〈8-2〉
―――どぷんっ
深く青い海にでも投げ込まれたようだ、でも不思議と不安は覚えずに底を目指してどんどん沈んでいく。魚はどこにもいない。誠はそんな事をユラユラ考えながら、クラゲみたいに漂った。そしてたどり着く、入れ物に収納されるかのような感覚の直後、ついに意識が覚醒した。
指先が動く、足で敷かれたシーツのシワをなぞる、もぞもぞ探ると長方形の箱の中に横たわっているようだった。何か甘い匂いがして植物のようなものに手が触れる、綺麗な花だったらいいな。徐々に視界が開かれ、微睡みから意識が引っ張り出される。
「 かっ…はっ 」
久方ぶりに肺で酸素を吸い込んでいるんだという実感が湧いた、それと同時に体の異常なまでの渇きが呼吸を阻害する。これは転生したという事なのだろうか?思ってたのとは違う、明らかにたった今産声をあげて誕生したわけではない。また真っ暗だ、手を上に伸ばすと天井にすぐ触れた、いや違う、それは内容物を保管するために被せる蓋だった。
まるで、棺桶。
「だ…だれ…かぁ!」
力が余り入らずもなんとか押し上げようと暴れる、咄嗟に出した声は元よりも随分と幼い。すると箱の外側で重い鉄格子の扉が開く、ここは室内のようだ。カツンカツンとヒールの音が反響し、ジャラジャラとこの棺を縛り付けていたらしい鎖と南京錠が外された。
ガタンッ
蓋が開くと外は想像よりもずっと明るかった、反射で瞼を閉じて腕で光を遮った。
「…ああ、ああっ」
声だ、酷く驚いて焦ったような。光に目を慣らしながら腕をどけた、見知らぬ女性であった。洋画に出てきそうな雰囲気を醸した、美しい面立ちをしていた。心配そうに覗き込んでいるのが、整った眉の動きから読み取れる。
「え…あ…」
「ぱ…パパァァア!早く来てええっ!」
突然叫ばれたこの瞬間、誠の頭には会社の二次会で上司にカラオケへ連行された挙げ句にクリスタルボイスで「ママァーーー!」と十八番を何度も聴かされたシーンが蘇る。それは今後二度と思い出すことの無いどうでも良い記憶であり、直後忘却された。
「…あの…僕は」
「おかえりなさい、ウェイン」
女性はじっと誠を見つめる、透き通るような青いガラスのような瞳。そしてその端麗さが一気に泣き崩れた、瞳と同色のクラシカルな青を基調としたタイトなチュニックドレスを身に纏うその姿は中世ヨーロッパの貴族を連想させた。
女性は腕を棺に潜り込ませると誠の上体を起こした、体を覆うように敷き詰められていた白い花がいくつかそこから零れ落ちる。もう一つ気付いた事がある、全裸だ。その体はまだ未熟で、子供のように思えた。
ウェインとは一体、混乱したまま女性に身を委ねる。
長いウェーブのかかった、白いマリーゴールドみたいな髪からは良い香りがした、香水とはどこか違う優しくて安心するような…―――目の前に垂れ下がる自身の前髪も同じ色をしている。そうしていると、扉の向こうから石造りの階段をバタバタ駆け下りてくる足音がした。
「ウェイン!!」
重いはずの鉄扉が軽々しく開かれる。今度は男性のようだ、歩み寄ると女性の背後から誠を強く抱き締める。よれよれのシャツにスラックス、ブロンドの髪は肩まで伸びきってボサボサ、やつれ顔には無精ヒゲが鼻の下を中心に生え散らかっていた。男女ともに、20代前半と若い。口々にウェイン、と誠に呼びかけていた。これは確実に、このウェイン少年の両親なのだろう。
「ベロニカァ!すぐに来てくれないか!ウェインに給仕だ!」
「起きたばかりだから、乾いているでしょう…もう少し待っててね」
父親は大きな声で誰かを呼びつけた、今から食事を取るのだろうか。
それにしても言語がすんなり理解出来ているのは何故だろう、これが異世界の不思議パワー?誠には漠然とした憶測しか生まれない。
少しするとメイドが現れた、首元が大きく空いた作りの制服で丈は足首まである、目がぱっちりとした黒髪プチシニヨンの若い娘だ。しかしその手には何も持っておらずに奇妙に思えた。
「さあ、ウェイン様」
「え」
3人の視線が注がれる、ベロニカと呼ばれるメイドは誠の顔と同じ高さまで屈むと自身の首筋を口元へ差し出す。
「ウェイン、頂きなさい」
父親が笑顔で促す、誠は何をあおっているのかわからずに体を強張らせて沈黙した。疑問が次第に大きくなっていく。
「奥様、よろしいですか?」
「ええ、お願いするわ」
ベロニカは痺れを切らし立ち直す、母親は微笑しながらゆっくりと頷いた。それから誠の体はふわっと上へ持ち上がり、一糸まとわぬ姿のまま肌寒い地下室の空気に晒される。
このベロニカは女性の中では身長がかなり高めだ、180あるかもしれない。対面すると熱っぽい暗めのグレーの瞳に囚われる。抱え込まれ、後頭部に手が添えられると強めの力が込められた。それから半ば強引に誠の顔面を首筋に押し付けた。
「ぅぶっ」
「ウェイン様」
「…あ、あのっ」
全裸のまま、しかも女性と密着している。
この現状に誠はかなり狼狽えた。女性経験がなんやかんやでまったくない。そう、誠はいわゆる童貞だった。ウェインの母親とはまた別で良い香りがするし、エプロン越しに胸の大きな膨らみがとても柔らかく感じて――ぐるぐると顔を火照らせながら誠は戸惑う。そして、吐息と共に耳打ちをされた。
「お願い、噛んで」
以前の世界で「噛んで」なんて初対面で言われたら、この人変態なんだってドン引いてしまうだろう。普段なら。しかしその言葉はとても魅力的で心へ響いてくる、噛みたい。噛んでみたい。
誠は怖々と口を開いた、肌に突き刺さりそうな犬歯が生えている。ついに噛んだ、白い肌から赤い血が滲み出す。いつの間にか彼女の頭を抱き寄せていた、不可抗力にように歯止めが利かず無我夢中でひたすら啜っていく。満たされていく全身の渇き、血の味、だけどそれは誠が知っているものとはまったく違う。とても甘美な、ご馳走のように思えた。
ベロニカは少し仰け反りながら身震いし、抱く力が一層強くなる。
恍惚とした笑みを浮かべてこの給仕に幸せを噛みしめている。この体の持ち主は、ずっとこういう風に生きてきたのだろうか。だとすればきっと人間ではない。
これは、吸血鬼ではなかろうか。
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