十五頁目
リサイクルショップからどうやって帰ってきたかは覚えていない。少なくとも車は使わなかった。足がとても痛い。歩いて、走って、そうやって帰ってきたのだろう。
アパートに着いたのは日が暮れて暗くなった後だった。詳しい時間は分からない。部屋の鍵はかけていなかった。戻ってからはずっと万年床の毛布にくるまっていた。
何時間経ったか分からないが、部屋も外も暗かったので夜中だと思う。暗くて何も見えなかった。明かりは点けたくなかった。
インターホンが鳴った。暗闇の中で音だけが存在する。自然と布団を掴む手に力が入った。居留守をした。
「いるのか?
「いるならそれでいい。俺が迷惑したわけじゃなし。しかるべき説教は皆川からされるかもしれないが、何か事情があったんだろう?」
伊丹はなぜか私がいることが分かっているようだった。
「今日はすまなかった。また今度、詳しい話と謝罪をする。そう皆川に言っておいてくれ。スマホは落とした」
私は顔を玄関のほうに向けて、少し大きな声で言った。
「分かった。任せておけ。土曜日はなしになったから、ゆっくり休め」
伊丹の声は優しいもので、私が望むようなものだった。
「ありがとう」
この声が聞こえたかは分からない。伊丹の去っていく足音が聞こえた。
私は暗闇の中で枕元を探った。四角いそれがあった。私はその本を抱えて、ここまで帰ってきた。これのせいで帰ってきた。
本のタイトルを知覚した瞬間、頭が真っ白になって、ただひとつの妄想に囚われた。幻覚と現実と私と私以外を、どれも正しく認識できていないのではないか。
ずっと思ってきたことだ。騙し騙しやってきただけだ。犬なんていなかった。もしかすると伊丹も皆川も
アマバタ様と書かれた本。
暗闇の中で持ち帰った本を敷き布団の下に入れた。私にはもう、本を確認する勇気もなかった。
暗闇の中で怯えることしかできなかった。伊丹の来訪だって幻覚かもしれない。そう考えると、玄関を開けるなんてことはできそうにもなかった。身体が動かなかった。
全てを認識しないように暗闇の中で。どんな些細な音や空気の揺れに気を張りながら、粛々と時間が経つのを待つ。寒かったが暖房のスイッチの在処が分からない。毛布にくるまり、そのままにした。
そして肉体は疲れていく。眠ったほうが何も考えなくていいことに気づいて、私は眠れるように気持ちを整える。
眠れるまで長い時間がかかった。そう感じただけかも分からない。
プッツリと緊張が途切れて、眠りに落ちた。
●
窓から日の光が差し込んで、眩しさに目を覚ました。寝ぼけ眼で窓のほうを見てぎょっとした。ふらつきながら急いで立ち上がって、カーテンをぴしゃりと閉めきった。テーブルに向こう脛をぶつけたが気にも留めなかった。
切れる息と高鳴る心臓を落ち着けるために台所に向かう。冷蔵庫の発泡酒を呑み干す。目をつぶって一息をつく。
部屋が薄暗かった。照明を点けた。
腹はどんな状況でも減った。冷蔵庫を再度開けて検めたが、腹にたまりそうなものはなかった。外に出る気はない。もちろん、大学にも行くはずもない。いけるはずもなかった。
冷凍室を覗くと、いつ冷凍したか分からないご飯が出てきた。炊いて余った白米は冷凍して保存しておくのだった。ハッとして米びつを開けると空だった。
薬缶で湯を沸かして、インスタントの味噌汁を作った。そして冷凍ご飯を電子レンジで温めた。その間も落ち着かなかった。
ご飯を茶碗に移して、ふりかけをかけた。味噌汁で白飯を流し込む。台所で立ったまま、食べた。
発泡酒一本では酔わなかった。何も考えたくなかった。悩むという桎梏から解き放たれたかった。もう一度、冷蔵庫を開くと四合瓶が横たわって入っていた。いつか伊丹からもらった日本酒だった。
瓶を手に取る。そのまま口をつけようとして、思いとどまった。
グラスを山積みの洗い桶からつまみ出して洗っているとインターホンが鳴った。その音に驚き、グラスをシンクに落として割ってしまった。欠片が流水で流されていく。
「いるのは聞いてる。携帯は車に置きっぱなしだった。それと置いていった皿も持ってきた」
皆川の声だった。不機嫌そうではなかった。感情がないようだった。
「いるんだろ? 開けてくれよ」
ガチャガチャとドアノブが回される。鍵がかかっているので当然、皆川は入ってこれなかった。
「み、皆川か? 大学はどうしたんだ?」
水を止めて聞く。私は怖くてドアノブから目が離せなかった。
ドアノブの音が止んで、皆川の溜息が聞こえた。
「午後は講義がなかった。それより開けてくれないか?」
「無理だ」
声をひりだす。息が荒い。今頃になってアルコールが回ってきたわけでもない。
「よく聞こえん。どうしたんだ本当に。なあ」
「帰ってくれ! もう今日は……頼む……」
私の恐怖は爆発寸前だった。目の前の見えない皆川が幻覚でない証拠はない。ドアを開けたら雲散霧消するとも限らない。その前にドアを開けることは、絶対にできなかった。
「それはないだろう。一応、こっちは迷惑してんだ。気にかけて来てみればこれか? 丁重な応対だな」
皆川の感情がないように思えたのは、静かな怒りを隠していたようだ。皆川の言い分はもっともで、反論の余地もない。受け入れるべき怒りだ。けれど、それとこれは別なのだ。開けることはできないのだ。
「すまない。本当に申し訳ないと思ってる。だから、今日だけは……頼む」
腰が砕けて、その場に崩れ落ちた。もう何も見たくなかった。言葉もこれ以上、出なかった
「ちっ、分かったよ。今度、必ず訳を聞かせろよ」
皆川の声が聞こえたが、立ち去る足音は聞こえなかった。かわりにガサガサという音が聞こえる。衣擦れの音だった。そしてガタンという音がなって、扉の郵便受けに何かが入れられた。
「携帯は今、郵便受けに入れたからな。皿は置いていく。じゃあな」
そう言ったが早いか、タッタッと速い足取りで皆川は去ったようだった。礼を言う暇もなかった。
郵便受けにおずおずと近づく。そこには皆川の言うとおり、スマートフォンが入っていた。私はそれを取らないで、そのままにしておいた。皿も確認しなかった。
コップの破片を集め、冷蔵庫の上にいくつか積まれている新聞紙に包んだ。
もうひとつ、慎重にグラスを洗い桶から探り出す。洗って水ですすぐ。今度こそと日本酒を注いで呑んだ。アルコールの味がした。一気呑みをしたので身体が少しぐらついた。けれどすぐに慣れて、もう一杯呑んだ。
右手に四合瓶。左手にコップを持って万年床に腰を下ろした。そしてぴしゃりと閉じられたカーテンを――その奥の窓外を睨んだ。透視能力など私にはない。けれど見ていなければなかった。
ちびちびとコップの酒を呑む。アルコールに冒されながら、時間が流れていく。そして腹が鳴った。何時間か経ったはずだ。四合瓶もとっくに空だった。しかし水分も取らず、トイレにも行っていないのでアルコールが全く抜けない。
コップを床に置いて、四合瓶を転がした。そのとき、またインターホンが鳴った。そしてノックが何回か鳴った。
「宍戸。酒盛りでもしないか」
伊丹の声だ。酔って頭が回らない。その声にドアを開けそうになった。しかし足がもつれて玄関の前で盛大に蹴躓き、大きな音を立てた。
「おい。何の音だ。宍戸、聞こえているのか」
顎を打って、呻くことしかできない。このままでは無理矢理にでも、部屋の中に入られてしまう。ドアを開けられてしまう。
「伊丹、なんでも、ない。転んだだけだ」
「本当か? 苦しそうだが」
伊丹の声は安堵にも聞こえたが、まだ不安が残っているように思えた。
「打ちどころが悪かったが、心配はない」
起き上がってその場に胡座をかく。右手で顎の具合を確認する、痣になりそうだった。
「そう、か。それで酒盛りはどうする」
頭がはっきりしない。アルコールが悪さをしている。いや、これでいいのだ。恐怖を忘れるために、幻覚を忘れるために私は酒に縋ったのだ。それならば、まだ足りないくらいだ。
玄関のドアを見る。伊丹がそこにはいるはずだ。立ち上がって、三歩足らずでドアノブに手を掛け、開けることができる。簡単なことだ。
「よし」
「来るのか?」
私は声を上げ、自分を鼓舞する。立ち上がってすぐなのだ。どうということはない。開けてしまえば、それまでだ。物事の八割はやり始めたら終わっているとも言う。
立ち上がり、息が正常にできなくなる。おかしい。頭が勝手に回転して、後方の窓のカーテンを視界に入れた。
「無理だ……伊丹。帰ってくれ。また、今度な」
そう言いきった瞬間、ドッと空気が肺から押し出てきた。外に出なくていいと決めると精神が綻ぶ。しかし脅威がなくなったわけではなかった。
「はあ。そうか。じゃあまた……この紙袋はなんだ?」
外の伊丹が言う。何でもないと返事をすると「皆川も来たのか」と呟いた。
「そうだが、何かあったのか?」
「いや。なんでもないさ。何かあったら呼ぶといい。なにしろ、一部屋挟んだ隣人なのだからな」
伊丹の足音がぽつぽつと聞こえた。すぐに足音は聞こえなくなって、ドアの開く音が聞こえた。伊丹は自室に戻ったようだった。
酔いを醒ましたくはなかったが、どうも気分が悪い。水を飲んで、酒を探した。酒は部屋のどこにもなかった。
用を足すのにバスタブは見ないようにした。
落ち着かない。落ち着かないままに万年床に倒れ伏した。
目をつぶっていると、意識がどんどん遠退いていく。眠りか気絶か、誰にも分からない。
●
気がつくと照明の光が眩しかった。明かりを点けたまま眠りこけてしまっていた。
自分がいつ目覚めて、いつ活動しているのか不明瞭だ。記憶がない。リサイクルショップから帰ってきて、私はどうしたのか。思い出せない。二日酔いのように頭が痛い。
今は何時だ。起き上がって窓のほうへ向かう。テーブルに足をぶつけた。痛みはそれほどなかった。
窓の前に立つ。カーテンに手を掛ける。ひと思いに開いた。
私はその瞬間、後ろに飛び退った。そして四合瓶に足を取られて派手に転んだ。尻は万年床のおかげで助かったが、頭を壁に打ちつけた。
外は夜だった。目が合ってしまった。声も出なかった。恐怖がこみ上げる。
ずっと私は“それ”に見られていた。
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