小さなバスケットに多種多様なクッキーやスコーンなどが入れられており、食欲をそそる甘い香りを漂わせている。


(あ)


 バスケットを見て思い出した。


 朝食のバゲットサンドが入っていたバスケットを、鍛錬場に忘れてしまった。誰か回収しているか、そのままになっているか。できれば後者であってほしい。前者であるなら探さなければならない。


 手元にあるひと回り小さなバスケットを持って、彼女はそんなことを考えた。これから用事がある。それを済ませて行くか、用事の前に行くか……教室を出て、歩きながら考えることにした。


「? ありがとう。さようなら」


 何故くれたのかはわからないが、美味しそうな食べ物を貰えるのはありがたいことだ。ティリーはお礼を言い、珍しく相手の目を見て別れの挨拶までする。そしてバスケットを手に、そのまま教室を出ようとし――


「待って待って待って、話聞いて!」


 両腕を広げたクルトに行く手を遮られた。あまりにも必死な形相で迫ってくるものだから、バスケットを抱いたまま、彼女は眉を寄せる。不満ですという顔で睨めば、クルトは躊躇いがちに一歩下がった。しかし怯みはしても、そこから退くつもりはないらしい。


「なんで?」

「なんでって……何もないのに焼菓子を渡すわけないよね? もちろん、話があるに決まってるだろ?」

「話?」


 首を傾げれば、クルトが少しだけ声を抑えて「うん」と頷く。


「ちょっとお願いがあるんだけど……」

「お願い?」

「そう。そのための焼菓子なんだ」

「ふーん。何?」

「コンラートがまだ医療棟に入院してるんだ。もし良かったら、お見舞いに行ってあげてくれないかな?」


 予想外のことを言われてティリーは目をまたたかせた。


 目の前の同級生はコンラート=フォン=ルーカスのお見舞いに行けと言った。だが彼を医療棟送りにしたのは、ティリーである。ボコボコのグチャグチャにした加害者が、ボコボコのグチャグチャにされた被害者が入院している部屋へ顔を出して見舞うなんて、さすがの彼女もありえないことだと思う。


 コイツ何を言ってるんだ、という気持ちが顔に出ていたのだろう。クルトがバッと手の平をティリーに突き出した。


「わかってる! 変なこと言ってるっていうのは!」

「うん。意味わかんない。謝れってこと?」

「え? ああ、いや、そうじゃなくて……贅沢を言うなら横に座って、手を握ったりなんかして、機能回復訓練がんばれって言ってほしいかな。無理なら顔を見せるだけでいい……お願いします!」

「そう言われてもね」


 正直に言えば面倒だ。


 勝者が敗者に気安く声をかける必要はないと思っているし――指輪狩りの決勝戦で剣を交えたからわかるが、彼は頑張れと言われないと頑張らないような男ではないだろう。そうなると声をかけに行く意味はまったくないような気がする。


 ティリーは「んー……」と声を漏らして考えながら、貰った焼菓子とクルトの顔を順に見た。懇願する瞳は切実だ。バスケットを開けてクッキーを一枚つまんで食べた。真ん中に真っ赤なイチゴジャムが乗ったクッキーだ。甘いジャムと香ばしい生地が絶品である。


 咀嚼し、彼女は口を開いた。


「行かない」

「えっ!?」

「何? その反応?」

「だ、だって、焼菓子食べた……」

「コレはもうわたしのだから返さないよ? 力ずくで取り戻そうとしてみてもいいけど、三秒で決着はつくかな」

「ぐ……」


 悔しげなクルトはしばらく黙り込み、絞り出すように「じゃ、じゃあ……!」と食い下がってくる。


「手紙は!?」

「手紙?」

「ひと言だけでもいいから!」


 しつこい男だ。初めの頃はビクビクして、かけてくる声も裏返っていた。それなのに今ではこの調子だ。


 思えば、決勝戦での戦いぶりもそうだった。場外に蹴り飛ばして壁に衝突させたのに、再び向かってこようとしていた。結局、立ち上がれず敗北したが、どうやら根性はあるらしい。


「なんでそんなにしつこく言うの? 向こうも、自分をボコボコにした相手なんかに励ましてもらいたくないと思うけど」

「だろうね」

「だったら――」

「でも、コンラートにとって、ティリー=フェッツナーは自分をボコボコにした相手であるのと同時に、好きな女の子だから。励ましでも応援でも、どんな形でも気にかけてほしいはずだ」


 クルトの言葉に、ティリーはポカンとする。


「すきなおんなのこ?」


 耳に入ってきた言葉を繰り返し、そのまま、まばたきを三回。


 ティリーは自分の顔を指差した。


「あの人、わたしのことが好きなの?」

「え」


 彼の目が見開かれる。


「だから婿になりたかったの?」

「え」

「ねえ」

「き、聞いてないの? 告白は!?」


 彼女は首を傾げた。それが答えだ。


 次の瞬間、クルトが両手で顔を覆って天井を仰ぐ。そして手の平の中で呻き声を上げていたかと思うと、やがて、くぐもった声で「イマノ、ナシ」と漏らした。


「そう言われてもね」

「オネガイシマス……」

「じゃあ、明日はバスケットいっぱいのパンね」

「……ワカリマシタ……」


 顔を覆ったままのクルトだったが、その肩が微かに震えている。


(泣いてる?)


 ブツブツと呟く言葉を拾えば、小さな声で「ゴメン、コンラート」「やらかした」「最低の友人だ」と謝罪を繰り返しているようだ。見ていると、なんだか少しだけ哀れに思えてきた。


 腕の中にある絶品の焼菓子が詰まったバスケットと、肩を震わすクルトを、再び順に見て――


「短くていい?」

「……?」

「手紙」


 天井を仰いでいたクルトが勢いよくティリーを見た。目が微かに赤くなり、潤んでいる。どうやら本当に泣いていたらしい。


「いいの!?」

「うん」

「あ、あああありがとう!!」


 大げさなほど感極まった様子でお礼を言われ、さすがの彼女も面食らう。


 ティリーはクルトに少しだけ待つように言うと、その場で適当な紙を選び、文字を走らせた。貴族令嬢の出す手紙は、紙はもちろん、インクの色、吹きかける香水、封筒まで趣向を凝らした物が普通だ。


 彼女が書いたのは適当な紙を折り畳んだだけで、手紙というよりも、ただのメモと呼んだほうがいいかもしれない。しかしクルトはソレを大事そうに受け取り、嬉しそうにはにかんだ。


「そんなのでいいの?」

「うん。あいつも喜ぶよ。責任もって渡すから」


 そう言うと、行く手を阻んでいたクルトは、ようやく道を空けてくれた。


 ティリーは明日のパンを念押ししてから、焼菓子が入ったバスケットを手に教室を出る。これから団室棟へ行き、団長と副団長から連絡事項を聞かなければならないのだ。彼女は廊下に出ると、団室棟へ向かった――


 ――校舎から一旦外へ出て、団室棟への道を進む。屋外へ出てしか行けないのは、晴れた日はいいが雨の日は厄介だ。しばらく進んだところで、彼女の足が止まった。


「あれ? 何してるの?」


 前方でトムが木に寄りかかっていた。髪型にこだわる彼にしては珍しく、黒髪を下ろしており、前髪の奥の目は心なしか暗い。


 何よりも気になるのは、彼が手に持つものだ。


「ソレ、どうしたの?」

「ちょっと、な」

「剣なんて持ち出して珍しい」

「なあ」


 訓練用の刃が潰れた剣でもなければ、木剣でもない。手入れがよく行き届いた立派な刃物を手に、トムが薄暗い表情を浮かべている。ティリーは赤い髪を掻きながら、彼の次の言葉を待った。


「手合わせ、してくれねえか?」


 トムは騎士科の生徒ではなく、つまり、正式な『篝火の団』の団員ではない。だがティリーの側近という立場もあり、団の連絡事項は一緒に聞くことになっている。


 今日もその予定だ。


 それなのに。


「今から?」

「ああ」

「真剣で?」

「ああ」


 トムが固い声で同意する。


 目の前の彼が何を考えているのか、さっぱりわからない。本気で言っているようにも見えるし、どことなく投げやりになっているようにも見える。付き合いが長い分、彼らしくない行動に困惑した。


 だが、それでも答えは決まっている。


「手加減できないけど、いいよね?」


 神妙な面持ちで頷く彼に、ティリーは鍛錬場へ行こうと告げた。トムが何を考えているのか、いくら想像したところで正解かどうか判断できないのだ。彼女はそのことについて考えるのは早々にやめ、ついでにバスケットを回収しようと、考えはじめる。


 後ろからついてくるトムの重々しい雰囲気には、気付かないフリをした――






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