第20話 婚約者候補一号くん(非公認):後

 目の前の男は婚約者を自称した。


 しかしティリーの記憶では自分に婚約者はいないはずである。スミロと名乗る彼が思い違いをしているのか、自分の記憶がポンコツなのか。両者を天秤に架けた時、秤はすぐに傾く。生憎と彼女は自身の記憶力にさほど信頼を置いていなかった。


(わたし、この人と結婚するの?)


 まじまじと青年を見つめる。


 彼は気まずげに頭を掻いた。


「参った……きみとの出会いをやり直したい」

「なんで?」

「俺の印象、悪すぎるだろう?」

「? なんで?」


 ティリーは首を傾げる。


 スミロ=ヴァルデが気まずげな表情を浮かべる理由も、どことなく申しわけなさそうな態度の理由もわからなかった。背の高い彼はわずかに上目遣いで彼女を見つめてくる。濡れた目が何かを訴えている気がするが、その内容を察することはできなかった。


「なんでって、わかってないのか?」


 彼は「俺がここで何をしてたとか……」と、固い声で続ける。だがティリーにとってはどうでもいいことだった。


「うん。そんなことより、本当に婚約者? 結婚するの?」

「……聞いてないのか?」

「うん」

「きみの伯母さんから、何も?」

「伯母上?」


 伯母のラモーナ=フォン=グローネフェルト侯爵夫人と会ったのは、入学前の一度きりだ。その後、一度だけ手紙が届いた。しかしそれは彼女が読む前にトムが受け取り、領地にいるフェッツナー男爵に送ってしまった。おそらくトムは、娘と侯爵夫人を関わらせるな、とでも命じられているのだろう。


 とはいえ、少なくともティリーは『スミロ=ヴァルデ』の名に覚えはない。誰がなんと言おうと、聞き覚えすらない――文字通り。彼女は覚えていなかった。


 そんなこととは知らないスミロ青年は「確かめとくよ」と苦笑し――唐突に、ティリーの前に片膝を着いた。


「何ごと?」

「出会いのやり直し、させてくれ。手にキスしても?」

「いいけど、今まで剣振り回してたから、あんまりきれいじゃないと思う」

「そんなことないさ」


 彼の指がティリーの手をすくう。ひと回り太い、骨張った指だ。爪の形が綺麗だが、表皮は滑らかではない。そんな風に観察していると、スミロの顔が手に近付いてきて――そっと、指先に唇が触れた。


 顔を上げて、彼が真剣な眼差しで見上げてくる。


「ヴァルデ伯爵家が三子、スミロと申します。ティリー=フェッツナー令嬢、東の雄の姫君たるあなたにお会いできて光栄です」

「えーと……おしまい? これでいい?」

「ああ。満足だ」


 目を細めてヘラリと笑い、スミロ=ヴァルデは立ち上がった。今の今まであった真剣さは一瞬で霧散し、気の抜けた空気を纏っている。一学年上だと言っていたが、偉ぶっていたり、気を遣えと言わんばかりの雰囲気はまったくない。本人の気楽さから見るに、おそらくこちらが素なのだろう。


「それで、どう思う?」

「何が?」

「俺のこと。軽薄でだらしのない男だと思われてないといいけど」

「ケイハクかどうかはわからないけど、だらしないとは思わない。さっき脱いでるの見たけど、身体は鍛えてる」

「え?」

「毎日、サボらず鍛錬してる証拠。それに――」


 ティリーは自身の手の平をぐっと前に押し出す。


「あなたの手は剣を握ってる人の手だった。真面目に振り続けないと、そういう手にはならない」


 キスされた指先に触れていた彼の手を思い返しながら言えば、スミロが目を見開いた。


「驚いた。思いがけず高評価だ」

「高評価? わかることを言っただけ」


 何度も剣を振れば手の平の皮が剥ける。それでも痛みに耐え、さらに剣を振り続ければ、手の平は血塗れになりながらも修復し――やがて掴んだ柄を決して離さない、固く、力強い、武人の手になっていくのだ。


 スミロ=ヴァルデの手は、ティリーの知る武人の手には、まだ一歩及んでいない。だがいずれその境地へ至るであろう、道の途中を思わせる手だった。


「そんなに高評価なら……いずれ結婚してもいいって考えてくれてる、と思っても?」

「それとこれとは話がベツ。わたしの結婚はわたしだけのものじゃないから。話は聞いてくれるだろうけど、最終決定するのは父上だよ」

「じゃあきみが望む、伴侶の条件は? 何を持っている男なら、御父上であるフェッツナー男爵に推薦してくれる?」


 ティリーは目をまたたかせたあと、腕を組んで考える体勢を取る。自分が結婚相手に望む条件とは何か。彼女は「うーん……」と低く唸りながら考えた。


 その間スミロはティリーを急かすことをしなかった。おかげでゆっくりと思考することができる。しばらく黙り込んだあと、彼女は口を開いた。


「健康で、バカじゃなくて、腕が立つ男!」

「他には? 好きなタイプ……というか、外見や性格は?」

「性格がものすごく悪いような男を父上は選ばない。見た目はべつにどうでもいいよ。まあ、健康で腕が立つって条件なら、ある程度の体型はしぼられるんだろうけど」

「ふーん……どうしてその条件になったの?」

「どうしてって? 子供を作るなら健康的な男のほうがいいんじゃないの?」


 なんでもないように言った言葉に、今度はスミロが目をまたたかせる。


「本当ならわたしには兄弟や姉妹がいるはずで、そのうち、わたしの子供や、その兄弟や姉妹の子供たちが前線で戦わなくちゃいけないはずで、でも今はいないし、父上が誓約しちゃったからこれからもいなくて、だからイトコに頼るしかなくて、でもやっぱり男爵家の中心がしっかりしなくちゃで、だからわたしがいっぱい産まなくちゃいけない」

「うん?」


 理路整然と説明できれば良かったのだが、彼女には無理だった。それでも言い切ったと言わんばかりの目で彼を見上げていると、嘘か本当か「なんとなくわかったよ」という言葉が返ってくる。


「わたし、五人は産むつもり」

「それはまた多産だ」

「うん。妊娠したら戦場に立てない期間があるから、その時に代わりに立ってくれて、死なない男じゃないと婿にはできない」

「ああ、腕が立つって条件はそれか」

「そして、わたしが産み終わったら引っ込んでもらって、男爵家の内向きのことをしてもらう予定」

「家政だな。それはバカじゃできない……にしても、男爵家の婿はなかなか大変そうだ」


 そう言ってスミロ=ヴァルデは笑った。


「でも、やりがいはある。俺のこと、しっかり推薦しといてくれ。腕も立つし、頭も悪くない。持病や遺伝的な疾患もなく健康で……子供を作る行為も得意だ」


 スミロがわずかに顎を引き、上目遣いで濡れた瞳を向けてくる。妖しい雰囲気を漂わせる視線を正面から受け止め――ティリーは首を傾げた。


「推薦するのはいいけど、中央貴族の婿入りは難しいと思う。なんかゴチャゴチャしたことになりそうだし」

「そのゴチャゴチャも解決できるように譲歩はするつもりだ。家と縁を切るとまでは言えねえけど、婿入り後の比重は完全に男爵家に置く」

「ジョウホ……ヒジュウ……?」

「ハハッ、簡単に言えば男爵家のほうを大事にするってことだ」

「なるほど?」

「自分で言うのもなんだが、俺は優良物件だぞ。学生の内に婚約してくれれば、誰に横やりを入れられることもなく学園内でもきみの力になれる」


 積極的に自分を売り込んでくるスミロ=ヴァルデに、ティリーはますます首を捻る。三男とはいえ伯爵家の出自で、自称優良物件ならば、男爵家でなくとも婿入り先はいくらでもあるはずだ。


「ヘンな人だ」

「俺が?」

「ユーリョー物件ってことは、あなたと結婚したい人がたくさんいるんでしょう? なんでそんなにフェッツナー男爵家に来たいの? 田舎だし、魔物と戦うのは大変なのに」

「まあ、そうだな……政略だの、家同士の繋がりだのは置いといて――」


 その男はなんの躊躇もなく、ティリーとの距離を詰める。


 端正な顔が近づいた。


「ただ、きみと結婚したくなったんだ」


 吐息がかかるほどの距離だ。


 頬に――それも唇よりの部分にやわい感触が。


 咄嗟に拳を振り抜いた。彼女の拳はスミロの腹部を捉え、低い声がしたのと同時に彼の体勢が崩れ落ちていく。


「ハレンチだ!!」


 蹲るスミロ=ヴァルデを残し、ティリーは武器庫から飛び出して行った――。








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