第14話 嗚呼、無情

 三年一組の教室を出て階段を降りる。


 頭の中で混乱と苛立ちがぐるぐる渦巻いていた。むしゃくしゃする。壁のひとつでも殴りつけたい気分だったが、物にあたって学園を損壊させるわけにはいかないと、寸でのところで理性が仕事をした。


 そして行き場をなくした衝動は、彼女の喉を震わせる。


「あああああ腹立つぅぅぅ!!!」


 思い返せば思い返すほど、若い熊猪(くまじし)――二足歩行の熊型の魔物で、剣を弾くほどの分厚い筋肉の鎧を纏っている――を彷彿とさせる男へのいら立ちが蓄積されていく。


 フェッツナー男爵家の直属の主君にあたるハルティング辺境伯の孫、マティアス=フォン=ハルティング。好印象の青年アクセル=アッカーマンが仲裁したため、おとなしく引き下がったが、一発くらいは食らわせておけば良かった。


 眉間に深い皺を刻んだ彼女は不機嫌を隠しもせずに進む。時折すれ違う上の学年の生徒が物珍しげな視線を送ってくるが、機嫌の悪いティリーが「ああ? 何?」と睨みを利かせれば、何も言わずに目を逸らした。


 階段を降りて行く。


「む?」


 二年生の教室が建ち並ぶ階の階段で、何故かトムと三馬鹿に遭遇した。中庭にいるはずの彼らがどうしてここにいるのだろう。ティリーは首を傾げる。ただし表情は不機嫌なままのため、因縁を吹っ掛けているようで、大変ガラが悪い。


 トムを先頭に現れた四人。後ろの三馬鹿はティリーと鉢合わせた瞬間、ニヤニヤと笑いはじめた。


 非常に癪に障る顔だ。巨漢のニヤニヤも、ヒゲヅラのニヤニヤも、自称美形のニヤニヤも、腹立たしい。彼女の中でそれまで溜まりに溜まっていた苛立ちを、寸でのところで抑えていた理性の糸。細く脆いその糸がプツンと切れる。


「とうっ!」


 ティリーは高く飛び、踊り場に降り立った。


 そして、拳骨を三回。


「いでっ!」

「あだっ!」

「顔はダメぼがっ!」

「ふんす」


 頭を押さえて蹲る三馬鹿の前で、彼女は拳を高く掲げる。いつものことだからか、トムが呆れたように溜め息をこぼしていた。ほんの少しだけ溜飲が下がり、ティリーは切れた理性の糸を結び直す。


 細く長い息を吐く。するとティリーが気を落ち着かせたのを見計らったかのように、トムが柔い声で「ご立腹か?」と尋ねてきた。


「うん。ゴリップク」

「何があったんだ? 御孫殿には会えたのか?」

「……会えた。でも……っっっ!! 意味がわからないことばっかり言うの!! あいつ、たぶんばか!!!」


 大声で素直な感想を叫んだ。


 トムと三馬鹿は顔を見合わせたのち、肩を竦める。主君筋の後継者を『ばか』呼ばわりする彼女に、彼らは理解できないと言わんばかりの顔を向けてきた。だからティリーは苛立ちを再沸騰させながら、三年一組の教室での出来事を話し始める――


 マティアスは現ハルティング辺境伯とも、次期ハルティング辺境伯とも似ていない、熊猪のような外見だった。入団を断られた件はもちろん、赤狼騎士団が不要だと言われたことも、教室での話の全てを語る。


 ――トムは当然、普段うるさい三馬鹿も口を挟まずに、ティリーが話を終えるのを待っていた。話しながら改めてマティアスの顔を思い出す内に、彼女の金の目は鋭くなっている。


「話はわかった。入団の可否は団長に一任されてる。相応しくないって判断した生徒を拒否するのは、まあ、あちらさんの権利だからな」

「団長っつーのは責任者だしな。入学初日に停学になるようなやつ、誰も抱え込みたくねえって」


 トムの言葉にツィロが軽口を叩いて同意した。ティリーは眉を寄せる。だがその軽口に噛みつかないのは、事実は事実だと納得しているからだ。ツィロの隣でチャールズが腕を組み溜め息をついた。


「つまり入団に関しては、御孫殿の考えを変えるしかねえってことか。そいつ、説得できそうなのか? 無理ならワイロを渡したり?」

「ワイロ……俺の絶品美食録から厳選して……」

「アホか。金持ちの貴族様に通用するかよ」

「じゃあ絶望的だな」


 チャールズとタイロンが「ハハハ」と笑う。だがその場の空気は悪い。原因は不機嫌なティリーだけでなく、険しい表情を崩さないトムだった。ティリーはトムに目を向ける。彼も彼女を見ていた。


「なあ、マティアス=フォン=ハルティングは赤狼騎士団が不要だって言ってたのか?」

「うん。言ってた。何故かはわからないけど」


 彼は目を細めて黙り込む。何か考えているようだ。その内容までは不明だが、頭のいい人間が黙って思考しているのだということはわかる。ティリーたちは邪魔をしないように口を噤んで、トムが話し出すのを待った。


 少しの沈黙。


 トムは二度まばたきをして、頭を掻いた。


「赤狼騎士団の不要論を持ち出したのが、他の誰でもなく辺境伯家の後継ってのは、正直なとこかなりマズい」


 真剣な声音だ。


「そんなに?」

「ハルティング辺境伯家は、辺境伯本人の意向が政治に作用する。もちろん貴族だったらどこの家もそうなんだろうが、その中でも特に、だ」

「ドクサイ的?」

「ああ。言葉を選ばないならな」


 彼が頷く。


 独裁的な辺境伯――そう言われても、ティリーにはあまりピンとこなかった。年老いた辺境伯も、彼女の父親と歳の変わらない後継者も、人の良さそうな顔をしていた。とても自分の好き放題に振る舞う人間とは思えない。


 彼女がピンときていないことに気付いたのだろう。トムが肩を竦めた。


「ハルティング辺境伯家は基本的に崩御しない限り、その座を譲ることはない。隠居って概念がねえんだ。つまり辺境伯に意見したり、口出したりできる、まあ、強大な力を持つ人間がいないってことだ」

「ああ、なるほど。敵がいないのね」

「そういうこと」

「おい、ちょっと待てよ。だったら別に、御孫殿に『赤狼騎士団は要らない』って言われても大丈夫なんじゃねえか?」


 ツィロが顎を撫でながら言う。


「今の辺境伯の時代があと十年続くとして、その後継者が四十歳くらいだから……五十歳で継ぐだろ? 御孫殿が辺境伯になる時代は、ざっと見積もっても三十年から四十年後だ。そんな先のこと、気にしなくても良くねえか?」

「確かに!」


 トム以外の三人の声が重なった。


「そう思うか? 御孫殿の考えが変わらない限り、三十年後には、辺境伯家が赤狼騎士団から確実に手を引くんだぞ?」

「そうだね?」

「……フェッツナー男爵家の収入の何割が、魔物討伐の褒賞や関連事業から算出されているのか、そしてその褒賞を出して事業の後ろ盾になってくれているのか、お前ら、わからないわけじゃねえよな?」


 沈黙が落ちた。


 いくら頭が良くない次期女男爵でも、いくら三馬鹿と呼ばれている三人でも、そのくらいのことは理解している。ただ、ちゃんと考えなければ、出てこなかっただけだ。そしてちゃんと考えた今、四人の顔から血の気が引いた。


「算出されてる収入は、男爵家の総収入のおよそ六割……」


 ツィロが声を絞り出す。


「莫大な褒賞を出してくれてんのは、ハルティング辺境伯家……」


 チャールズが自慢の顔を手で覆った。


「東部地域で事業を円滑に進めるために、辺境伯家が後ろ盾になってくれてる……」


 タイロンが太い腕で頭を抱えた。


「三十年後……わたしが男爵になった頃に、それがなくなる……ってこと……?」


 ティリーは自分で導き出した予測を、おそるおそるトムにぶつけた。違うと言ってほしい。どこか祈るような気持だったが、無情にも、頭のいい幼馴染みは「正解だ」と残酷な言葉を紡いだ。


「六割だ。半分以上。それがなくなる、あるいは大幅に減少するってなったら……男爵家は破産まっしぐらってわけだ」

「そんな……どうするの!?」


 思わずトムの肩に掴みかかってしまう。彼はその手を外すことなく、されるがまま、真っ直ぐティリーを見た。


「そう、重要なのはそこだ」


 硬い声音に、自然と息を呑む。


「マティアス=フォン=ハルティングの考えを、今聞けたのはデカい。三十年ある。考えを変えるように説得するか、それとも……完全に切られることを前提として、俺たちも今から行動を起こすか、だ」

「それって、ハルティング辺境伯家から――」


 それだけは決して言葉にしてはいけない。しかもこんな、誰の目や耳があるかもわからない学園という場所で。ティリーは吐き出しかけた『離反』の言葉を飲み込んだ。けれど何を言おうとしていたのか、トムには伝わっていた。


「幸い、男爵領は肥沃な土地だ。三十年あれば開墾、開拓できる。今の魔物討伐のための辺境伯家からの派遣って形態も見直して、傭兵の形態で各家と直接契約すれば、交渉次第にはなるが利益も出せるはずだ」


 大げさな話だと一蹴することはできない。


 それは、不要論を持ち出した人物が、ハルティング辺境伯になるであろう人物だから。マティアスは東部貴族の慣習や安全、これまでの歴史をひっくり返すような発言をした。身内だけの場ではなく、耳目のある教室で。


 よほど考えなしの馬鹿か、もしくは、本気で言ったのだろう。冗談でも、咄嗟にティリーを傷つけようとしたのでもなく、確固とした覚悟を持って――


(政治とか、よくわからないし、メンドーなんだけどな)


 ゾワゾワと首の後ろが気持ち悪い。


(ずっと剣を振ってられる、子供のままでいれたらいいのに)


 発したひと言が、投げられたひと言が、大きな波紋を広げる。だから貴族は言葉を選ばなければならない。歳を重ね、責任を負うようになるにつれて、そのひと言は重みを増す。罵倒して、殴って、打ち負かせばいい、子供の時間の終わりが見えた気がした。


 それが酷く――おそろしい。


「でもよぉ、なんで御孫殿はそんなこと言い出したんだろうな?」


 チャールズが口にした疑問に、ツィロとタイロンが顔を見合わせた。そして眉を寄せ、チラリとティリーに目を向けてくる。躊躇うような、どこか複雑そうな感情を滲ませた視線に、ティリーも眉間の皺を深くした。


「何?」

「いやー、その……なあ、ツィロ?」

「おう……あれだ、その……」

「気持ち悪い。はっきり言って」


 言葉を濁しながら、窺うような視線を向けてくるのが、気持ち悪い。彼女が不快を露わにして言うと、ツィロが「あー……」と口火を切る。


「もしかしてだけどよ……御孫殿が男爵家を切ろうとしてんのは、お前が女だから、じゃねえのか?」

「おい!!」


 トムが声を挙げるが、ティリーは「トム。いい」とそれを制した。


「いやいや、勘違いすんなって! 俺たちは別に、お前が女でも男でも気にしねえよ? 俺らの上に立つのも、前を行くのも、ティリー=フェッツナーしかいねえと思ってる」

「ああ、そうだぜ。ツィロの言う通りだ。俺らはお前の腕っぷしを尊敬してるし、まあ、暴力的だなとは思うが、ティリーのことが大好きだ」

「でも、御孫殿は違う。領の護りを女に任せんのは納得いかねえと思ってるのかもしれない。騎士科に通ってて、ティリーの言うような熊猪みたいなやつなら、そんな風に考えててもおかしくねえ」


 三人の言葉にティリーは怒るでもなく、静かに目を閉じ、息を吐いた。


(性別なんてどうしようもないじゃない)


 もやもやする。


 怒りではない。自分が女だというのは事実で、それはどうしたって変えられないのだ。だからこそ、もやもやする。努力ではどうにもできないことだから。


 目を開ければトムと視線が交錯する。


 彼は口を開いて何かを言おうとしたが、声を発することなく口を閉じた。


 チャールズ、タイロン、ツィロは相変わらず、ティリーを擁護するような発言をしている。その言葉は彼女の耳を流れていき――その内、昼休みの終わりと午後の授業の開始五分前を告げる鐘が鳴った――。







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