〈8-3〉

「ほらウェイン、とても顔色がよくなったわ」


給仕後、明らかに体調が良くなっていた。

母親が手鏡を見せてきて改めて思い知る、もうそこに蜂ノ瀬誠はどこにもいない。ふわふわくせ毛のショートヘア、あどけないウェイン少年がゴールドアイでこちらを見つめていた。髪色と顔は母親似で、瞳は父親譲りのようだ。


それから誠は毛布を羽織りバスルームへ連行される。途中で、電車の事、皆の事を思い出す。あの後どうなったのだろう。風神が皆を助けてくれたのだと信じたい、メイド服を見るとルファの事を考えてしまう。どうか無事であって欲しい。


歩きながら色々な情報が飛び込んでくる、高そうな燭台やアンティーク家具、それから部屋がいくつもありここはどこかの大きなお屋敷なのだと察する。そして目的地、黒い煉瓦の壁に囲われ中心には大きめの白い猫脚バスタブが構える。頭上には開花した花弁のような照明、すでにお湯も張られていた。白い湯気が立ちのぼって小窓から見える景色は夜だった、ひんやりとしたバスルームに外はきっと寒いのだろうと考える。


「えーと…」


誠は口を開く、しかしベロニカに突如毛布を剥ぎ取られ「たかいたかーい」の要領で天井高く持ち上げられていた。急すぎてリアクションがうまく取れない、彼女は腕力も強い、ウェイン少年の全身を下からウットリ見上げている。先程の事で、首筋にはガーゼが貼られていた。


「ウェイン…本当に良かった、二度と目を覚まさないかと思った。サイラス様もあんなにやつれちゃってさ、みんな心配してたんだよ」


急にぐしゃっと泣き出してしまった、すると唐突に半分開いた扉がノックされ執事が入ってきた。背の高い痩せ型で、清潔感のあるツーブロックの七三ヘア。黒縁メガネをしていて見た目年齢は40ぐらい。


「失礼します」


一方のベロニカは不機嫌そうに顔を顰めると俯き、チッ…と舌打ちをした。2人だけの空間に、彼女は五月蠅いクソ虫が入り込んできたとでもいうような態度であった。


「ベロニカ、いい加減にしなさい…ウェイン様が困っているでしょう。早くシャーロット様のところへ、ここは私が」


「…はあい。それではウェイン様、また」


巨大な溜息が吐き出される。ようやく誠は床に降ろされた、会釈するとベロニカは執事に殺意を込めた一瞥をきめ部屋から出て行った。


「まったく…暴走を止める事ができずに申し訳ありません、こちら入浴に必要なアイテムを幾つかお持ちしておりますので」


木目調のサービスワゴンが押されながら部屋の中に転がり込んだ。そこに乗っけられた瓶の中見はそれぞれ、ボディーソープ、シャンプー、リンス。

それと桶に着替えと、タオルまで―――。


「ありがとう…ございます」


「サイラス様からうかがったのですが、今までの記憶がないのですね」


と、いう事にしたのであった。別の世界から転生してきました!なんてそもそもそんなぶっ飛んだ内容が通じるかわからない――というか、この体の主であるウェインはどこへ。誠は不安そうな眼差しをシノノメへ向けた、シノノメは先程から眉を若干潜めている。


「はい。なので…色々教えていただけないでしょうか」


「わかりました、ではまずは自己紹介をさせて頂きます。私はこのギャラガー家と貴方に仕える執事、シノノメと申します。主に教育係です」


「し…シノノメさん、わかりました。ええと、僕はなんであの場所に」


「それは」


シノノメが言葉を詰まらせる。白い手袋を外すとそれを折り畳んでポケットに収納した、一呼吸置いて袖を二つまくりあげると観念したように話し出す。


「ウェイン様は、魔女の呪いを受けてから目を覚まさなくなりまして、それからあの場所に保管され旦那様達と交代で見守っておりました。色々手も尽くしてかれこれ1年ぐらい。窮屈な場所だとは思うのですが、あそこが一番安全ですので」


「1年も!?魔女の呪いって一体」


新しい異世界ワードが飛び出した。

返答を待ちながら桶で湯をすくい頭から滝のようにかぶる、そしてシノノメが直ぐさまボディーソープを背中に塗りたくりブラシで優しく泡立てた。温い、血流が良くなっている心地よさを得る。


「魔女の一族というものが何種類か存在していて、その中でも北の森に住むリューシオルの魔女達。彼女達が死んだ後は魂ではなく、呪いになるとまで言われています」


「…その呪いが僕に?」


今度は手指で丹念に頭皮が泡立てられる、これで全身泡だらけとなった。誰かに洗われるなんていつぶりなのか、誠はなんだかこそばゆくて目を閉じる。そして疑問を追加した。


「あの、いつもこんな風に誰かに洗われてるんですか?」


「はい、ウェイン様が頭と背中を洗うのは気怠い…と申していましたので。ベロニカか私が」


誠は頷きながら「ええ」と、声を漏らしそうなのを堪える―――ウェインは甘えん坊というやつなのだろうか。しかしまあ、まだ子供のようだしと頭を振って仕切り直す。細かい泡が周囲に飛び散り、シノノメがそれを怪訝に見つめながら話を続ける。


「ウェイン様がこうなる直前、屋敷に小包が届きました。その日にかぎって我々は旦那様の急用に付き添いみんな出払っていて…奥様もご友人宅からお茶に呼ばれて留守でした」


―――その荷物が、呪いの源?


突然、頭の中に身に覚えのない記憶の断片が映し出された。


あの日ウェイン少年は1人、屋敷で留守番をしていた。

配達員がやってきて荷物を手渡す、それは男だ。顔は帽子で隠れてよく見えない。宛名は、記憶がきっと曖昧なのだろうぼやけてしまっている。送り主の名前も不明。そして彼はそれを好奇心から開けてしまった、オルゴールサイズの木箱が出てきた。そのまま躊躇うことなく中身を確認する。


内容物は、脈打つ心臓。


それはまるで待ちわびていたかのように禍々しい瘴気を放つとウェインの体を包み込んだ。そしてそのまま…


「ウェイン様っ」


どれくらいボンヤリしていたのだろう、シノノメが叫んでいた。そしてお湯が頭から再度かけられる。誠は我に返って手の平で顔の湯を拭った。


「…あの日の事、箱の中に何が入っていたのか…思い出しました」


「中身は、私の旧友であるシャーマンによって処分されています。もうウェイン様が心配する必要はありません、無事目を覚ましたのですから呪いも消えたはずです。大丈夫ですか?部屋に、帰ります?」


「い…いえいえ大丈夫です!せっかくなので、このまま湯船に浸かろうと思います。シノノメさんも、ゆっくりしてて大丈夫ですので。有り難うございます。あともう一つ聞きたいのですが」


「はい?なんでしょう」


「僕は、吸血鬼なんですか?皆さんも」


記憶が無い設定にしてもこれはさすがにアホ過ぎる質問だろうか?誠は少し後悔した。シノノメは引きつった表情で固まるが、一息ついて顔色を変えず穏やかに対応してくれた。


「吸血鬼なのはサイラス様、シャーロット様、ウェイン様だけです。我々使用人達はほとんどが人間…ほとんどと言いましても片手で数えられるぐらいしかここにはおりませんが」


「何か気をつける事ってありますか、陽に当たらないようにするとか」


「ああ、日光には当たっても問題ないです。サイラス様が人との間に産まれたハーフです、なのでウェイン様は耐性があります。シャーロット様は危ないですけど…それと」


シノノメはさらに続けた。


「人間の中には、魔族を良く思っていない者が多く存在しています。理由は話せば長くなるのでまた別の機会に…とにかく、知らない相手に身分を明かすのは控えた方が良いかと」


この後一つどころではなく、結局幾つも質問していた。ちなみに先程の〈給仕〉は少量を月に数回程度で大丈夫らしい、普段は通常通りの食事で問題ないとの事。異世界と前の世界での情報が少し食い違ってるが、吸血鬼の事情なんてそもそも何が正解だったかなんてわからない。


「それでは、私は廊下で待機しておりますので。何かありましたら遠慮無く」


シノノメはお辞儀をすると扉を閉める。誠は内心1人になりたかったのもあり、この束の間の時間を満喫する事にした。といいながら、質問の最中からずっと浴槽に浸かっていたのだが。


「はあ…やっぱ風呂最高」


風呂という空間は昔から好きだった、落ち着く。思わず独り言が飛び出してしまうほどに。両腕を上げて伸びをすると、寝っぱなしでなまっていた関節が音を鳴らした。


「それにしても、呪いとか、嫌われてるとか」


呪い、それについては蛍の顔が脳裏をよぎる。

禍々しいイメージが直結したのだ。


「勘弁してくれ」


鼻下までお湯に沈めると周囲を見回す、掃除の行き届いている清潔感あるバスルームという点しか見当たらない。それにしてもこの風呂、よくみると湯沸かし機能がついている。


不思議なのは変わらないが、この異世界は思っていたよりも前世界の面影を所々に感じる。扉の向こうでシノノメがクシャミをした、そろそろ出よう。とりあえずなんとか生活はしていけそうだ、前向きにいこう。誠は己を鼓舞した。それから浴槽からゆっくり立ち上がって、手触りの良いバスタオルに身を包んだ。

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