第32話 濡れ鼠三号


 さして広い屋敷ではないからか、管理人のリズリー夫人が作る絶品トマトソースの香りが玄関まで漂ってくる。


 雨が降り続いているのに、玄関ホールの床は乾いていた。つまり誰も帰宅していないということだ。エリザベートとの放課後のティータイムを終えて帰宅したティリーは、自分以外のメンツがいないことに首を傾げていた。


 しかしそれも少しの間のこと。


 雨音に混じって不規則な足音が聞こえた。ひとり分ではない。玄関ホールのドアが勢いよく開け放たれる。そして、びしょ濡れのチャールズと、何故かファルコが飛び込んで来た。


(どんな組み合わせ?)


 そう思っていると、濡れた足音を立てながらチャールズが近付いてくる。鬼気迫る表情だ。自称美形の彼にしては珍しく髪型も崩れていた。


「どうし――」

「ティリー!!」


 問いかけを遮るように名前を呼ばれたかと思うと、正面から襟を掴まれ――


「あ」


 次の瞬間、ティリーは咄嗟に身体を反転させ、チャールズを投げ飛ばしていた。背負い投げだ。体格差などないかのように、彼の身体は軽々と浮いて曲線を描き、玄関ホールの床に沈んだ。


「ごめん、つい」


 でも急に掴みかかってくるほうが悪いんだよ……と、続けたティリーの言葉は尻すぼみになっていく。仰向けに倒れたまま、チャールズが動かない。小刻みに震える肩と、ひくつく喉仏――


「チャールズ?」


 顔が濡れている。雨ではなく、涙だ。


「え、泣いてるの?」

「っ、泣いてねえよ……!」

「いや、だって……そんなに痛かった? それかびっくりしたの?」

「だからっ! 泣いてねえって!!」

「そんなうそつかれてもね」


 寝転んだまま彼は腕で顔を覆った。


「……っ、おまえくらい……強かった、ら……俺は……っ、う……」


 どうしたものだろう。いよいよ本格的に泣き出してしまった。ティリーは赤い髪を掻きながら立ち上がると、チャールズを見下ろして眉を寄せる。


(まったく意味がわからない)


 チャールズには話が聞けそうにない。彼女は玄関の隅で震えている――寒さのせいのはずだ――濡れネズミに目を向けた。


「どんな状況なの?」

「え?」

「さっぱりわかんない。タイロンたちは? 今日は肉団子のトマトパスタだから、一番に帰って来てるはずなんだけど……?」

「そ、それは……その……」

「簡単に言って。難しいのはわからないから」

「あ……簡単に、言えるようなことじゃないんだけど……」


 ファルコの表情は硬い。血の気が失せているのは寒さのせいだけではないのかもしれないと、ティリーはここにきて初めて思った。


 一歩ずつ歩み寄り、返答を迫る。


「説明して」

「っ、実は――」


 真っ青な唇を震わせながら、ファルコが何が起きたのかを語った。言葉につっかえたり、声が小さかったり、決して明瞭な説明ではない。だがそれが余計に、彼女の腹の奥底で蜷局を巻く感情の火元へ、薪をくべた。


 悪友――物心つく前から一緒にいた幼馴染みたちが襲撃され、現段階で、彼らがどうなったのか一切不明だと言う。


 チャールズが泣く理由もわかった。己が不甲斐ないのだろう。護衛対象のファルコがいる以上、チャールズがふたりの様子を確認せずに逃げたのは定石通りの行動だ。しかし正しいから納得できる、というわけではない。


 ティリーは横たわるチャールズを見下ろした。


「あらまあ、声がすると思ったら、みなさん何をしているのかしら」


 屋敷の奥から玄関ホールに顔を現したのはリズリー夫人だ。グレーヘアーの彼女はフェッツナー男爵家の人間が帝都で過ごす屋敷を管理している人で、現在は三馬鹿とトム、ティリーたちの身の回りの世話をしてくれている。


「まあ! びしょ濡れじゃないの! 乾かさないと風邪を引いてしまいますよ。チャールズさんもふざけていないで早くお入りなさいな。そちらのご友人の方も。さあ、中へどうぞ」


 思い雰囲気の中、夫人の声が響く。


「リズリー夫人、ちょっと出かけてくる」

「今から外出を? リクエスト通り肉団子のトマトパスタも、バジルソースのパスタも、もうできますよ。あとは麺を茹でるだけですからね」

「そこのふたりに全部食べさせておいて」

「はい?」

「今日は遅くなるかもしれない」

「あまり口うるさくは言いたくないですけれど、淑女が夜遊びだなんてするものではありませんよ? いくらフェッツナーとはいえ――」

「いってきまーす」


 リズリー夫人の小言から逃げるようにティリーは傘を差して屋敷を出た。チャールズは置いて行く。心が折れてしまっている者を同行させるつもりはなかった。


 静かな糸の雨が降っている。日がほとんど沈み、外は暗くなっていた。足元で水溜まりの泥が跳ねる。靴が濡れる不快さが気にならないほど、怒りの火が腹の奥底で燻っていた――


 騎士科へ続く黒門は閉ざされている。ティリーは傘を畳んで片手で握ると、軽く助走をつけ、壁を蹴るように高い塀を駆け上った。一番高いところへ辿りつき、躊躇なく飛び降りる。濡れた地面だ。着地で土が跳ねて顔にかかるが気にしない。


 ファルコの話を聞いたため、ひとまず現場へ向かうことにした。


 騎士科の教室が並ぶ棟には出入口が複数ある。クラスが十二組あり、一組と十二組付近にひとつずつ、六組と七組の間にひとつの三つだ。


 一年五組に属するツィロとファルコは、四組のタイロンを迎えに行った。彼らは一組付近の出入口を目指していたのだろう。その途中で襲撃に遭った。


 ティリーは間の出入口から建物の中へ入る。四組の近くまで行けば、木の板で塞がれた窓があった。板の向こうは割れているのだろう。廊下の床や壁には真新しい傷がいくつもあり、この場で戦闘が行われたことを物語っていた。


(タイロンはここで……)


 ひとりで残り、ふたりを逃がした。だとすれば、破れた窓を背にする形で戦ったのだろう。窓の桟には血痕が残っている。もしかするとタイロンの血かもしれない。


(さすがに置き去りにはされなかった……窓を塞いだのは学園の関係者? じゃあその人たちが運んで行ってくれた……?)


 タイロンは巨漢だ。意識がない状態の彼をひとりやふたりで運べるとは思えない。


 要領を得ないファルコの話によれば、窓から飛び出したツィロたちは、七組のほうを目指したらしい。助けを求めに雨の中を走ったのか。棟の中を進めばいいとわかっているのに、ティリーはわざわざ外に出た。


 傘は差さない。その足で七組のほうへ向かい――潰れた茂みを見つけた。小さいが制服の切れ端が引っかかっている。足跡などは雨で流れていたが、ぬかるんだ地面は荒れていた。


(ツィロ……)


 雨で身体は冷えていくのに、内側に燻る火は消えない。むしろどんどん大きくなって、いたるところに火をつけようとしているかのようだ。真っ赤な髪を掻き上げて、ティリーは足を動かす。


 彼女の足が向かったのは――医療棟だ。


 帝国学園の騎士科はその性質上、大なり小なり怪我を負う生徒が出てくる。ほとんどはかすり傷や打撲、骨に罅が入るなど、手当てで充分な生徒だ。


 しかし中には、演習中に重傷を負い、命に関わる怪我をする者もいる。そういった者たちはすぐに寮や屋敷へ戻れるわけではない。ゆえに医者などのスタッフと医療設備を完備した、重傷者を留め置く医療棟が存在している。


 これまでティリーは医療棟に足を運んだことはない。だが、入学式当日から指輪狩りまでの間に、数えきれないほどの生徒を医療棟送りにしてきた。


 静かで、清潔な建物の中を進む。ティリーの歩いてきた廊下は濡れ、泥の足跡ができてしまっていた。


(濡れ鼠三号、って?)


 心の中で冗談めかしてみるが、火は消えない。


 友人ふたりのいる病室を探すティリー=フェッツナーの目は、獰猛な獣に似た、危うい光を宿していた――。






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