〈1章〉そして僕は、異世界へ〈本編〉
第1話 BBAに刺身包丁でさばかれた件
夜が終わり、朝が始まった。
人々はいつも通りの生活をなぞるべく、陽の光を体に浴びていく。
これから英気を養う者、家事をする者、会社や学校へ赴く者。様々な想いを乗せた満員電車は、鬱屈として線路を滑り出す。
今日もそれぞれの日常がどこかで交錯し、世界という箱庭の中で独特な喧騒を奏でていた。
今日の天気は午前中は晴れ、午後からは全国的に曇りのち雨になるでしょう。
「…なん、でだよぉ」
蜂ノ
彼は現在、息絶え絶えに声を振り絞っているところだ。凍え始めた11月の雨が体を湿らせ、腹に数カ所空いた穴から血液の流動を促進させた。崩れ落ちた体の周囲に、それがドス黒く円を描いて広がっていく。死の吹溜りが、完成しつつあった。
「お前が…お前が私を置いていこうとするからぁ!!」
寂れた住宅街で女が喚いた。凶器となる刺身包丁をブンブン縦に振り降ろしながら、ヒステリックに声を荒げるのは彼の母親だ。
どうして居場所がわかったんだ?
誠は短息しながら思考し、狼狽えていた。
社会人になり、この母親と縁を切るつもりで実家を飛び出したのに。
居場所なんて、伝えてないのに。
忘れた頃にまた、こんな形で再会してしまうなんて。
黒い髪を振り乱し、雨で化粧が溶け落ちた母親の顔を醜いと認識した。
容姿の問題ではない、誠に対する異様な執着がそう思わせている――
「おかあさんの事…嫌い?ねえ、無視しないで…話聞いてよ、そばにいなきゃ、家族なんだから。一人に…しないで」
うるさい、もう喋るな!
誠は表に出ることはない悪態を、心で吐いて握りつぶす。
僕の人生って一体、なんなんだよ。
先日切ったリクルートカットも、スーツまでもがずぶ濡れ。
理不尽な母親、不快な雨。凄く、なにもかもが鬱陶しい――
薄れていく意識の中で、誠は憤った。そして遠く遠くなっていく、自分からも、その場所からも。
ついに視界が真っ黒になると、まるで世界と体が切り離されたかのように宙を舞う。
現代の平均寿命から考えて、とても短く呆気ないバッドエンドだ。
誠は脱力したまま、真っ暗な世界を漂うが、突然現れた光の柱に吸い込まれた。
地獄だったら嫌だなぁ、と考える。
「 え 」
しかしそこは、地獄どころか天国でもないようだ。
薄暗い店内――ファミレスだった。
もっとこう、現実離れしたファンタジー溢れる景色を想像していたのだが。
ここはまるっきり、それとは程遠い。手頃な値段で美味しい食事が楽しめ、さらにはドリンクバーまでついてくるファミリーレストラン感が半端ない。
「…もしかして、寝落ちただけ?」
腹の傷を素早く確認する、どこにも異常はみられなかった。
なんだってんだ、思わず海外ドラマのごとく肩をすくめる。
突っ伏していたテーブルの座席から立ち上がり、挙動不審にその場から見渡す。
誰もいない貸切状態だ。頭上で吊り下がる、オレンジとブラウンの二色ステンドグラス照明がこの店内では唯一の灯りらしい。店員も見当たらない。ただ有線で、クラシックが流れている。これはたしか「天国と地獄」。
誠はロールカーテンの垂れ下がった窓辺の席に移動する、少しめくって外を覗くとなんの光も存在しない暗闇だった。途端に心細くなる。
「すみませーんっ」
それを打ち消すように声をかける、食べた形跡もレシートのようなものも見当たらない。しかし、今はここに留まった方がいい気がすると誠は考える。外の暗さは異常だ、迂闊に出歩くのは危険過ぎる。
店内を手探りで動き回っているうちに、次第に目が慣れてきた。
壁沿いに手を這わせるとスイッチに触れた。パッと蛍光灯が周囲を照らす、厨房だった。眩しさに視界を順応させていくが、相変わらずホールと同じでそこには誰もいない。あとは厨房内にある【スタッフルーム】だけだ。数回ノックする、しかし応答はない。しかしこれ以上は調べる場所がない、誠は意を決して大胆にドアノブを回した。
拒むこともなく開き、視界に広がったのは鮮やかな緑色の部屋。ロッカーが四つに、そして大きな姿見が壁に取り付けられている。踏み込んで行く途中、誠は思わず「うぇ」と間抜けな声を出してしまう。
姿見が映したのだ、腹部を刺し傷で滲ませた青白い男を。膝がガクンと折れて、尻餅をついた。僕だ、まるで亡霊じゃないか。こんな状態で生きてるはずがない。異常箇所へ手を添える、生暖かい。さっき確認した時は、なかったはずなのに。
そうか、やはり僕は―――死んだ。
理解した瞬間、傷口が異様な熱を持った。
死の間際の痛みが再現され、まるで生にすがるように主張し始める。
誠は両手で押さえ込みながらのたうち、背を丸め
「お客様、失礼致します。ここは関係者以外立ち入り禁止となっておりまして…ホールの座席でお待ちください」
頭上から女性の声が降り注ぐ、誠は息を荒げて顔だけ横にずらすと反応をみせる。声の主は、子供だった。年齢は小学校低学年ぐらいだろうか、長い金色の髪を大きな団子ふたつにまとめていて、その両方には黒い細めのリボンが可愛く結んである。リボンと同色のメイド服を着て、背からカラスのように黒い双翼が見え隠れしていた。美しい翡翠の瞳が、まばたきをただ繰り返す。
「魂の損傷が酷いようですね、さぞ壮絶な人生を送ったのでしょう。修復が必要かもしれません、今にも消え入りそうなので」
「…ここって、どこなんですか」
子供にまで敬語で話してしまうのは、単純に癖であった。
少女は目の前の姿見を指さし、誠は視線でそれを追う。そこには激痛に苦しむダンゴムシの様なサラリーマン、のはずが。
「体が」
誠は目を見開いて凝視する。
体が透き通っていくのが鮮明にわかった、先ほどまではなかったジワジワとした恐怖が爪先から這い上がる。死んだ後さらに消えるってどうなるんだ。
人格の消滅。
存在の消滅。
「こわいっ…消えたくない!」
悲鳴のような声と共に、誠の体が強張った。
額を床にこすりつけ、自らを腕で強く抱きしめていた。
「失礼します」
半狂乱に飲まれていく誠の背に少女が触れる、すると小さな掌からはあたたかな光が生まれて部屋全体を真っ白に包み込んだ。不思議なもので、先程の痛みも不安もまるで嘘みたいになくなっていく。
「応急処置のつもりでしたが、とりあえずこれで大丈夫みたいです」
少女は胸を撫で下ろす、誠はうつ伏せのまま姿見を確認した。
相変わらず青白いままだが、もう傷や透けた部分はないようだ。そして華奢な少女にしては力強い片腕に引っ張られ、誠の体はようやく起こされた。
「ありがとう」
お礼を述べながら姿をよく観察する、翡翠の瞳でこちらを真っ直ぐ見上げていた。
翼以外は、普通の少女にしか見えない。
「どうぞこちらへ、支配人がすでに待機していますので」
膝丈スカートに重なる白いエプロンフリルを揺らし、背を向けるとまた誠の手を掴んだ。言いながら半ば強引に歩き出す、いつのまにか横並びになっていく。
「あの、まだ状況がよくわからなくて…僕は死んだって事ですか?」
「はい」
「じゃあ…君は天使?ここは天国…かな、それとも」
質問した側であるはずの誠は、ここで怖じ気づいて言葉を詰まらす。
唾を飲み下し喉を鳴らした。ホールへ戻るといつの間にか電気がついていて明るかった、それと引き換えなのか有線は
「私はルファ、天使業は先日クビになりまして…今は何者でもなく上の方々が面倒だと思う仕事をただ任されこなしています。そしてここは、お客様のように満身創痍生き抜いた魂が招かれる場所。前世の行いを振り返り、然るべき世界へ送り出す場所なのです」
まるで用意されたかのようなセリフを喋るその翡翠の瞳は、なにもかもを見透かしているように思えた。とにかくここは、神様に選ばれた魂が招かれる不思議な領域。誠は今、そこにいるのであった。
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