第45話 決勝戦当日の朝


 太陽はまだ昇らない。


 身体の違和感が先か、はたまた、嗅ぎ慣れた生臭い血の香りが先か。自室のベッドから飛び起きたティリー=フェッツナーは、真っ赤に染まった寝床を目の当たりにして、寝惚けた頭のまま、絶叫した。


「ふ、ふふふじーーーーん!!!」


 屋敷の管理人のリズリー夫人が駆けつけるまでの間、ティリーの頭はぐるぐると目まぐるしく回転していた。


 シーツと同じくらい、自身の寝間着も血塗れだ。混乱が少し落ちつくと体調の異変に気付いた。下半身が重く、腹部――内臓を掴まれているかのような不快感、腰の鈍痛、体温の上昇で身体が火照っている。


 朝食の支度をしてくれていたのであろうリズリー夫人が姿を現した時、ティリーはガラにもなく半泣きになっていた――


 ――その後ティリーは、微笑を浮かべるリズリー夫人に浴室に放り込まれた。付着した血をシャワーで洗い流し、バスタブに張られたぬるめのお湯で身体を温める。湯の中で出血し、動揺のまま夫人を大声で呼べば「出る時にお湯を抜いて、軽く流して上がってくださいな。着替えはここに置いておきますよ」となんでもないように言われた。


 夫人が用意してくれた服を着る。その頃にはだいぶ混乱の渦中から復活していた。足元がふわふわしている。ティリーはどことなく頼りない足取りでダイニングに進んだ。


 ダイニングにはリズリー夫人がいた。彼女はホットミルクを用意して待っていてくれたらしい。牛乳と蜂蜜の甘い香りが漂っている。


「夫人ひとり?」


 さんざん騒いだ自覚があった。同じ屋敷に身を置くトムやチャールズが起きていても不思議ではないが、近くに彼らの気配は感じない。いつも大量の料理が乗っているテーブルには、ふたつのホットミルクがあるだけだ。


 椅子に腰を下ろす。隣に近付いて来たリズリー夫人が毛布を肩にかけてくれた。火照った身体に毛布は少し暑い気もしたが、ふわふわの手触りと、微かな花と太陽の香りに気分が落ちついてくる。そのまま包まるように毛布を胸の前で併せた。


 夫人は小さく笑みをこぼすと、隣の椅子にティリーと向き合う形で座る。グレーヘアーの彼女は男爵領から来た問題児五人を預かるだけあり、上品さこそ内包しているが、なかなか気も押しも強い、パワフルな人だ。


 日も昇る前から大騒ぎしてしまったため、小言のひとつやふたつは覚悟していた。だが予想に反して、彼女は穏やかな表情を浮かべている。ティリーはホットミルクが入ったカップを手に取ると、横目でチラリとリズリー夫人の様子を窺った。


(リズリー夫人、怒ってない?)


 夫人が自分のホットミルクを飲むのを見て、ティリーもカップに口をつける。飲み頃の温度だ。全身にやわく広がるかのような蜂蜜の甘さに彼女はほう……と息を吐いた。


 彼女も夫人もしばらく黙って、真っ白のミルクを嚥下する。やがて、カップをテーブルに置いたリズリー夫人が静かに、穏やかに口を開いた。


「ねえ、ティリーさん。ティリーさんは、ご自分の身に何が起きているのか、なんとなくはわかっているのかしら?」


 少しの間のあと、ティリーは頷く。濡れたままだった赤い髪から雫が落ちた。


「何も怖くはありませんよ。それはね、女の子の身体が大人の女性へと変わる時、ほとんど全ての人に訪れるものなのですから。私にも初めての時がありました。もちろん、あなたのお母様にもあったはずです」

「べつに、怖くはないけど。びっくりしただけ」

「ふふ、ええ、そうですね。フェッツナーに怖いものなんてありませんもの」


 夫人が小さく笑う。ティリーはカップに口をつけ――その瞬間、下腹部に走った鈍痛と、血液が漏れ出ていく不快感に眉を寄せた。


「帝都に来て三か月と少し経ちましたからね。そろそろだと思っていたところです」

「え?」

「男爵領では無茶な鍛錬ばかりしていたのでしょう?」

「ムチャ? ぜんぜん。子供の頃からやってたから」

「私もフェッツナーとお付き合いするようになって、もう数十年です。フェッツナーの戦う女性たちを多く見て参りましたわ。彼女たちのように……いえ、彼女たち以上に、ティリーさんは日々厳しい鍛錬に耐えて、身体を酷使し続けていたのね……」


 小難しい話はわからないが、リズリー夫人曰く、幼少期から身体を酷使し続けた少女は初経が遅い傾向にあるらしい。嘘か本当はともかく、女性らしい体躯に必要な脂肪量が少ないせいだとか。そしてその分、筋肉がつき、背が高くなるのだと、夫人は言った。


 確かにティリーは同年代の少女たちに比べると、やや筋肉質な体格をしている。身長も順調に伸びて、その辺の男に当たり負けしない戦闘向きの体躯だ。


「帝都へ来て、ティリーさんは無茶な鍛錬をしなくなりました」

「……身体を動かして、ちゃんと鍛錬してる」

「でも男爵領にいた頃に比べたら、ほどほどの鍛錬になったでしょう?」

「ぐ……」


 ティリーは言葉に詰まる。


 夫人の言う通りだった。


 帝都に来てからは山籠もりもしていないし、魔物との連戦や野宿で心身共に自身を追いつめることもない。命のやり取りで神経を使うこともなければ、少ない保存食で運動能力を確保する訓練もしていなかった。


 呻いて、天井を仰ぐ。


(わたし、帝都をマンキツしてる……!?)


 男爵領を出て身体がなまっているとは、これまで微塵も思わなかった。それは自らになんの変化もなく、相変わらず三馬鹿を叩きのめせていたし、騎士科の学生たちの多くを撃破できていたからだ。


 しかしここへ来て、肉体に大きな変化が訪れた。


「ティリーさんの食事などの生活習慣は、規則正しいものになりましたね。ええ、ええ、私がお世話をしているのだから当然です」


 余計なお世話とまでは思わないが、つい、リズリー夫人をじとりと見てしまう。腹痛も苛立ちも不快感も、知らないままで済めば良かったのに……そんなことを考えて、ティリーは不貞腐れていた。


 ティリーの八つ当たり染みた不満を向けられたリズリー夫人は、まったく意に介した様子もなく、柔く微笑んでいる。早朝からグレーヘアーを頭の高い位置で丸く纏めた彼女は、凛とした淑女――貴族夫人だ。そして、問題児ばかりの面々に温かく接し面倒を見てくれる、情に厚い女性でもあった。


 手を焼かせているだろうに、愛情を持って接してくれているとわかる。それに彼女が作る料理は絶品だ。完全に胃袋を掴まれている。だからティリーも、おそらく他の四人も、リズリー夫人には頭が上がらないのだ。


「きちんと食べて、きちんと眠って、ほどほどの鍛錬で身体を動かす……健康的な日常を三か月以上送って、帝都での生活にも精神的に慣れて頃ですからね。ティリーさんの身体が止めていた女性への過渡期が始まったのでしょう」

「……いいことなのかな。それって?」

「ええ、もちろん。ティリーさんの身体が、女性としての成長を始めたということですもの。それに将来子供を産むのであれば、正常であるにこしたことはありませんわ。どうぞ忌まずに受け入れてくださいな」

「でも……お腹というか内臓が痛いし、腰も痛いし、なんだか熱っぽいし、頭の中がふわふわするし、かと思えばイライラもするし、眠いし、だるいし、何より……気持ち悪い。べとべとする。あと、生臭いし……」

「ああ、そうでしたわね。ティリーさんは鼻がいいのだったわ……痛みは薬で抑えられるでしょうけれど、それ以外の症状は我慢するしかありません。お腹を温めたり、冷たい物を食べないようにしたり……」


 リズリー夫人が指を折りながら対策を教えてくれる。けれど耳心地のいい夫人の声は右から左へ流れていく。ティリーは欠伸を漏らした。早朝から起きているせいか、体調のせいかは判断できない。


「あらまあ」


 ティリーの手からカップが抜き取られた。包まっていた毛布に鼻先まで埋めながら、彼女は小さく船をこぎはじめる。リズリー夫人が濡れていた髪をタオルで拭いてくれた。布越しに夫人の優しい指を感じた。


(こんな感じなのかな……母上って――)


 会ったことのない亡き母の肖像を目蓋の裏に描きながら、ティリーは目を閉じる。やはりいつも通りではないのだろう。遠くから近付いて来るトムたちの気配を感じても、頸椎などの急所をリズリー夫人――第三者に触れられても、彼女の目が開くことはなかった――。




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