第30話

 予鈴で目を覚ますと、頭がすっきりしていた。

 午後も放課後も、これですっかり気持ちよく過ごせそうな気がしてくる。

 もらった紙パックのイチゴ牛乳を手に持って、先生に一言買い手から保健室から出た。廊下にはまだ昼休みの余韻が残っている。

 陽光が差し込む廊下を歩きながら、教室に向かう途中で廊下の奥に累の姿を見つけた。


(すごい、ほんとうに会っちゃうなんて!)


 恋の力だろうか。

 思わず跳ねた心臓に、月日はこれが恋するということなのかと胸に手を当てた。


(まだ時間あるし、お話ししたいな……)


 彼女に挨拶しかけてから教室に向かおう思い、つま先を彼女に向ける。

 すると、累がこちらに向かって歩いてきた。


(こっちに来る、やった!)


 自然と笑顔になった月日は、手を上げようとしてピタッと止まった。


「……セイメイ?」


 彼女の隣にスーツ姿の人影が見える。


(累の担任じゃなかったはずだけど)


 累は、はにかんだような笑顔でセイメイと話をしている。

 こちらに向かってきているので、彼女たちが一歩進むごとに表情がよく見える。


(仲良しさんなのね)


 なにやら二人で楽しそうに会話していたが、突然セイメイが累の頭をポンポンと撫でた。

 じゃあな、と言うしぐさのあと、セイメイは授業のある教室へ向かうために累と別れて階段のほうへ消えた。


(あ……)


 月日の脚が止まる。

 累はほんの少しうつむいて、下唇を噛みしめていた。


(まさか……)


 累がこちらに歩き始めたので、月日はとっさに柱の陰に身を隠す。

 月日には気がつかなかったらしく、彼女は早足で自分の教室に戻って行った。

 その頬に、ほんの少し赤みがさしている。


「まさか、累の好きな人って…………」


 キーンコーンとチャイムが鳴った。

 月日は壁に背中を預けたまま、固まっていた。

 今までと別の意味でバクバクし始めた心臓に手を置く。嫌な予感がざわりと背中を震わせ、冷や汗が噴出してきていた。


「……セイメイってことあり得る……?」


 もう一度、先ほどの累を思い出す。

 月日には見せたことのない、穏やかで心を許したような笑み。

 冗談を言い合う楽しそうな姿。

 そして、頭を撫でられて恥ずかしそうにする表情――。


(知ってるわ、ワタシ……)


 多くの女の子から告白された月日だからこそわかることがある。

 それに、累をずっと目で追っていたからこそ、彼女の乏しい表情の中に含まれるわずかな感情の変化もわかるつもりだ。

 人が、恋をしている表情がある。


(間違いないわ、絶対。ワタシの直感がそう言ってるもの)


 胸が錆びた鉄くずのように軋む音がした。


「好きって気がついたばっかりなのに……」


 神様は意地悪だ。


 芽生えたばかりの初恋が、こんなに苦しいなんて。


「……なんでよ……」


 月日は髪の毛を掻き上げながらその場に座り込み、ぎゅっと目をつぶった。




 事の顛末を大輔に話すと、大輔はなんともいえない渋い表情になった。


「それお前の主観だろ? 実際に聞いてみないことには、事実かどうかわかんないだろ」

「そうなんだけど。でも、明らかにあれは、恋する乙女の表情だったもん!」


 食い気味に力説する月日に、まあまあ落ち着けと大輔は口を曲げた。


「変に勘ぐってもダメよね」

「そうそう。ちなみに、累ちゃんがセイメイに恋していたとして」

「うっううっ……そんなはっきり言わなくても」

「お前めんどくさいところで乙女出すなよ!」


 大輔は月日を小突く。月日はティムとハンカチを握りしめて、目に涙をためていた。


「セイメイのことを好きだったとしたら、月日はどうすんのっ?」


 あえてはっきり大輔に言われて、月日は「ひーん」となりながら涙をふいた。


「どうするって言われてもぉ~~~」


 累への気持ちに気がついたのは、ほんの数日前だ。

 今までリアルな恋心に縁のなかった月日が、気持ちを整理するのは難しい。

 しかも相手が自分に興味を持ってくれず、かつ、好きな人がいるとなれば。


「わかんない! 累のことをこのまま好きでいていいのか、それとも応援すべきなのか」

「……また、お前自身の気持ちを押し込めるのか?」


 せっかく、王子脱却をしようとしていたのに、と大輔は神妙な顔つきになった。


「…………」


 いつか、累が恋心はきれいじゃないと言っていた。

 今なら、それがわかる気がする。


「……ワタシが累のことを好きでいていいのなら、好きなままでいるわ」


 大輔が顔をあげた。


「やっと気づいたのに、このままなかったことにしたらワタシの恋心がかわいそうだもの」


 傷つくことを恐れて、自分を押し殺すことを繰り返したくない。

 今度こそ――。

 好きな人がいればこそ、強くなれるものだってあるはずだ


「俺もそう思う。誰かを好きでいる権利は、平等にあるはずだ」


 突然、きゃあきゃあと女子たちの黄色い声が聞こえてくる。

 階段下から出て顔をのぞかせると、セイメイが女子生徒たちと並んで歩いていた。


「やだ、セイメイじゃないっ!」

「うっわ、このタイミングで現れるとか。ボス感全開すぎんだろ」


 いきなりの恋敵(仮)の登場に、月日はむすっと口を尖らせて頬を膨らませる。

 大輔に肘でつつかれて、ハッとして乙女を封印した。

 女子生徒たちに絡まれている恋敵(仮)の声を聞こうと、二人は耳を澄ませた。


「セイメイ先生、彼女いないのー?」

「いないねえ、可愛い妹ならいるけど」

「やだー、シスコン!?」

「いや、どちらかと言えばあっちがブラコン。それも重度の」

「うっそーやばーい!」


 大輔は月日に半眼で向き直る。


「案外、くだらない話題なのな」

「そうね。あ、まだまだ話が続いているわ」


 再度二人は、セイメイに集中した。


「じゃあ、妹さんくらい可愛い人じゃないと、彼女にしたくないでしょ?」


 それにセイメイはないない、と苦笑いで手を振った。


「いくら妹が可愛くても、タイプじゃないもん。俺、まっすぐな長い黒髪がタイプ。妹は茶髪だから。っていうかそれ以前に妹だからな、ただのクソガキだよ」


 女子たちはセイメイのタイプを聞いて、自分たちも黒髪ストレートにしようかなーなどとはしゃいでいる。

 セイメイは適当にあしらうと、次の教室に向かってしまった。


「セイメイもモテんのな」


 大輔が胡散臭そうな顔をする。


「まっすぐな長い黒髪、ね。累ちゃんみたいなのかな?」


 月日の胸がモヤっとする。


「話し戻すけど。変に勘ぐるよりも、累ちゃんに好かれる努力してるほうが建設的だぞ」


 月日はポケットの中のティムを握りしめた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る