〈9-3〉

「魔がさしたという事か?」


問いかけにリエルは小さく頷いた。雷神が眉を潜めながらそれを聞きつつ、キンキンに冷えたオレンジジュースを涙ぐんでいるリエルの前へと静かに配置した。風神は赤くなった鼻を啜りながら何も言わず、少しずつ冴えていく頭で考えはじめる。そして。


「おいおいっ兄貴」


雷神が驚いて宥める、風神がヘルメスの胸倉を突然掴み上げたのだ。低身長の足が浮き上がり、帽子が床に落下してひっくり返る。追い打ちで革のブーツがそれを踏みつけ、帽子に納まっていたであろう長い緋色の髪がバサリと下へ流れ降りる。


「何か、したんだな」


凄む風神にヘルメスはニヤニヤしていた、水神はその光景にただ瞳を細めた。状況が良くわからない雷神は、リエルに早くオレンジジュースを飲むように促した。


「なんかキレてるけど、俺が異世界をすごい欲しがってたのは知ってたでしょ。今だってそうさ」


「だったらなんだ、お前はそもそも参加しなかったじゃねぇか。とりあえず殴る」


もう片方の手の甲に血管が浮き上がり、鉄拳制裁がチャージされた。


「ちょっとちょっと!もう、野蛮なんだから。馬鹿だな風神…欲しいからってさ…俺がよく知りもしない奴から商品をすぐ買うと思うかい?」


「…他の神をエサに、様子を見てたと。そして今回リエルとあの【呪い】を使ってあちらの失脚を狙ったとな」


水神が口を挟んだ、ヘルメスがそれに正解だと言わんばかりに人差し指と親指をくっつけると円をつくった。呪い?蛍が呪い…風神はそれを反芻しながら項垂れる。あの禍々しい気配は、たしかにそうとも取れる。


「呪い…なのか、あの女は」


そして静かに呟いた、水神がそれに応えるように視線を絡ませた。


「はあ…でも結局むこうの手回しが早かったみたいで失敗しちゃった」


「そうかよペテン師」


風神は頷く、しかし胸倉は掴んだまま離さない、結局ヘルメスの顔面には怒りの鉄拳が叩き込まれた。強めを二発、全て鼻っ面にクリティカルヒットした。離れていく拳の直後に、鼻血がコミカルに吹き出し大理石を汚した。


「兄貴、いいパンチだ」


そう言う雷神はぶっちゃけ、もうどうにでもなれという気持ちだった。店で暴れないで下さい、とも思っていた。一旦床に降ろされるヘルメス、しかしこれだけで終わるだろうか。次を繰り出す前に水神が制止する。


「もうよい、やめんか」

「止めんなよ、こんなクセぇやつ野放しにしてたらまたなんかやらかすぜ」


「昔よりかはマシにはなったが、血をのぼらす癖は中々抜けんのだなおぬし。でももうやめておけ、リエルが怖がっておる、雷神の店も破壊する気か」


雷神はうんうんと頷いて、風神はリエルの様子を確認した。水神の膝の上で琥珀色の瞳に涙を溜めている、そして何か言いたげだった。


「すまん、怒りすぎた」


そう呟くと座り直す、ヘルメスは大したダメージではないようなフリをして無表情だが正直痛い。鼻にティッシュを丸めて捻じ込み、それから隣で同じように座る、ただ鼻孔でじりじり血の這い寄る感覚が不快だと眉を潜めた。雷神はカウンター上の有様に溜息をつき卓上用ゴミ箱をカウンターに設置した、散らかるティッシュを手早く片付けダスタークロスで綺麗に拭き上げる。


「とりあえずリエルに謝れ、ボロボロになりながら異世界にいっちまったあいつらにも」


風神がヘルメスを睨む。


「はーい、皆さんどうもみませんでした」


ガンッと椅子が蹴り上げられる。


「ちょっと…しばらく大人しくしてるから、もう水に流してくんないかな」

「ゲスが、一生大人しくしてろ」


ヘルメスが肩をすくめるとヤレヤレと小さく呟いた。反省は薄い。


「そりゃキツイ…あ、そうだ。ずっと聞きたい事があったんだ」

「なんだよ」


「あんたら、リエルをいつまでここに置いておくつもりなの」


「文句あんのか」


「ないさ、けどもうリエルは神じゃない。人だろ。なら同じ人の社会へ放り込むのも優しさじゃないのか?ここは時の流れが歪んでいるから歳は取らないけど、長く生きすぎると神と比べて人間はすぐ壊れる。心がね」


ヘルメスは笑いながら舌なめずりをした。


「もう一回、わからせてやろうか」


飲むタイミングを失った酒のグラスが水と混ざり合い結露していく、店内に荒い風が吹き抜ける、しかし水神がそれを遮る。


「落ち着け、ヘルメスの言うことも一理あるかもしれん」


「は?」


「最後まで聞け、だが我々はリエルの意思を尊重したいと思っている。本人がそうしたいと思えるまで、壊れようがどうなろうが最終的には本人次第だと思っておる」


「へえ、そう」


「別にこいつは、壊れねぇさ」


風神が言い切るとグラスを空にした。雷神は頑なに水のみをつぎ足し、それから小鉢に入った柿ピーの盛り合わせを無言でそれぞれの前へ配置する。水神は膝に座ったままのリエルに視線を落とし唇を柔らかく開くと、笑いを含みながら。


「そうじゃの、壊れんよ…なんたってリエルは風神の嫁みたいなものじゃ」


ブッ。風神がグラスの水を盛大に吹き出す。

雷神は間一髪ひらりと身をかわした。


「は?ちょっと何それ?早く言ってよ。そういう趣味だったわけ…いやはや…ぷっ風神、本当っ面白いね君」


予想外の水神の発言に風神は硬直し、そしてリエルの顔は一気に赤くなる。ヘルメスも戸惑いをみせるも直後吹き出していた。


「そういえば、神のくせに人を嫁にもらったりする変わり者もいたっけ。風神もそうだったんだ」


「そうじゃ、きっと、明らかに下心じゃぞっこいつぁ…くっくくっ」


ヘルメスと水神が露骨な動揺に対して肩を揺らし、風神も小刻みに震えだす。からかわれ怒っている。カウンターを激しく拳で叩くと衝撃で柿ピーが飛び散らかり、雷神はそれを悲しそうな目をして片付けた。

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