第3話 合鍵(1)
俺は仕事を放り出して、定時より早く家を出ていた。彼女より早く部屋に着いていたかったのだが、次第に彼女が嫌がるんじゃないかという気もしてきた。デートでない普通の日だからメイクや服も手を抜いているかもしれない。そんな姿を彼氏に見せたくないだろう。
でも、合鍵をくれたんだから、基本はいつでも来ていいということなんじゃないか。
7時くらいになって玄関の鍵ががちゃっと開く音がした。
あさひだ!
俺はドキドキした。
電気を消していればもっとびっくりするかもしれないけど、俺は電気をつけて居室で待っていた。あさひの部屋は学生がよく住むような6畳の1Kだった。俺が学生だった30年前とほとんど変わっていない。俺はフローリングの床に直に座っていた。
すぐそばで、がちゃっとドアを開ける音がした。
あさひ!お帰り。来ちゃった…。
そう言おう。俺も緊張しながら、ドアの方を向いた。
俺を見たあさひは開口一番、「江田ちゃん、びっくりした!もう!」と言うんだ。
彼女はびっくりしながらも嬉しそうに微笑んでいる。
俺はそんな反応を期待していた。
しかし、目に飛び込んで来たのは想定外の人物だった。
紺のスーツ姿の若い男。俺は固まった。
その人はまだ二十代半ばくらいに見えた。目が大きく、黒目がちで、精悍な顔をしている。いかにももてそうなのに、爽やかで誠実そうな雰囲気を醸し出していた。俺は完敗だった。どんなに頑張っても若い男には勝てる気がしなかった。
あ~あ。やってしまった、と俺は思った。
あさひのやつ、二股をかけていたんだ。
「あの…どちら様ですか?」その人は俺を見て尋ねた。けんか腰でもないし、低姿勢だった。
「あさひさんの友達で…。合鍵を持ってるので、休ませてもらっていたんです。あなたは?」彼氏らしき男の前で、交際宣言するつもりはなかった。俺が二番手かもしれないじゃないか。
「そうでしたか。僕はあさひの兄で」
「え?お兄さん?」
こんな中年オヤジが彼氏だなんて、お兄さんを失望させたかもしれないと、俺は申し訳なかった。
「今日はもしかして、あさひさんと約束されてたんですか?」
俺は尋ねた。
「いいえ。僕も合い鍵を持っていて」
「そうですか。どうぞ。座りませんか?」
俺たちは狭いテーブルを囲んだ。
「よかったらお茶でも…人んちなんであれですけど」
俺は立ち上がりかけたが、お兄さんは「結構です」と断った。何だかとても気まずかった。
「もしかして、石川から出て来られたんですか?」あさひの実家は石川県だった。有名な金沢ではない田舎町だそうだ。
「いいえ。都内に家があるんですが、どうしてるかなと思って寄ってみたんです」
何で合い鍵を持ってるんだろう…。世の中、そういう兄弟もいるのかな。あさひは家族と仲がいいみたいだから、別にいいのかもしれないが。彼氏と一緒にいる時に兄が来たらさすがに気まずくないだろうか。
「あさひの彼氏さんですか?」と、お兄さんが尋ねた。普通はそう思うだろう。父親くらい年の離れた人といたら、パパ活を疑われるが、それよりは彼氏と名乗った方がましだろう。あさひは嫌かもしれないが、俺は交際の事実を認めることにした。
「はい。実は…最近お付き合い始めたばかりです。いづれはご家族にもご挨拶したいと思っていたんですが」
「ご丁寧にありがとうございます。失礼でなければ、どういったお立場の方ですか」
「〇〇グループの子会社の〇〇部の部長職です」
「そうでしたか。ご年齢は?」
「五十一です」
「独身ですか?」
「もちろん」俺は慌てた。既婚者に見えたのだろうか。
「バツイチとか」
「いいえ。結婚歴はありません」
「あさひと、どうやって知り合ったんですか?」
「それはちょっと…」
「マッチングアプリ?」
「ちょっと言えません。あさひさんに聞いてください」
「あさひはマッチング常習者なので…」
「と言いますと…」
「いつも出会いを求めてる子でした」
知らなかった。寂しい人なのかなと思った。
「昔、本当に好きになった人に振られてしまったみたいで…それからは、ずっと自分にピッタリくる人を常に探している感じでした。誰かと付き合っても、元カレの時はこうだったとか、比べてしまうんだそうです」
「なるほど…」
それなら、俺はミッシングリンクを探す過程で発掘した、新種の原人とでも言うことか。俺が二十代だったらこいつには負けないのに…。悔しがっても仕方がない。
しかし、そいつは見れば見るほどいい男だった。男でも見とれてしまうほどだった。
「もう、男女の関係なんですか?」兄が唐突に尋ねた。
「それはちょっと言えません。あさひさんもそんな下世話な話を嫌がるでしょうし」
「私もあさひを愛していました」
「はっ?でも、ご兄弟なんでしょう?」
「…」
あ、この人は本当は兄なんかじゃなくて、元カレに違いないと俺は思った。
俺はこの人に勝ったんじゃない。ただ、後から参戦しただけだ。
100人若い女の子がいたとして、俺と兄ちゃんなら、全員が彼の方に行くだろう。
何であさひは俺のところに来たんだろう。不思議で仕方がなかった。うまい物を食い過ぎて苦い物が食べたくなったんだろうか。
「間違いなく、あさひさんは、素晴らしい子です。外見がきれいなだけじゃなく、性格もいい」何を話していいかわからなくなってそう言った。目の前にいるのがお兄さんだというふりを続けたかったのかもしれない。
「それはどうでしょうか」
男は笑った。ぞっとするほど寂しい笑顔だった。
「ところで、あなたは、都内にお勤めなんですか?」
今度は俺から尋ねた。
「はい。〇〇商事の事業会社の〇〇〇〇〇という会社に勤めています…」
さすがイケメンだけあって、勤務先は大手総合商社だった。
「へえ。すごいですね。お忙しそうだ」
「ええ。出張が多くて…それがあさひには理解できなかったようです。大学生と社会人ですからね」
やっぱり兄弟ではないんだろうなと思いながら、その人の話を聞いていた。
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