十六頁目

 数日が過ぎた。最近は寒いので暖房はほとんど四六時中、稼働させていた。部屋の中にもう食べ物はなかった。水道からは水が出る。どれだけ空腹に耐えられるだろうか。


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 伊丹いたみが訪ねてきた。曖昧な返事だけして追い返した。私の気持ちは誰にも分からない。伊丹が本当にそこにいたのか、そもそもそれすら分からないのだ。

 伊丹が訪ねてきたということは一日が経ったのだろうか。空腹はそれほど私を苦しめていなかった。

 カーテンを睨んで、ずっと気を張っている。あれからカーテンを開けたことは一度もなかった。


 ●


 腹が鳴る。身体にあまり力が入らない。インスタントの味噌汁はもうない。四合瓶に水を汲んで、飲んでは汲んでを繰り返す。腹が満たされても満足感はなかった。冷蔵庫を漁ってみた。冷凍室に霜が降っていた。刮げ取って舐めた。他には何もなかった。

 空腹とヤツのせいで苛つきが収まらない。しかし暴れる気力もない。

 万年床に倒れて、意識をなくす。


 ●


 もう限界だ。空腹とはこれほどに厄介なものだったとは。絶食から一週間も経っていたいはずなのに、精神のほうが焼き切れそうだ。

 どうするべきなのだ。部屋の外に出ても大丈夫だろうか。ヤツは幻覚だ。分かっているのに身体が動いてくれない。もう少ししたら、きっと動かしたくても動かなくなる。

 ここが最後だ。死にたくない。その思いがふつふつと首をもたげる。

 仰向けに横たわる万年床は棺桶に見えるだろうか。私を見下ろす友人たちの想像をする。皆、悲しそうにはしているが、なぜに餓死をしたのか自殺であるのか不思議でならない顔をしている。

 いやだ。死にたくない。身を起こす。照明は長らく点けていなかった。光が窓とカーテンの隙間から漏れていた。朝かの昼だ。夜に出るより、今出たほうが賢明なのは分かった。

 外に出る、出ないにしろ、部屋にあるものをまとめた。現金が一万と五千円。小銭が少し。通帳とカード。多少まとまった金が入っている。それと実印。外に出さえすれば、食べ物にはありつける。

 ダウンジャケット、それと手袋、マフラー。厚手の靴下と裏起毛のズボン。外で活動するのに申し分ない。

 スマートフォンを郵便受けから取り出した。充電は切れていた。充電がたまるのを待っている間、湯を沸かして飲んだ。塩が残っていたので溶かして飲むと、しょっぱくて美味かった。

 砂糖と醤油もあったので、それも試してみた。これが存外に美味かった。

 もう少し、ここに籠城できそうだ。

 その日の、おそらく晩。万年床に横になっていると、伊丹がまた来た。何かを玄関の前で言っていたが聞き取れなかった。私も声を出せなかった。

「まさか、死んではいないよな」

 そう聞こえたとき、死ぬのかと思った。

「死なない」

 玄関の前まで這いつくばって行く。そしてもう一度、死なないとはっきり言った。

宍戸ししど、様子が変だぞ。なんなら病院にでも……」

「いいんだ。伊丹。何でもないから。近いうち顔を出す」

 床に話しかけるようにして声を出した。伊丹は黙っていた。そして「そうか」と不服そうに言って帰った。


 ●


 限界は唐突に、そして激烈に訪れた。限界とは超えるまでは分からないうえ、超えたときには、超えている程度が激しいことが多くたちが悪い。

 私は呻いた。腹が減った。伊丹が来てからどれほど経った。伊丹に問われてから、いやが上にも死ぬことが頭に浮かぶ。精神が壊れているのが分かった。空腹より、そちらのほうが苦痛であった。正しくは空腹によって精神が蝕まれていた。

 万年床から起き上がる。ダウンジャケットを着込んで、金銭関係の全てをショルダーバッグに詰め込む。ズボンを履き替えて、四合瓶の水をラッパ飲みした。スニーカーを土間から持ってきて履いた。

 万年床に胡座をかいてカーテンを睨んだ。動悸が収まらない。このままでは死ぬ。死んでしまう。

 なけなしの涙が流れた。叫んだ。叫んで立ち上がった。玄関の前に立つ。

「はあっ……ああ!」

 鍵を開けて飛び出した。夜だった。

 とにかくどこか、安全な場所に逃げなければならなかった。

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