十四頁目

 電車を駆って半時間。あるレンタカー屋の前に私はいた。笹保ささほの知り合いの店らしく、開店時間前に手続きをしてくれるよう笹保が口利きしてくれた。今は笹保を待っているのだが、一向に現れる気配はない。

 十月にも入って気温は一入落ち込み、直射日光は眩しいだけで温かみは希薄だった。

 店は丁字路の角にあった。バスで来るにも電車で来るにも、ここまで歩かなければならない。しかし歩く人の中に笹保の姿は見当たらない。車道を挟んだ向こう側にも背の低い者の姿はない。

 そろそろ待ち合わせの時間だ。遅刻をとやかく言うたちではないが、今日は笹保がいなくては手続きができない。開店時間までは一時間以上ある。

 最悪、図々しく店の中に「笹保の友人の……」と入っていかなければならない。でなくては私が皆川との待ち合わせに遅れてしまう。

 白い軽自動車がブレーキランプを灯して減速し、私の傍らを通り過ぎて店の駐車場へと入っていった。店主が出社したのだろうか。いよいよ差し迫ったようだ。

「やあ。宍戸ししど君」

 最後と道を見渡し、携帯の通知を確認していると後ろから声をかけられた。車の通過していった道に笹保が立っていた。

「笹保、来ていたのか。気づかずに待っていたぞ。連絡をくれてもいいのに。私もしなかったが」

「いやあ。気づきませんでした?」

 笹保は頭を掻きながら言った。金田一を思わせた仕草は会話が噛み合っていないことを示唆するようだった。

「さっきの白の軽か」

「ええ」

「乗ってきたのか」

「ええ。運転してね」

 笹保は十時十分のところでハンドルを持つジェスチャーをした。

「なぜ私が呼ばれたんだ。笹保が運転すればよかったじゃないか」

「顔を立ててあげたんですよ。それと人手と道連れは多い方がいいと」

「誰が」

伊丹いたみさんが」

 私は笹保を通り過ぎてレンタカー屋のほうへ歩いた。

「気を悪くしないでくださいね」

「別に。私は首をつっこむ方が悪いのだと、この数年で学んだ。分かってたさ。こんなことだろうと」

 笹保の笑い声が後ろから聞こえた。

「踊る阿呆に見る阿呆」

 振り返って私も笑った。

「踊らにゃ損だ」


 ●


 皆川の起居するアパートは大学からは近い。しかし私のアパートの反対側にあるので、あまり顔を出したことはなかった。いつか皆川の奢りで呑み会をしたとき以来の訪問だった。

 電車で半時間の道のりは車で一時間ほどだった。皆川のアパートに着いたのは八時半を回るころだった。

 皆川のアパートはモダンというやつで、ベージュの壁にインディゴブルーの屋根が乗っかっていた。二階はなく、正面をから見るとドアが四つ並んでいる。

 駐車場が四台分アパートの裏にあって、4と白線で書かれているのが皆川のスペースだった。皆川は車を持っていないので、無論空いている。そこに車は駐めるようにと言われていた。

 皆川の部屋は左端の部屋だった。アパートの表に回ると、その扉の前に伊丹と皆川がいた。皆川が煙草を吸っていた。

「来たか。何もなかったか」

 皆川が手を振り、吸い殻を革の携帯灰皿に捨てた。

「特にはない。煙草、吸うんだな。知らなかった」

「癖みたいなものだ。家の前以外では吸いたくならんのだ」

「そんなものか」

 人が集まって、物事が始まる前の不思議な時間。何もかもが滞っているような時間。全員が始めないのかと思っているのに、口に出さないでただ待っている。皆が誰かの号令を待っていた。

 伊丹が「試しに一本吸わせてくれ」と皆川に言った。煙草とジッポを受け取った伊丹はたどたどしく煙草に火を点け、吸い込んだかと思うとすぐに咳き込んで「もういらん」と言った。皆川は「勿体ない」と言って、ほとんど丸々残った煙草を吸った。

 吸い終わってやっと「始めますか」と笹保が言って、事が始まった。

「うわ……なんだこれ」

 皆川がドアを開けると当然、土間があり、框を上がるとまっすぐ廊下があった。しかし廊下の壁が見えなかった。廊下の両の壁、天井まで本や紙類で埋め尽くされ、地層のような壁が新たに形成されていた。それが廊下の突き当たり――およそ三メートル、部屋のところまで続いている。照明が煌々と光っているはずなのに、暗く感じられて仕方がなかった。

 狭くなった廊下から部屋の様子が見えた。よくは見えないが木彫りの熊だの巨大な赤べこだの、混沌としていた。

「よく今まで生活できていたな」

 伊丹が玄関の外から覗いて言った。

「廊下が通りづらいだけで、見た目より生活はしづらくない」

 皆川が土間で狭そうに靴を脱ぎながら言った。我々は外から見ているほかなかった。皆川が中に入るまで、我々が入ることのできる余地がなかった。

「上がってどうぞ」

 皆川は身を横にして本の路地を抜けた。そして奥から手招きしている。

「手前からやりましょうよ」

 笹保が呟いて「早く言え」と小さく路地の向こうから聞こえた。

 皆川が戻り、本の壁を切り崩す作業に入った。作業に入る前に皆川が「この本の大部分は例の一人交換日記の先輩からの寄贈だ」と部屋の外から本の壁を見上げて言った。

「忍者と噂の?」

 笹保が異様な興味を示した。

「ああ。実家が古本屋らしくてな。売れなくて何年も経つ本を寄贈という形でどっさり押しつけられた。今は跡を継いで、古本屋の店主をしているらしい」

「へえ。忍者ではなかったのですね」

 笹保が入ってすぐの地層を指で撫でて言った。流し目の笹保は少しもの悲しそうであった。

「忍者に憧れた少年時代でも過ごしたのか?」

 本を縛るビニール紐の準備をしながら何気なく言った。

「僕のおじいちゃんがですね、折に触れ言っていたんです。ウチは忍者の家系だから、忍者を見かけたら親戚だと思えって」

「忍者じゃなくて、残念だな」

 私がそう言うと「そうですね」と笹保は短く言った。あとは誰も何と言っていいか分からず、何も言わなかった。笹保はけろっとして「忍者が忍者ですって言ってたら世話ないですね」と交換日記の君忍者説を消すことはしなかった。

 本の壁は意地悪くジャンル分けされて積まれていた。

 手前は哲学書や聖書、儒学や倫理学、民俗学などの本が積まれていた。本を切り崩すのが二人。本を厚さにもよるが十冊前後で縛り、トラックに運ぶのが残りのもう二人。交代しながらの単純作業の肉体労働だった。

「これが哲学の壁か」

 伊丹が崩れた哲学書に埋まって言った。

 哲学書の次は洋書だったり、とにかく日本語の本はひとつもなくなった。

「ドイツ語、英語、スペイン語。ポルトガル語かな、これは。書類はなんなんでしょう。何かの論文のコピーかな」

 笹保が生き埋めにならぬように慎重に切り崩しながら言う。

「ほう。ハングルかこれは」

 伊丹は玄関先で本を縛るのをやめて、読めないくせにパラパラと紙を捲っている。

「サーカムフレックスがあるな。スペイン、フランス語か? けど意味が全く分からない。なんだこれ」

「エスペラント語ってヤツじゃないか?」

 同じく本を開く皆川が言って、ハングルを閉じた伊丹が覗き込んで言った。

 確かに欲しい本は選別しなくてはいけないが、読めないうえにどうせ読めるようにもならない本とにらめっこしてどうするというのか。かく言う私も何となく、本をパラパラ捲ってしまうのだが。

 壁を切り崩していくと、不自然なスペースが本の壁の中に空いていた。他の本やら紙やらでそのスペースは隠されていた。

 そこには太陽の塔のミニチュアフィギュアがあった。

「万博のつもりか?」

 私は人知れず呟き、持ち帰る用に太陽の塔を自前のトートバッグにしまった。

 万博が終わると毛色が変わり、現代のライトノベルやら漫画が多くなって形成された壁になった。壁はやっと廊下の中腹あたりさしかかっただった。

「コイツはボーイズラブってやつか」

 伊丹の声が廊下のほうから聞こえてきた。

「あんまりよく分からんな」

 皆川の声とパラパラと頁の擦れる音が聞こえてきた。

「後学のために一冊、失敬しておこう」

 伊丹に皆川は答えなかった。

「これは……そうだな。乙女ウォールか? このゾーンは」

 かわりに命名宣言が聞こえた。

 乙女ウォールを崩し終え、書籍はほとんどなくなり、バラバラの紙の積まれるあたりに入った。綴じられた束があっても、一センチメートル程度の厚みだった。

「これは……なんだ」

 私は当惑して言った。紙の束を手に取り、三人の前に立って確認をする。そこにある紙は論文でもなく、何かいわくありげでもない。

「ただの古紙じゃないのか? これ」

「俺もそう思うが、どう思う?」

「右に同じく」

 三人の同意が取れ、紙は縛られることなくゴミ袋の行きとなった。

「単純にゴミだったな」

 誰かが呟いた。

 紙をゴミ袋に詰め終え、一息を吐いた。

「もう昼か。腹が減ったな」

 伊丹が腰に手を当て、のけぞりながら言った。

 空を見上げると、太陽が空の天辺に昇っていた。やはり眩しいだけで、あまり暖かくなかった。

 皆川が「もう十二時か」と言って、実は昼食の用意をしてある、と不敵に笑って本の壁の奥へと消えていった。カチャカチャと陶器どうしが触れ合う音が聞こえる。

「何を飲む。何でもあるが酒はなしだ」

 皆川の声が聞こえた。私はジンジャーエールを頼む。ある、と聞こえた。笹保の梅よろしもあった。伊丹がつぶみと、ないだろうという顔で言った。残念ながらあった。私としてはつぶみより梅よろしのほうがレアリティが高く感じるのだが、それは人それぞれなのだろう。伊丹の実家近くの自販機には梅よろしがラインナップにあったのかもしれない。

 昼食が運ばれてくるまで、縛った本をトラックの荷台に運んだ。すでに荷台の三分の二は埋まっていた。

 三十分ほど経って、料理が運ばれてきた。下準備していたのを焼いたり、揚げたりするだけだったらしく手伝いを断られた。おそらくは厨房もモノで溢れているのだろう。壁を取っ払ったあとの作業を思うと溜息が自然と出た。

 広くなった廊下で我々は宴会を開くことにした。狭いはずなのにより狭かった事を考えると広く思える。縛った諸本を椅子にして、四角を作るように四人で陣取った。

 皆川はずんだサイダーとかいうゲテモノを飲んでいた。

 なぜに品揃えがいいのか聞くと、実家が卸売りをしているから仕送りと一緒に送られてくると言った。私も実家から自家製の米が送られてくるが、それと似たようなものだろうか。

 廊下には宝船の柄が施された大きな陶磁器の皿がおかれた。それには何も入っていない。宝船の他に七枚の一回り小さい皿が並べられている。それらには赤っぽい肉や黒い肉がただ焼かれたもの。その肉の野菜炒め、ローストビーフのビーフがビーフでないもの、謎のカツなど、様々な肉料理が並べられていた。

 皿は探し当てられなかった商品のひとつ、七福神一揃えの焼き物だった。食べ終わったらもらっていいか聞くと「割れ物はどうするにしても面倒だから助かる」と皆川は言った。

「それよりこの肉はなんなんだ? 見たところ牛でも豚でもないようだが」

 伊丹が肉ではなく、つぶみの実を咀嚼しながら言った。

「ジビエというやつだ。父さんの実家は農家兼猟師兼町長兼……」

 いくつか肩書きが続いて「まあ、ともかく。じいさんが狩ってきた鹿やら熊やら猪やらがここにいるわけだ」と締めくくった。

 ありがたく肉をいただいた。格別、美味いとなるものは少なかったが、他に似た味わいのものはないように思える独特の風味や臭みがあった。それが癖になってパクパクと全員で食べ続けた。

 皆で全てを平らげた。皆川が皿を下げて包んでおくと気を利かせてくれた。肉ばかりの昼食だったので顎が疲労し、感覚が変になっていて、金魚みたいにパクパクして顎の調子を確かめて待った。

 そして椅子にしていた本を荷台に持っていって戻ると、皆川が紙袋を持っていた。七福神の皿が紙に包まれて入っていた。礼を言って受け取った。しかし、今受け取っても仕様がないので皆川に一旦、返しておいた。

「それじゃ、もう一息だな」

 今度は伊丹の号令で掘削作業が始まった。

 壁は資源ゴミかられっきとした本となり、古本だけでなく新しい本も混在していた。

「ミステリ。名作が沢山あるな」

 皆川が嬉しそうに本を手に取って置いては声をあげている。その様子を見ているとミステリを読みたくなってくる。

「これはどうだ。面白いか?」

 聞いたことがない重厚な装丁の本を手に取った。表紙買いの気分で皆川に聞いた。木の椅子にスポットライトが当てられている、ただそれだけの表紙だった。

「おお、いい趣味してるな。コイツは面白いぞ。死んだと思ってた主人公の親友が生きてて――」

「そうか」

 私はそっと本を半分崩した壁に戻した。

「すまない」

 皆川が渋い顔をして言った。

「人は過ちを犯す生き物だ。だから間違うのはいい。ただ本当にしてはいけない過ちを、しないように生きていれば、それでいいと私は思う」

「今回は……」

「してはいけない過ちだ」

 皆川にひとしきり謝られたあと、片付けながら他のミステリ本を薦められた。ミステリ好きとして本当に申し訳なかった、と低頭されたのはいい経験だったということにしておこう。

 そんなことをしていると外の伊丹と笹保から早くしろと怒られてしまった。

 笹保にネタバレを喰らわされてしまったミステリを薦めておいた。

「面白いんですか?」

「らしい。読んだことはないが。是非、感想を聞かせてくれ」

「自分で読めばいいじゃないですか」

 至極まっとうな意見を私は無視した。

 ミステリを抜けると次はファンタジーが多くなった。指輪物語から現代の異世界転生まであった。その中には私の好きなファンタジー三部作「シー・ザ・フォレスト」「クライミングイズビューティフル」「ボーイ」もあった。皆川にネタバレをせずに薦めておいた。

 そのあとはジャンルが雑多になってきて、規則性はなくなったように思われた。名作と呼ばれるものも駄作と呼ばれるものも渾然一体となり、小説の壁がそこに築かれていた。

「文学の小径か」

 私がしみじみ言うと隣の伊丹が「コンセプトとしては、全体がそれらしいが」と言った。

「ふざけた話だ」

 自分の身に降りかからなかった不幸を噛み締めながら本を縛った。

 壁を全て崩し終え、古本の状態に還元したところでトラックの荷台が満載になった。そのうえ時間も十五時を回っていたので、骨董品や食器といった雑貨の始末はまた後日ということになった。

 本は全国チェーンのリサイクルショップに運ぶ算段だった。そもそも要らないからと提供され、あまつさえ古本屋からもらい受けたものもあるのに、リサイクルショップが買い取ってくれるのかは疑問だった。運搬をしていて品に問題はなかった。それどころかいいものも沢山あった。私が言いたいのは、なんというか義理というか、古本屋から古本屋に売り飛ばされる本にドナドナ的哀愁を感じてならないという話である。かといって本を譲り受けるのは、家のスペースを鑑みて御免被りたい。

 リサイクルショップに行くのは私と皆川だった。伊丹と笹保は皆川の部屋で小物の物色をしてから、銘々に帰るらしかった。伊丹は鯉の根付けを気に入り、笹保は「南さんに似合うかも」と雷門前あたりで外国人が来ているシャツを手にしていた。

 笹保に乗ってきた車はいいのかと聞くと、レンタカー屋の店主が迎えに来てくれるという。伊丹はそれに送迎されることになった。

 皆川は笹保に部屋の鍵を渡し、帰るときにポストに入れておくように言った。トラックの荷台にブルーシートを被せ、飛んでいかないようにロープで留め、七福神の入った紙袋を持った。

 そして二人に「次の土曜日に続きを」と断って車を発進させた。

 リサイクルショップには車で一時間かからない程度の距離だった。皆川とふたりきりになるのは初めてではなかったが、疲れも混じった沈黙が気まずさへと変わっていった。十字路にさしかかり、赤信号に止められた。目の前の横断歩道を親子が通り過ぎ、車道をポルシェが通り過ぎていった。車には明るくないが、たぶんポルシェだ。

「ポルシェだ。珍しいな」

 皆川が窓の縁に肘をついて、眠そうに言った。

「やはりあれはポルシェなのか」

「謎のお金持ちはどんな場所にもいるものだな」

 確かに私の生まれ育った場所でも、たまにポルシェは見かけた。比較的田舎だったのだが、あのポルシェは誰が乗っていたのだろう。近所の家にポルシェが停まっていたのは見たことがないうえ、ガレージをなかった。ああいったポルシェは、もしかすると自然発生するものなのかもしれない。とすると運転手も存在しない。そう考えるとさっき通り過ぎたポルシェも、今までのものも運転手がいなかった気さえしてくる。

「青だ」

 皆川が信号を指さした。どうでもいいことに考え耽ってしまっていた。

「悪い」

 左右を確認して車を走らせる。十字路を過ぎると長い一本道だった。片側二車線の緩やかな下りや上りを繰り返す道。道路は等間隔に植わった欅に挟まれていた。欅の木漏れ日が斑点に見える歩道が左手にあり、蛍光色のサイクルウェアを着たローディがロードバイクを走らせていた。ちょうど下り坂でロードバイクも相当な速度が出ていた。

 ローディを追い越すときにピタリと横並びになる瞬間があった。そのときにローディと目が合ってしまって、二度と会うことはないと、自分に言い聞かせるような気まずさに苛まれた。

「なあ、皆川」

「なんだ」

 気を紛らわすように皆川に話しかけた。しかし話題もこれといったものはない。何か話題を探して、見つからない。最近あったことを振り返ってみる。そして病院で皆川に会ったことを思いだした。

「病院で会ったとき、急に帰ったが榊さんと何かあったのか?」

 榊さんに聞こうと思っていた矢先、上野咲があんなふうになってしまって聞かずじまいになっていた。あのあとからも榊さんとは連絡を取り合っているし、大学でも顔を合わせた。しかし上野咲のことで憔悴しているように見えた榊さんに、わざわざ聞く気にはなれなかった。

 つまり聞けなかったわけだが、この皆川の件を重大でセンシティブなものだとは考えてはいなかった。だから話題を探して、皆川に聞いてみてもいいだろうと、簡単に口をついて出たのだった。

 しかし皆川の反応は私の想像とはまるで違うものだった。

「バスの時間だと、言ったろう」

 とりわけ低い声で皆川は言った。私はそれ以上何も聞けなかった。低い声が私の肝を冷やしたわけではない。わざとらしく明るい語調で同じ文言を言われたとしても、何も聞けなかったはずだ。病院のときと同じ、バレバレの言い訳をなおも言い続ける。これはこのことに触れるなと言外に示しているようだった。

 気まずさを紛らわすつもりが、新たな気まずさに溢れてしまった車内は息苦しかった。

「窓、開けてもいいか」

「ん、ああ」

 皆川はクランクハンドルを回して窓の八割ほどを開けた。顔を風に当て、前髪が暴れるままにしている。

「榊さんに、何も聞いていないのか?」

 皆川は外の欅並木を見ていた。風のせいで聞こえづらかった。しかし聞き取れないほどではなかった。

「だから、聞いた。気に障ったなら謝る」

 皆川の感情が全く読めなかった。怒っていなさそうなのが怒っていそうでもある。だから皆川のほうから、この話題を継続するのが不思議でならなかった。

「勘違いされていると榊さんに申し訳ないから言っておくが、榊さんとボクは何もないからな。気をつけろよ、榊さんと話すときは」

 皆川は窓を閉めながら言った。皆川が嘘を吐くほどの理由が見当たらなかった。それに自分のことではなく、榊さんの名誉を気遣っている。おそらく、このことは本当のことなのだろうと思った。遠回しに榊さんに聞くな。そう言っていると考えるのは、いささか私の性格も皆川の性格も悪すぎる。

 そうすると、あのとき皆川が席を立った理由はどこにあるのか。疑問は残った。

「ああ。気をつける」

 私は運転に集中するように、切り替えスイッチのつもりで凜と答えた。

 疑問のほうはバスの時間ということにしておくのが、紳士だという理論で考えないことにした。

 リサイクルショップまでの二十分。それから口は聞かなかった。皆川が寝てしまったからだ。寝たふりだったのかもしれないが、それを探る気はなかった。

 リサイクルショップはかなり大きく、楽器やフィギュア、衣類など、本の他にも多くのものを買い取り、売っていた。食料品のないデパートのようだった。そのため駐車場もかなり広い。平日の昼間なので、がらがらだった。

 自動ドアを抜け、リサイクルショップの店員に買い取りを頼む。軽トラック一台分だと言うと「一日では査定が終わりません。よろしいですか」と若い男の店員は苦虫をかみつぶしたような顔で言った。承諾すると「とりあえず、運び入れてください」と言うと、レジ中のスペースを片付け始めた。

 台車を借りて本を二人で運ぶ。紙一枚の重さは、ほとんどない。しかし数百枚が集まって本を為すと、ほどよい質量が生まれる。そして本が十数冊と積まれていれと、ほどよさはなくなり苦痛と呼べる重量となってしまう。トラックの荷台から台車へ、台車を転がして駐車場から店内まで、そして台車から本を下ろす。本の束を持ち上げている時間はそこまでない。しかし身をかがめる運動が壁崩し作業からの疲労に追い打ちをかけ、物理的な症状として腰に痛みを生じることとなった。

 作業は運搬と荷下ろしのサイクルを回していた。片方が荷下ろしをしている最中、片方は店内で本を台車から下ろす。戻ってきたら交代する。

 私がトラックの荷下ろしをしているとき、指にも疲労の影響が広がり、プルプルと指が痙攣し始めた。一旦、最後にと本を持ち上げ、台車に下ろそうとしたとき、力が抜けて本を落としてしまった。そのうえ縛りが甘かったのか、紐が解けてしまって、バラバラとあたりに本が散らばってしまった。

 その中に和綴じの古ぼけた本が一冊あった。色褪せて白い表紙がセピア色になっていた。黒い紐で綴じられているのだが、紐が妙に艶々として真新しかった。紐を取り替えたのか、それとも単に保存状態が悪くて日に焼けてしまったのか。ともかく不釣り合いな紙の状態と紐の照りが私の目を引いた。

 タイトルが書かれていないから、見えているのは裏表紙のはずなのだが、バーコードが書かれていないのは妙だ。そう考えて、当時に和綴じの本がバーコードで売られているはずもないと苦笑した。とすると手作りなのか、やはり古い本なのか、確かめるべく、その本を拾い上げた。

 表紙には墨で絵が書かれていた。日本の怪談テイストの絵は白装束でひょろ長い身体と髪を持った人間が地面にへたりこんでいる絵だった。おそらく女だ。顔は髪の毛のせいで見えていない。足はわざと見えないようなデザインがされているらしかった。

 タイトルは絵と同じく墨で、そして崩し字で書かれていて中々読めなかった。最初、漢字だろうかと取りかかったのだが、どうも違う。画数が少なすぎた。現代の文字に当てはめて考えることが間違っているのか。そもそも私には崩し字の知見はなかったから、読めるはずもなかった。

 一度、目を離した。しかし私の第六感のような物が何かを感じて、すぐに本に顔を向けた。

 もしかして、これはカタカナではなかろうか。

 タイトルは表紙の右上に、行儀よく縦に書かれていた。カタカナだと分かれば、どうということはない。一文字目は「ア」だ。

 次は「マ」 

 次「バ」

 「タ」

 最後の字は読めなかった。カタカナではなかった。

 でもきっと「様」だ。

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