第30話 雨音は破滅への序曲・B面:Sideファルコ
彼は自分自身を平凡……よりも少し下の人間だと認識している。
帝国学園の騎士科に入学できても、これまでの十五年間の人生で築いた自分自身の人間像は揺るがなかった。今でも己への評価は変わっていない。だが彼――ファルコを取り巻く状況は日々、平凡や平穏から遠ざかっていた。
ファルコと兄のヒンネルクは、中央貴族の某男爵家の私生児である。すでに正妻である夫人が亡くなっており反対する者が比較的少ない上、正当な後継者である異母弟がいるため、家名を名乗る許可こそないが、未成年の間は屋敷での生活を許されていた。
加えて試験を突破しての平民枠ではあるが、学園へ在籍することも父の男爵は許してくれた。寮の費用も払ってくれているし、多くはないが毎月のお小遣いももらっている。
私生児を学園に送り出す貴族は多くない。血縁同士で憎み合い、争うことも少なくない貴族の世界。それを思えば、男爵は浮気性ではあっても冷酷非道な人間ではないのだろう。
卒業後は屋敷を出て身を立てなければいけない。学園を卒業すれば道筋が立つ。だからこそ、当面の目標は脱落することなく、兄のようにヒエラルキーの低いところにぶら下がって進級、卒業することだった。
目立たず、静かに、平穏無事に――それなのに。
「ファルコ、行くぞー」
「あ、うん」
夕方のホームルームが終わった。一年五組の教室で、クラスメイトであり同じ団に所属するツィロに声をかけられ、ファルコは荷物を鞄にまとめて立ち上がる。
彼をはじめとする、フェッツナー男爵令嬢一派と行動を共にするようになり、およそ二週間が経過した。入学早々停学処分になったティリー=フェッツナーを筆頭に、平民でありながら騎士科の貴族にへつらうことなく暴れる馬鹿強い三人は、問題児として有名だ。指輪狩りが始まってからは特に。
そして近頃はファルコもその一員だと認識されていた。
(一切手を出してないし、なんなら隠れてるのに……!)
ツィロより一歩後ろを歩いて教室を出る。最初はクラスメイトに『なんであのふたりが一緒に?』『カツアゲか?』と訝しげに見られていたが、今はそれもない。
廊下を進んで隣のクラスへ向かう。話しかけてくるツィロに、当たり障りなく返事をした。脅されたことも殴られたこともないが、立派な体躯で腕も立ち、同い歳に見えない彼がどことなく苦手だ。
四組の扉の前でツィロが「タイロン!」と声をかけた。
すると中から巨体を揺らしながらタイロンが出てくる。
「腹減ったな。食堂行くか?」
「バカ。俺たちが暴れるのは、ザコがあらかた予選落ちしてから。つまり後半戦からだ。それまではおとなしくしてろって言われてんだろ?」
「それと食堂になんの関係があるんだよ? なあ、ファルコ」
「えっ、あ、うん……」
急に話を振られてファルコは一瞬言葉を詰まらせた。
「えっと、たぶん、狙われるからじゃないかな? ふたりは目立つし……」
「そういうことだ。放課後なんて、これ以上ないくらい狩りの時間だからな。学園内にいる間は油断できねえ」
「じゃあさっさとコイツを送ってって屋敷に帰ろうぜ? 今日はリズリー夫人がトマトパスタを作ってくれるってよ。肉団子入ったやつ! あとバジルのパスタも! じゃがいもも茹でてバターソースを――」
パスタを二種類も食べるのか、とファルコが顔を引きつらせていると――
「お前ら『篝火の団』の新入生だろ?」
「ああ? 誰だ?」
ツィロとタイロンが足を止める。怪訝な顔をするふたりの前には、数人の男子学生が廊下を塞いでいた。ファルコは咄嗟にふたりの背に隠れるが、後ろからも足音が聞こえて――
(か、囲まれてる……!? しかも、なんで……二年生に!?)
これまで隠れていたのだろう。
一年三組の教室や廊下の向こうから、男子学生がゾロゾロ姿を現した。制服の胸のラインは二本。二年生だ。
「俺らが篝火の団だったらなんだってんだ?」
ツィロがフンと鼻を鳴らす。
「おい。先輩には敬意を示せよ」
「評判通り生意気な連中だ」
「しかたないですよ。田舎の野良犬に礼儀作法なんてわかるはずないんですから」
二年の先輩たちに話しかける生徒には見覚えがあった。ファルコたちのクラスメイトだ。中央貴族の子爵家の嫡男で入学初日に威張り散らしていたが、それが癪に障ったのか、翌日の演習でツィロにボコボコにされていた。それ以来、クラスではあまり目立たないポジションにいた人だ。
(確か、彼は『百鬼の団』の……でも……)
その隣にいる一年生は違う団の学生だった。
何かは不明だが、良からぬことが起きている。胸騒ぎがして、ファルコは無意識の内に息を飲んでいた。
「こうなったのは貴様らの行動の結果だ」
ひとりの二年生が前に出てくる。道を開ける生徒が多いことを考えると、おそらく伯爵家以上の人間だろう。
「言ったはずだ。後悔することになる、と」
二年生の彼は真っ直ぐツィロとタイロンを見据えている。その目はふたりを見下したかのような蔑む目をしていた。
「し、知ってる人?」
ファルコは小声で問う。
「……さあ? タイロン、知ってるか?」
「知らねえな。どこにでもいそうな顔してるし」
「つーわけだ。まったく知らねえヤツだ」
「そ、そんな感じじゃないけど……」
正面の男子生徒は怒りの表情を浮かべていた。明らかにふたりの言葉を不満に思っている顔だ。
「貴様ら……あの時の無礼を忘れたのか。貴様ら平民ごときが、エッケハルト=フォン=ローレンツを侮辱したこと、万死に値する」
そう言うと、エッケハルトは右手を軽く上げた。
「本気か? アンタ、二年だろ?」
「指輪狩りの最中に俺らをどうこうしようって?」
「馬鹿め。手を出すのは禁じられているが……私たちはただのギャラリーだ。貴様らが無様に平伏すところを間近で眺めるだけ。何も問題はない」
エッケハルトの顔に愉悦が滲み――
「やれ」
手が振り下ろされるのと同時、一年生たちが飛びかかって来た。
「ファルコ下がってろ!」
「どこに!?」
「チッ! クソッ!!」
廊下の両端から向かってくる大勢の人間から、どこにどう身を隠せばいいのかわからない。訓練用の木剣を持っている者もいる。恐怖を覚えた。毛穴が全部開いて、ぶわっと汗が滲み出るような感覚……悲鳴さえ上げられない。
最初のひとりをツィロが蹴り飛ばした。タイロンの巨大な拳が振るわれ、相手を吹き飛ばす。それでも人の波は止まらない。逃げ出そうにも廊下の両端は、にやけた顔の二年生によって塞がれている。壁だ。決して逃がさないとばかりに、彼らは壁を築いていた。
ファルコはタイロンとツィロの背に庇われる形で身を縮める。雄叫びと拳が肉を打ち、骨同士がぶつかる音が怖ろしい。清廉潔白な騎士の姿とは縁遠い。そこにあるのは暴力の渦だ。
「おい! どうする? キリがねえぞ!」
ツィロが吠えた。殴られたのだろう。鼻と口の端から流血している。巨躯からは考えられない俊敏さで、タイロンが男を蹴り飛ばし、ファルコたちの傍らへ寄った。
「ツィロ……ヌルイエ牧場作戦だ」
「なっ!?」
「行けっ!!」
「ッ……バカヤロウがっ!!」
何がなんだかわからないでいると、ツィロがファルコの襟首を掴んだ。そして――窓ガラスを割って、飛び出した。
そのままツィロに引きずられるように走る。ファルコは目を白黒させながら、甲高い声で「なんなの!?」と叫ぶ。
「ヌ、ヌルなんとか作戦って!?」
「昔、男爵領にある牧場で牛に乗って遊んでたら、牧場主のヌルイエさんや巡回騎士のオッサンたちにバレてな。俺たちは逃げ出した。そん時に、足の遅いアイツはひとり残って、牛を俺らと逆方向に走らせたんだ」
「え……」
ファルコは顔だけで振り返る。
そこには誰もいない。タイロンはついて来ておらず、遠くの、割れた窓ガラスの向こうに大きな背中があった。
「っ、ツィロくん! タイロンくんが……!」
「喋ってるヒマあったらもっと早く走れ!!」
ツィロの声には怒りが滲んでいる。その怒りの矛先が、足手まといのファルコに対してなのか、襲ってきた『百鬼の団』に対してなのか、首をつっ込んできた二年生に対してなのか、それとも――
「バカヤロウが……!」
有無を言わせず作戦を決行したタイロンに対してなのか、それに従ってしまった自分自身に対してなのか。それはファルコにはわからない。
確かなことは、まだ危機は脱してないということだ。後ろから追っ手の怒声が迫ってきていた。
どうすればいいのかわからない。
「ティリーんとこまで行けば、なんとでもなる! わかったな!?」
まるで言い聞かせるかのような言葉。
その真意にファルコが気付くのは――今度はツィロがヌルイエ牧場作戦を決行し、ひとりで逃走することになってから、だった――。
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