十一頁目

 帰りのバス。私は一人だった。さかきさんたちは残ると言い、私は居づらく、一人で帰ることを決めたのだった。

 様子がおかしくなった上野咲うえのさきはどこかへ担がれていった。そのあと、やつれた顔の上野咲の母親が即座に駆けつけた。そのとき上野咲は話せる状態ではなく、母親も会えなかった。

 先に榊さんらと三人で医者に事情を聞かれることとなった。

 診察室に連れていかれ、医者と向かい合うように榊さんと上野咲の母親が並んで座る。その二人の後ろに私は座っていた。

 医者のデスクにはカルテやら書類が山ほどあり、デスクのモニターにはレントゲン写真が写っていた。医者は若い男で、四角い眼鏡が真面目そうに見えた。そして医者は上野咲の容態を語った。

「うわごとのように謝っています」

 この一言に母親は当惑して質問をぶつけ続けた。とりあえずはパニックになっているだけと医者に宥められ、過度に心配する必要はないとたしなめられた。

 なぜパニックになったのか、原因究明のため医者に詰問された。榊さんは目の前で起こったことをありのまま語った。その様子は困惑と心配に沈められていた。医者はなおも何があったのか、何かしたのか、何か取り乱すような心当たりはあるかと聞いた。榊さんは分からないと答えた。

 上野咲の母親は苛立つように、娘に会わせてと言った。医者がそれを宥めつつ、榊さんの話をとりまとめるように確認をした。

 すると部外者感が否めない私に白羽の矢が立つ。私は榊さんの話したことをなぞるように語っていく。相違ないことの裏打ちをしていく。

 上野咲と目が合う。榊さんとの違う点。話がそこへ近づいて行く度に、自分が悪いことをしたような気になってくる。上野咲の母親が私を睨むのもあって肝が縮こまった。しかし逃げられるわけもなく、話さないことのほうがよっぽど悪行であることは分かっていた。観念して母親の顔は見ないようにポツリと話した。最初、医者も二人もポカンとして私の顔を見ていた。医者は榊さんにしたような確認を私にもした。

「あなたを見てパニックに陥ったと考えるのがベターでしょうか。何か心当たりはありますか?」

 医者は怪しむでもなく私を原因として扱った。母親の刺々しい視線が私を刺す。

「あなた、宍戸ししどさん? 娘に何か非道いことしたの? トラウマになるようなこと、そうなんでしょう?」

 ヒステリックではなかったが静かな錯乱がそこにはあり、精神の疲れがそこには見えた。娘が事故に遭い、あまつさえ記憶障害。追い打ちのように気が変になったとなれば、自分だっておかしくなっても不思議でない。これで済んでいるのが奇跡なのかもしれない。

 私が弁解をする前に医者が仲立ちをして、私に質問をした。そして上野咲との関係を洗いざらい話すことになった。話し終え、まわりの反応はそれで終わりかという冷ややかなものだった。母親の目にはそれだけのわけがないという色も見えた。

「本当に?」

 母親のかわりに医者が私に聞いた。

「本当です。上野さんとはほとんど何も……」

 医者が母親を見た。母親は榊さんを見た。

「本当だと思います。上野ちゃんから宍戸さんのことは聞いたことがありませんし」

「そうだ、宍戸さん。あなた、娘と付き合ってた人じゃないの。そしたら辻褄が合うじゃない」

 母親は嬉しそうにそう言った。何としても私を悪者にしたいようだった。それか上野咲の病状について、何かしらの答えを期待して落ち着かないのかもしれない。原因は不明だと真っ暗闇に放り出されるより、悪い結果だとしても着地点を提示されるほうが楽なのだろう。彼女は今、必死にその着地点を探している。

「おばさん。宍戸さんは彼氏じゃないですよ。あったことなかったですか?」

 榊さんは苦い顔をして私を庇ってくれた。母親は私を睨み「本当にそうなの?」と榊さんに聞いた。榊さんはこっくりと淑やかに頷いた。母親はごめんなさいと私に小さく言った。

 医者は我々の顔を見渡し、よろしいですかと申し訳なさそうに言った。誰も声は出さなかった。そして一様に頷いた。医者も頷き、息を漏らすように吐いた。

「人間の脳は未だに謎が多く――」

 医者はどこかで聞いたことを前置き、人間の記憶の妙の説明を始めた。

 

 ●

 

 上野咲の場合、何年前からの記憶がないと断定ができない。事故の時のことを覚えていたかと思えば、その日の他事は覚えていなかったり、一年前のことを覚えていないといっても全てではなく、ところどころを忘れていたりする。榊さんのことをひとつ取っても、原理を医学的に解明し説明するのは困難を極める。

 上野咲は榊さんのことを忘れている。つまり中学時代からの榊さんとの記憶がないということだ。しかし中学時代やこれまでの記憶が全てなくなったわけではない。そして厳密には榊さんの記憶も完全にないわけでもない。それを先ほど確認した。

 あんなことがあった、こんなことがあったと榊さんと記憶を共有する部分は多々ある。部活や学校にイノシシが迷い込んだ話や修学旅行、その他多くの記憶をを二人は共有していたけれども、上野咲側の記憶から榊さんの存在が消えていたり、存在しても、その人を榊さんと認識できていなかったりする。榊さんの判別ができなくなっているのか、それとも榊さんの記憶が判別できなくなるほどになくなっているのか、断言することは現時点ではできない。

 上野咲の状態に結論を出すことはできない。だが今回の出来事の原因の推測はできる。

 記憶を一本のフィルムとするなら、上野咲の記憶は現在、無茶苦茶に切り貼りされた状態と言える。通常、シーンからシーンへ経験したとおりの順序で続いていく。朝、目が覚めてベッドから起き上がる。そして歯を磨いて着替えて朝食を食べて――整然とまたベッドで眠るまで続いていく。しかし上野咲は起きてから一足飛びに学校で授業を受けていたり、寝て起きて寝たりしている。そう記憶している。そしてその記憶の齟齬を補完するように、脳は記憶を無理矢理つなぎ合わせたり、捏造をしたりする。

 記憶の擦り合わせのバグが起こったせいで、宍戸くんが恐怖の対象となり、謝罪を続けていたのではないか。記憶がどうなっているのか、それはこれから聞いてみないと分からない。自身で説明できるものなのか、それも分からない。

 ただ、そもそもトラウマになる出来事がなければこの推論は成立しない。トラウマが捏造された可能性もゼロではないが、何かトラウマがあると考えるのが妥当だ。

 

 ●

 

 バスから降りると小糠雨が降っていた。傘を差すほどでもない雨はうざったい。傘を差したくても持っていないのではどうしようもない。

 帰途に就き、ぽつぽつと歩く。曇り空の町は薄暗い。家々に挟まれるアパートまでのコンクリートの道は、鬱屈とした灰色の空気を湛えていた。まだ十五時も回らない。夕暮れとも夜とも違う薄暗さは不気味で、私の心を映しているようだった。しかし、それほど暗い気分でもなかったはずだと思いなおす。

 上野咲とはもう話せそうにない。それは別段、悲しくもない。しかし、私がトラウマの勘違いの渦中に置かれ、上野母や榊さんと気まずくなってしまったのを消化できずに、腹の中に収めたままでいるのを持て余している。胃もたれだ。そして上野咲へと同情と恐怖。一歩間違っていれば私もああなってしまっていたのかと思うと、不謹慎な部分で安心してしまう。

 別れ際、榊さんに「後で連絡します」と弱々しい笑顔で言われた。私を気遣ったのか癖なのか分からなかった。上野咲の母親に謝ると「こちらこそ、申し訳ございませんでした」と一回りも二回りも年上からの敬語に閉口した。それでも娘と出くわさないようにと釘を刺された。

 コンビニに立ち寄り、麦酒を買った。呑みたい気分だった。伊丹が暇かは分からないが、どうせ暇だろうから伊丹とその他誰かの分も買った。とはいえ金がないので量はなかった。それから各種アテを買った。ビニール袋はいい重量になった。

 公園を通り抜ける。ベンチでくっつくカップルがいた。何も思わなかった。そういうことにしておいた。

 公園から出て、そのうち空き地の前に出る。犬小屋がぽつねんとある。ボロボロの小屋は恐怖より侘しさを感じさせた。その情景に雨の匂いが一層強まった錯覚を覚えた。

 犬の姿が見えない。いつもいるならば犬小屋の噂に乗って、そちらも有名になっているはずだろうから、あの日出会えたのは運がよかったらしい。

 流石に野良犬を撫でようとは思わないが、愛玩動物に心の救済を求めている節があった。あのときは伊丹がいて犬に近づくことができなかった。思えば小屋に近づいたこともなかった。

 いい機会だ。小屋を近くで観察しておこう。案外、誰かが餌付けしていて、水飲みが転がっていたりするかもしれない。それか家がまだあったころに、飼われていた犬の名前が小屋に掲げられているかもしれない。

 空き地に足を踏み入れ、小屋に近づく。小屋の入り口が影になってよく見えなかったのがはっきりとしてくる。まだ判別できないが小屋の中に何かがあった。いたと言うべきか、大きさもあの野良犬くらいだった。

 小屋のまわりに水飲みも表札も見当たらなかった。がっかりする理由もなかった。

 犬を舐めてはいけない。敬愛を持って接する。怖がらせてはいけない。それで襲われて怪我をしても文句は言えない。少し遠巻きに小屋をしゃがんで覗き込む。小屋の中身は寝ているのか動きそうにもなかった。

 距離を少し詰める。シルエットがより判然としてモジャモジャが見えた。やはりそれは犬だった。

「寝てるのか?」

 呟いた。声に反応するかとも思ったが相手にもしてくれなかった。

 睡眠を邪魔しては悪い。空き地を後にする。

 ブン。虫が私の耳元を掠めていった。反射的に手で耳を払った。

 嫌な予感がした。文字通り、虫の知らせだった。小屋に駈け寄る。匂いはしない。屋根の穴からはよく見えなかった。息を飲み、覚悟を決めた。

 入り口を覗き込む。そこに見えたのは犬の死体だった。しかし思っていたものと少し違う。腐った後に肉が落ち、骨が見えている。時間が相当経っているようだった。そして残っている死体の体毛は栗毛だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る