第31話

 授業の内容が頭に入ってこないまま、気がついたら放課後になっていた。

 書記の立候補者たちのエントリーシートを眺めながら、月日は生徒会室でうんうんと唸っていた。


(だめねワタシったら、気持ちの浮き沈みが出ちゃって)


 こんな時はいつも、ティムに相談するか、はるるんの写真を見て元気づけていた。

 しかし、今ははるるんのフォルダを開く気さえ起きない。

 あれほど憧れていたのに、いざ現実世界に好きな人ができると、気持ちはすべてそっちに持って行かれてしまう。

 人の心は案外単純にできているのかもしれない。

 気持ちはすでに累に一直線だ。


「いったい、誰のことが好きなのかしら」

「――なにを悩んでいるんですか?」


 凛とした声が響いて、月日は「ひっ!」と小さな悲鳴だけに留める。

 目をぱちくりさせながら口元を覆い隠した月日を、横から累が覗き込んできた。


「叫ばなくなっただけ、先輩も成長してますね」

「毎日成長痛だらけよ」

「えっ、まだ身長伸びているんですか?」


 まあねと返事をしてから、月日は椅子の背もたれにぐでんと寄り掛かった。


「んもー、いるならいるって声かけてよ。累ったらいつもおばけみたいよ」

「声かけたじゃないですか、なにを悩んでるんですか? って」


 そうだけど、と月日はため息を吐く。


「それで、悩みがあるなら聞きますよ。私でよければ」


 もともと表情が乏しいため、月日のことを気にかけているようには見えない。

 しかし、気にしていなければ累は声さえかけないタイプだろうから、言葉通り心配してくれているのだろう。

 彼女は鞄を使っていない椅子の上に置き、会計のノートを備品棚から取り出す。〈YAMADA〉と書かれたシャープペンをノートに走らせた。

 長い髪の毛を逆手で耳にかけた仕草に、月日の心臓が止まりかける。

 じめじめした梅雨時期なのに、彼女の髪の毛は長くて黒くて、つやつやストレートだ。それは、しっかり手入れをされていると断言できた。


「……累って、髪の毛すごくきれいよね」

「悩みを聞く話はスルーですか?」


 累は会計のノートから顔を持ち上げて、月日を見つめた。


「悩みなんてないわよ。しいて言えば、モテすぎて困ってることくらい」

「それはいつものことですし、これからご自分でどうにかするんですよね?」


 そうよ、と伝えると累は小さく微笑んだ。


「髪の毛……褒めてくれてありがとうございます」

「お手入れが行き届いているもの。長い髪の毛って大変でしょう?」


 姉その一はスーパーロングのため、いつもうっとうしそうにしている。切ればいいのにとぼやくと、長いのが似合うのだと言い張るのだ。

 顔が同じ月日が短くてもおかしくないのだから、長いほうが似合うというのは本人の好みに違いない。


「でも、長いとアレンジもたくさんできて可愛いわよね」


 言いながら、彼女がヘアアレンジしているところを見たことがないな、と月日は首を傾げた。


「アレンジすることじゃなくて、ロングが好きなの?」


 月日の質問に、累はシャープペンを走らせていた手を止めた。


「好き、と言いますか……」


 累にしては、煮え切らない言いかたに違和感を覚える。ぼそぼそしゃべっていても、声質なのか人がいないからなのか、妙に室内に響いて聞こえた。


「……長くて黒い髪の毛が好きって、言ってたから」

「――……誰が?」


 訊ねる声は、想像以上にかすれてしまった。累は待ってというように計算機を取り出して、数字を入力し始める。


「ねえ、累。誰が言ってたの?」


 計算し終わったのを見計らって、再度聞き直す。じいっと覗き込むと、累は観念したように息を吐いた。


「気になる人が、です。作業に集中できません。黙っていてください」


 ムッとし始めた累に、月日は畳みかけるように質問を投げる。


「気になる人? それって、累の好きな人ってこと? 年上、年下? それとも、同じクラス?」

「うるさいです先輩。私のプライベートなんて、どうでもいいじゃないですか」

「いいじゃない、恋バナしたって」

「不要です。さっさと仕事終わらせて帰ります。次話しかけてきたら、これ先輩に全部やってもらいますからね」


 ぴしゃりと言われて、月日は黙る。しかし、悪い予感が胸の内に広がっていた。

 そういう嫌な直感ほど、的中するものだ。

 ちらっと彼女を見ると、黙々と仕事をこなしていた。


(――累の好きな人って、セイメイじゃないの?)


 結局、その一言は言えないまま、時間だけが過ぎていく。

 頬杖をついてシートをいくつもチェックするが、頭に入ってこない。

 苦しくて月日は泣きたくなった。そんな月日には目もくれず、累はただ静かに作業をするだけだった。

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