〈1章〉僕が異世界に行くまで・HARDMODE

第1話 BBAに刺身包丁でさばかれた件

また朝が来た、人々はいつも通りの生活をなぞっていく。

家事をする者、会社や学校へ行く者、様々な想いを乗せ満員電車は鬱屈と線路を滑り出す。朝礼、キーボードを叩く音、急き立てる電話。財布片手に小走りで階段を駆け下り、御近所に馴染めず吐きだす溜息。


それらが全て混ざり合うと今日も独特な喧騒を生み出していく。


今日の天気は午前中は晴れ、午後からは全国的に曇りのち雨になるでしょう。


「…なん、でだよぉ」


蜂ノはちのせまこと、男性、24歳。

彼は途切れ途切れに声を絞り出す、凍え始めた11月の雨が体を湿らせ腹に数カ所空いた穴から血液が溢れるのを促進させる。手の平では間に合わずに、体温と一緒に外へ流れ出る。うつ伏せに崩れ落ちた体の周囲にドス黒く円を描いて広がった、死の吹溜りが完成しつつある。


「お前が…お前が私を置いていこうとするからぁ!!」


寂れた住宅街で呻き散らす女がいた、凶器となる刺身包丁をブンブン縦に振り降ろしながらヒステリックに声を荒げるのは彼の母だ。この誠という男は苦労人である、そして困惑していた。社会人になってからは縁を切るつもりで家を飛び出したのに、居場所なんて伝えてないのに。忘れた頃にまた母に再会してしまうなんて、こんな形で。


黒い髪を振り乱し、雨で化粧が溶け落ちている母親の顔は醜かった。

それは容姿の問題ではない。


「おかあさんの事…嫌い?ねえ、無視しないで…お母さんの話聞いてよ、そばにいなきゃ、家族なんだから。一人に…しないで」


うるさい、もう喋るな!と。

表へ出ることはない悪態を心で吐いて握りつぶす、切り立てのリクルートカットもスーツもシャツもずぶ濡れだった。理不尽な母の声と雨の不快感。凄く鬱陶しい、本当に最悪で最低だと遠のいていく意識の中で思われる。


遠ざかる、どんどん、自分からも、その場所からも。そしてついに視界が真っ黒になると、体から何かが遮断されたのだ。彼は現代の平均寿命から考えるととても短い人生に感じる、しかしその人生の内容は中々に濃いものだ。誠は脱力したまま真っ暗な世界で、暫くぼんやりしている、それからしばらくしてから視界に光が蘇った。


地獄だったら嫌だな、と考える。


「 え 」


薄暗い店内だった、そこはファミレスだった。

もっとこう、現実離れしたファンタジー溢れる景色を想像していたのだが、ここはまるっきりそれとは程遠い。手頃な値段で美味しい食事が楽しめて、さらにドリンクバーがついてきちゃったりするファミリーレストラン感が半端ない。


「…もしかして、寝落ちただけ?」


腹の傷を素早く確認するがどこにも異常はみられない。

なんだってんだ。


突っ伏していたテーブル座席から立ち上がり挙動不審にその場を見回した、誰もいない貸切状態だった。この頭上に吊り下がるオレンジとブラウンの二色ステンドグラス照明だけでこの店内は照らされている、店員も見当たらない。ただ有線でクラシックが流れているだけだった。これはたしか「天国と地獄」。


誠はロールカーテンの垂れ下がった窓辺の席に移動する、少しめくって外を覗くとなんの光も存在しない暗闇だった。途端に心細くなる。


「すみませーんっ」


それを打ち消すように声をかける、食べた形跡もレシートのようなものも見当たらない。けど、今はここに留まった方がいい気がすると誠は考えた、外の暗さも異常だし迂闊に出歩くのは明らかに危険だ。


店内を手探りで動き回る、次第に目が慣れてくる、壁沿いに手を這わせるとスイッチに触れた。パッと蛍光灯がそこに灯る、厨房だった。眩しさに視界を順応させる、しかしホールと同じでそこには人はいなかった。あとは厨房内にある【スタッフルーム】とやらを数回ノックする、返事は返ってこない。だがもうここしか調べる場所がない、そのまま大胆にドアノブを回した。


ガチャ…


その先に広がっていたのは緑色の壁と床、ロッカーが四つ、そして大きな姿見。


部屋へ入り込んでから、誠は驚きで「うぇ」と間抜けな声を出す。この部屋が緑一色だったからじゃない、姿見は映したのだ。腹部を刺し傷で滲ませた青白いサラリーマンの男を。膝がガクンと折れ尻餅をついた、まるで亡霊。こんな状態で普通は生きてるはずがないのだから。異常のある場所へ手を添える、生暖かい、さっきはなかった。


そうか…やはり僕は、死んだのだ。


そう、理解した途端。

死んだはずなのに、その傷口だけが熱く、痛く、すがるように主張し始める。押さえ込みながらのたうち、背を丸めうずくまる。


「お客様、お取り込み中失礼致します。ここは関係者以外立ち入り禁止となっておりまして…ホールの座席でお待ちください」


頭上で女の声がする、顔だけ横にずらして反応をみせる。それは子供だった。


見た目は小学校低学年ぐらいの、長い金色の髪を頭頂部で大きめの団子ふたつにまとめ、その両方に黒い細めのリボンが可愛く結んである。服はリボンと同色のメイド服、背中からはカラスのように黒い翼が見え隠れしていて美しい翡翠の瞳をしていた。


「お客様は…魂の損傷が酷いようですね、さぞ壮絶な人生を送ったのでしょう。補修が必要かもしれません、今にも消え入りそうなので」


「…あの、ここって、どこなんでしょう」


子供にまで敬語で話してしまうのは、単純に癖。その少女は目の前の姿見を指さし、誠は視線でそれを追う。そこには激痛に悶え苦しむダンゴムシの様なサラリーマン、のはずなのだが。


「は…体が」


誠は目を見開く。

凝視する、体が透き通っていくのが鮮明にわかった。先ほどまではなかったジワジワとした恐怖が込み上げる、死んだ後さらに消えるってどうなるんだ。


人格の消滅。

存在の消滅。


「こわい…嫌だ…消えたくない!」


額を床にこすりつけ体を強張らせる、自らを腕で強く抱きしめた。

そして、腹の底から叫んでいた。


「失礼します」


半狂乱にのたうつ誠の背に少女が触れた瞬間、小さな掌からはあたたかい光が広がりそれは部屋全体を真っ白に包み込む。すると不思議なもので先程の痛みも、不安も、まるで嘘みたいになくなっていく。


「応急処置でしたが…とりあえずは大丈夫みたいですね」


少女は胸を撫で下ろす、姿見を確認した。

相変わらず青白いままだったが傷や透けた部分はもうないようだった、そして華奢な少女にしては力強い片腕に引っ張られながら誠はようやく立ち上がる。


「ありがとう」


お礼を述べながら目の前の少女を観察した、返すように翡翠の瞳でこちらを真っ直ぐ見上げてくる。翼以外は、普通の少女にしか見えない。


「どうぞこちらへ。支配人がお待ちかねです」


膝丈スカートに重なる白いエプロンフリルを揺らし背を向けると、また誠の手を掴んだ。そして半ば強引に歩き出す、いつのまにか横並びになりながら。


「あの、まだ状況がよくわからなくて…とりあえず僕は死んだって事ですか?」


「はい」


「じゃあ…君は天使?ここは天国…かな、それとも」


質問した側である誠は怖じ気づいて言葉を詰まらす、唾を飲み下し喉を鳴らした。ホールへ戻るといつの間にか電気がついていて明るかった、それと引き換えなのか有線のあの曲はだんまりを決め込んでいる。


「わ」


仲良く手を繋いだまま、いつのまにか顔をこちらに向けている少女に気付いた。


「私はルファ、天使業は先日クビになりまして…今は何者でもなく上の方々が面倒だと思う仕事をただ任されこなしています。そしてここは、お客様のように満身創痍生き抜いた魂が招かれる場所。前世の行いを振り返り然るべき世界へ送り出す場所です」


淡々と語った、その翡翠の瞳は何を見透かしているのだろう。ここは神様が選んだ魂が招かれる不思議な領域、誠は今、そこにいるのだった。

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