第13話 サボタージュ・後:Sideトム
アイヴィ=フォン=バルツァー。
他者の目を惹く美貌の彼女はそう名乗った。美人三姉妹と名高い、南部のバルツァー伯爵家の次女で、先ほどの男は婚約者らしい。名前はエッケハルト=フォン=ローレンツ。古い歴史を持つ中央貴族、ローレンツ伯爵家の長男だとか。
「エッケハルト様が学園を卒業なさったら、わたくしは学園を辞めて、あのお方と結婚することになっているのです」
小さく吐息を漏らすアイヴィは、今にも手折られてしまいそうな儚い花を彷彿とさせる可憐さがあった。話を聞いていた三馬鹿は何度も「かわいい」「カレンだ」と繰り返している。それしか言葉を知らないのかと言いたくなるくらいしつこい。
トムは黒髪を掻いて、薄幸美人を見た。彼は名乗って以降、口を閉ざしたまま無暗に開かない。喋るのは主にツィロとタイロンだ。美意識の高いチャールズは、可憐なお嬢様を前にポーッとしてしまっていた。
「あいつと婚約者なのはわかったが、あんた、自分がどういう風に扱われてるのかわかってるのか? こういうの初めてじゃねえんだろ?」
ツィロが不躾に言う。彼女は視線を泳がせた。
「それは……でも、夫となる方の意に沿うのは、淑女としてのあるべき姿です。それに騎士になられる方で、力もお強い……少し、当たってしまっただけです。それでわたくしは、足を踏み外して――」
「あのよぉ、脅すわけじゃねえが、人間は意外と脆い。打ちどころが悪ければ十センチの高さから落ちても死ぬぞ」
「そうそう。ツィロの言う通りだ。俺たちみたいに頑丈ならともかく、お嬢様みたいに華奢な女の子は、死ななかったとしても骨が何本か逝っちまうだろうな」
「っ……」
青白い貌の美少女の肩が震える。ようやく、自分が殺されかけたことを実感したのだろう。相手に殺意がなくても、死にかけた人間はその時の感覚や感情を忘れることはできない。例えば今日の夜、ベッドで目を閉じた彼女は思い出すはずだ。落下時の浮遊感も、突き飛ばされた感触も、全てを――
いっそ哀れだと思う。
向こうにしてみれば、騎士爵の養子――ほとんど平民に哀れまれる筋合いなどないのだろうが、思わずにいられない。貴族の結婚は家同士の繋がりであり、個人の感情よりも、家の利益や家長の意思が反映される。
話を聞いていてトムは察した。彼女の生家であるバルツァー伯爵家の家族関係の一切は不明だが、この婚約が解消や破棄に帰結することはないのだ、と。
アイヴィは伯爵位を持つ立派な家柄の、結婚相手など引く手あまたであろう美しい少女だ。その気になれば南部でいくらでも嫁ぎ先を探せるに違いない。それなのにも関わらず、性格に問題がありそうな中央貴族と婚約しているのだ。南部貴族の娘がわざわざ中央の貴族に嫁ぐ。となればそれは、十中八九、政略だろうう。
「エッケハルトがどういう男か、バルツァーさんの親父さんは知ってんのか?」
「おい。チャールズ」
三人の中で一番『かわいい』を連呼していたチャールズが言った。
それは余計な口出しだと判断し、トムが口を挟む。貴族の婚約に関して、第三者どころか、他人も他人の自分たちがどうこう言うべきではない。そう考えて咎めるように名前を呼ぶが、チャールズに続いてタイロンも「ロクなやつじゃねえぞ」と言い出した。
「本気であんな男と結婚すんのか?」
「もっといい男はいくらでもいると思うけどな」
タイロン、ツィロと続き、トムはひたいを押さえる。
ここでアイヴィが『貴方たちには関係ありません』とでも言ってくれれば、トムたちは『そうですね。すみません』で立ち去れるのだ。しかし彼女は怒るでも、不快さを露わにするでもなく、眉尻を下げた。
「今は、今はあのように振る舞われますが、学園を卒業して伯爵位を継ぐという自覚が芽生えればお変わりになるはずです。きっと、ええ、きっと……」
「今大事にしてくれないやつが、結婚してから妻を大事にするとは思えねえけどな」
チャールズが核心を突く。
(思っても言うなよ)
人間はそうそう変わらない。トムの目から見ても、エッケハルトが精神的に大人になり、アイヴィを慈しむ夫にならないのは明白だ。言葉より先に手が出る人間はいるが、その性質が収まることはほとんどない。暴力を振るう人間は、腕や足が吹っ飛ぶなど、物理的に不可能にでもならない限り暴力を放棄しないものだ。
しかしそれを口にするのは無責任だろう。
例え、彼女が答えを求めてきたとしても――
「トムさんもそう思いますか?」
「あ?」
黙り込んでいた自分に問われるとは思っていなかった。アイヴィの悲壮を湛えながらもなお澄んだ目がトムを真っ直ぐ見つめている。
「いや、俺は――」
答える立場にない。
そう言おうとした時、上の階から「あああああ腹立つぅぅぅ!!!」と聞き覚えのある怒鳴り声が聞こえてきた。咄嗟に視線を上へ向ける。聞き間違うはずがない。機嫌が悪い時のティリーの声だ。彼女は怒りを自分の中で昇華することのできない類いの人間である。
トムはフッと笑い、目の前の伯爵令嬢に視線を戻した。そして口を開く。
「結婚は家同士の問題だ。もし令嬢が家族と特別仲が悪いっていうんじゃないなら、一回話してみればいい。解消やら破棄やら白紙にはできなくても、契約の見直しくらいはできるんじゃねえの?」
「でも――」
「ここは騎士科の棟で相手のテリトリーだ」
彼女の言葉を遮った。トムは心なしか早口で言葉を紡ぐ。
「勝手知ったるところだし、仲間や味方もいるかもしれねえ。そんなところで狙ったように階段から突き落としたなら、偶然でも衝動的にでもなく、あいつの計画的な犯行って線もある。味方がいるなら口裏を合わせやすいし、誤魔化しも効くからな」
「そんな……事故、ではないと……?」
「さーな。それはあの男にしかわかんねえだろ。まあ、とにもかくにも動かないことには何も始まらないぜ? 残された時間は一年もない。結婚して相手の家に入っちまったら、あんたの家は本格的に手も口も出せなくなるぞ」
「あ……」
アイヴィ=フォン=バルツァーの目が見開かれた。薄幸の美少女から意識を逸らした。
「悪いが用事があってな。令嬢を送ってはいけない。ああ、嫌でも目立つだろうが、できるだけ人目を避けながら本棟に帰ったほうがいいぞ」
「待っ――」
トムはアイヴィの横を通りすぎると、そのまま長い足で階段を登って行く。
後ろに続いた三人の悪友の内ツィロとタイロンは「頑張れよ!」「バルツァー嬢、早くしねえと昼メシ食い損ねるぞ!」と、すれ違いざまに彼女へ声をかけていた。三馬鹿は馬鹿だが、優先順位を間違えない。友情云々を抜きにしても、トムは彼らのそういうところを信頼していた。
ただ美意識が強く、美しいものに目がないチャールズだけは、名残惜しそうにチラチラ後ろを振り返っては「気をつけて!」と繰り返していたのだが。
「すげー声。あいつぶちギレてんな」
「三年の教室で暴れたんじゃねえのか?」
「だったら不機嫌にはならねえだろ。むしろスッキリしてるはずだぜ?」
「負けた、とか?」
「はあ!? あいつが!?」
騒ぐ三人の悪友の声を背にトムは足を動かす。
アイヴィ=フォン=バルツァーの件は他人事ではない。貴族同士の繋がりは重要だ。当代のフェッツナー男爵の神聖契約の話は有名で、東部貴族の次男や三男を持つ家は、ティリーを有望な結婚相手として見ている。伴侶に操を立て、それを一族で受け入れる、辺境伯の覚えめでたい家――大事な家族を送り出すなら、誰しもがそういう家を求めるものだ。
当代の男爵のように家の益を度外視し、ティリーが感情を持って伴侶と結ばれることを、一族や臣下が反対することはない。同じく、もしもティリーの婿に据えられる男がどうしようもない屑だったとしても、臣下であるトムたちは受け入れるしかないのだ。
(子供のまんまでいられたらいいのにな)
そんな考えがトムの頭をよぎるのと、視界に鮮烈な赤が飛び込んでくるのは、ほとんど同時だった――。
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