十二頁目

 今日はやめようかと思った。しかし確認をせずにはいられなかった。

「どうした」

 インターホンを押すと寝間着の伊丹いたみが出てきた。鼻を啜り、眠そうな顔をしていた。

「いや、酒でも呑もうかと思ってな」

「なんだ。何かあったのか」

 白々しい誘いに伊丹は眉をひそめ、私の提げるビニール袋を目を落とした。

「酒を呑むのに理由が必要か?」

「まあ、そうだが……」

 釈然としない様子で、それでも伊丹は家に上げてくれた。

 丸テーブルを挟んで伊丹と差し向かいに胡座をかく。話すこともない。馬鹿話にも花が咲かなかった。伊丹は自前の焼酎をちびちび呑んでいた。私は呑まなかった。そもそも、呑む気はとっくに失せていた。ビニール袋からビーフジャーキーを取り出す。しょっぱいのを我慢して、それだけを食べていた。

日下部くさかべだが、あいつもお前の心配をしていたぞ。連絡先、交換してなかったのだな」

「伊丹が仲介してくれたからな。私も忘れていた。日下部くんは元気か」

「この前アメフトの親善試合を見物に行った。日下部は何か重要なポジションで頑張っていたよ。勝ったみたいだがルールを知らんので空気を楽しんだだけだった」

「スポーツなんてそんなものだろ。よく分からんのに何となく楽しんでいる」

「そこがスポーツのいいところじゃないか」

「私は騙されている気になって仕方ない。ルールも選手も分からんのに点が入ったりすると声が出てびっくりする。たちの悪いジャンプスケアと同じだ」

「ずいぶんな言いようだな」

「スポーツを馬鹿にしてるわけじゃない。わけも分からずに興奮している自分が厭なだけだ」

「損をしている。どのくらいかはスポーツ好きじゃないから分かりかねるが」

「別にいいじゃないか。それに文句を言われたときは中高野球部だったと言うようにしている」

「それ、効果あるのか」

「未検証だから科学的根拠はない」

「なら言わないほうがいい。野球部は嘘なんだし」

 時間はゆったりと過ぎていく。夕暮れが窓から入り込み、夜を告げる。

 伊丹が照明を点けた。白い明かりがバチリと点いた瞬間は眩しかった。

「なんだ宍戸ししど、全然呑んでないな?」

 呑み始めて四、五時間が経って、できあがった伊丹が言う。なぜここにきて気づいたのか不思議だった。言わないようにしていて、アルコールのせいで箍が外れたのか。私はこうなるのを待っていた。駄目押しに缶ハイボールも呑ませた。

「伊丹、私に言っていないことはないか?」

「なんだ急に」

 赤ら顔で目を見開き、ニヤリと笑うと馬鹿馬鹿しそうに伊丹は言った。

「お前は俺の彼女か?」

「いいから言ってみろよ。何かあるならさ」

 伊丹は欠伸をして「そうだな」と言って鼻頭を掻いた。

「実は彼女がいる」

「まさか」

「嘘だ」

「伊丹。私は案外、真面目だ」

「だろうな。酒も呑んでいないようだし」

 伊丹はテーブルの上を指さし、私の顔を貫くように見た。実際は酔っていないのではないか。そう思わせる凄みが伊丹にあった。

「また見たのか」

「質問に答えろよ。伊丹」

 伊丹は炭酸水をペットボトルのまま、ラッパ飲みして私から目をそらした。

「宍戸。お前が何を見たのかは知らないが俺にどんな関係がある。それにもっと俺を信用しろ。俺もお前を信用してるんだぜ、案外」

 半分、馬鹿にするような、もう半分は怒るような顔をして言った。

「伊丹。空き地の犬小屋に犬の死体があった」

 伊丹の眉がピクリと動いた。そして私を睨んだ。

「それがなんなんだ?」

「時間がかなり経っていた。死体の骨がどのくらいで見えはじめるのかは知らないが、一、二週間じゃないだろう。ここ最近は寒かった。腐るのも遅いだろう。それに死体の毛は栗毛だった」

 伊丹は黙っている。大きく息を吐いて、また炭酸水を呷った。けふと小さくゲップをした。

「野良犬はいくらでもいるだろう」

「別の犬が死んでるところに寄りつくか?」

「そんなのは知らん。犬による」

「私が言っているのは、この前に見た犬が幻覚じゃないのかと疑っているって話だ」

「だとしたらなんだ。俺も見てただろ。あのときは」

「だったらどんな犬だった言ってみろ」

「そんなもの忘れた」

 埒があかない。伊丹はあくまでもあの犬は幻覚でなかったと言い張るらしい。私だってそのほうがいい。幻覚であったなら安心するとか、そのようなことはない。伊丹から幻覚でなかった証拠が出てこない。このことに安心ができない。

「そもそも。あの犬以外に幻覚らしいものを見たのか? 幻覚を見てるってんなら他にも見なきゃおかしいだろ。犬の幻覚を見るって話なら他にも犬を見たか? 大群とか」

「伊丹。あまり私を馬鹿にするなよ」

「つまり見てないんだろ。幻覚なんて」

 私は言葉に詰まった。幻覚など見ていない。しかしそうではない。私の不安はそこではない。

「幻覚を見ていてその判別がつくわけがないだろう」

 振り絞るように言う。涙ぐんでいた。すぐに服の袖で拭った。

「宍戸。俺にその不安を消す言葉をかけてやることはできない。そんな言葉はないからだ。お前のそれは八つ当たりというヤツだ」

「どうすればいい……」

 私は心の崩れる音を聞いた。伊丹の言うとおりなのだ。

 時間が流れる。伊丹の顔を見られなかった。

「不安は捨てろ。そして俺を信用しろ。とにかく信用しろ。犬はいたさ。これは絶対だ。安心しろ」

 伊丹は突き放すように言った。照れ隠しのようだった。

「私は幻覚を見ているんだ。きっと。絶対に」

「あのなあ。幻覚をそう常住坐臥と見てちゃあ生活できてるわけないだろ。お前は正気だよ。さかきさんとか皆川とか笹保ささほとか、誰でもいいから聞いてみろ。おかしなことはないって口々に言うはずだ」

 そうなのだろうか。私の疑いは伊丹に向かい、そして自分に向かう。疑いが消えることはない。誰も保証はできない。私自身でさえも。

 しかし目の前に座る伊丹までもが幻覚だと考えてはきりがない。目の前の伊丹くらいは信じて、そうしていなければ生きていることすらできない。

「そうだな……そうだよな……疑ってすまなかった。ともかく、伊丹、お前のことは信頼している。犬のことは忘れる。不安は残るが、いつか消える。私がおかしくないなら。そうだろ?」

 伊丹は私の言葉がおもしろくて仕方なかったようで、ひとしきり笑ってから言葉を紡いだ。

「そうだ、そうだよ。ノイローゼだぜ、宍戸。酒だって呑んでも平気だ。どうだ? 呑んでみてもいいんじゃないか」

 私には何が面白いのか分からなかった。伊丹にそれを問う自分の声が鼻声になっているのに気づいた。伊丹の言葉に心が救われ、いつの間にか泣きじゃくっていた。それが伊丹には面白く仕様がなかったらしい。

 大いに愉快だと言うように伊丹は酒を勧めてきた。腹を決め、まずは度数の低いものから口に運ぶ。

 幻覚など私は見ていないのだ。もう見るはずもないのだ。

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