十頁目

 土曜日の朝、九時半。さかきさんと大学近くのバス停の前で待ち合わせをしていた。気温は低く、十五度前後と天気予報は言っていた。空には鰯雲が浮かび、雨を降らすぞと予告をしていた。

 バス停の前に立ち、手を擦り合わせて待っていると、遠くから人影が近づいてきた。榊さんだった。

「おはようございます」

宍戸ししどさん、待ちましたか?」

 榊さんは緊張をしているようで、ぎこちなく喋った。私と話すことに緊張しているのかと一瞬思った。しかし上野咲うえのさきと会うことに今から緊張をしているのだと少し考えれば分かった。

「いいや。それほど待ってません」

 お決まりのようなやりとりをして、バスを待った。あと十五分ほどでバスが来る。そのバスに乗り、半時間ほどで目的の大学病院に着く。私の通う大学の付属病院ではなく、近くの医大のものだ。

 バスを待つあいだ、他愛のない会話をする。とりとめない話題はどこか空々しい。時間が経てば経つほど、白々しさは増していって、故意に上野咲の話題を避けているのだと肌に感じた。

「あ、来ましたよ」

 大きく青い車体が遠方に見えた。県営バスの影だった。

 バスは当然、私たちの目の前に停まって、プシュウと空気の音を立てる。その音が合図でバスのドアが開いた。整理券を取り、バスに乗り込んだ。

 バスは割合空いていて、顔ぶれも大概が老人であり、休日という感じがした。バスの後方の席には、高校生らしき四人組が並んで座っていた。コソコソと小さな声で談笑している。どこか遊びに行くのだろう。

 二人掛けの席が空いていて、私たちはそこに座った。ほどなくバスは巡行を開始した。

 榊さんと会話はなかった。何を話すべきか思い当たらなかったのもあるが、公共交通機関などで話し声を立てるのは好かなかった。話す話題もなく、ここで話すことは好かないともなると、無理に話す必要も見いだせず黙ったままだった。

 バスが二回止まって、二十分ほど経っていた。高校生の一団はひとつ前で降りていなくなった。次の停留所で私たちは降りる。努めて静かに榊さんにその確認をした。榊さんはこっくりと頷いた。明らかに様子がおかしく、緊張が病院に近づくほどに、増幅しているのだと想像がついた。うなだれて深い呼吸と浅い呼吸を繰り返している。顔も心なしか青白く見えた。

 これには黙っていることはできなかった。

「大丈夫ですか、榊さん」

「大丈夫ですよ」

 榊さんは笑いながら言った。

「車に弱いんです」

 そう言われて無性に恥ずかしく、余計なことを言わなくてよかったと安堵した。もしかすると嘘を吐いたのかもしれないと邪推する自分もいた。しかし嘘吐くということは掘り下げるなと言われているようなものだ。だから私はわざとらしく「もうすぐです。頑張ってください」と言った。そのあとは黙っていた。榊さんも会話ができそうにはなかった。

 次の停留所のもうすぐだというアナウンスが流れた。私は少し浮かれて降車ボタンを押そうとしたのだが、他の誰かにちょうど押されてしまった。

 重苦しいが過ぎ、バスから降りると冷ややかな空気を頬に感じた。バスの暖房が恋しくなる。

 屋根のついたバス停は広い道路を挟んで、大きな建物の前にあった。白い壁のビルは影になり、湿っているように見えた。上野咲が入院する大学病院であった。

 榊さんは建物を眩しそうに見上げていた。

「ここです」

 そして短く呟いた。

 

 ●

 

 広い待合室は白い明かりが眩しかった。長椅子が一列四脚、それが五列ほど並べられていた。椅子の向くほうに受付があり、科ごとにいくつか分かれていた。受付に背を向けて、左側に通路が延びている。

 真ん中あたりの長椅子に座り、字幕付きの壁掛けテレビを眺めていた。よく分からないバラエティが流れていた。待合室に人はほとんどいなかった。土曜日は面会だけで、診療はしていないようだった。

 榊さんに待っていてと言われて、一時間ほど経っていた。昼前なのに小腹が空いた。朝ごはんは食べたのだが、足りなかった。

 病院の見取り図を見ると、病院内にコンビニがあった。サンドイッチでも買おうと立ち上がった。

 病院内は広く、どの道がどこに通じているか覚えるまで不便そうに思えた。すれ違う人々は子供もいれば老人もいた。病衣を着ていたり、車椅子、空のストレッチャーを看護師が運んでいたりもした。松葉杖をつく中学生くらいの子が、うざったそうに母親の手助けを断っていた。患者でなさそうな人とすれ違った。何となく悲しい顔をしていた。

 生きることと死ぬことの両方が存在しているに思える。病院が嫌いな人はこの空気に堪えられないのだろうか。私は嫌いではないが好きでもなかった。ただ言葉にできない感情がふつふつと湧いてくる。それがいつか耐えがたくなってしまう。そんな気がしていた。

 コンビニにも病衣の人や白衣の人がいた。普通のコンビニに比べ、半分ほどの大きさだった。入り口の対角線のところにパンのコーナーがあるのが見えた。

 昼食時に向けて、ぎっしりとサンドイッチやおにぎり、弁当が並べられていた。紙パックの野菜ジュースと卵サンドを買った。レジ横に肉まんがあった。気温が下がると肉まんが食べたくなる。上がれば冷やし中華が食べたくなる。これは人間の習性であり、私も例外ではなかった。コンビニの出口でレジ袋を確認すると、なぜかサンドイッチと野菜ジュースの他に肉まんがふたつ入っていた。

 食料を手に入れたものの、待合室で飲食するのは公序良俗に反するように思える。むしろ明文化されている気がする。

「こんなところで奇遇だな」

 まごまごしていると誰かに話しかけられた。点滴をした男性と看護師が目の前を通り過ぎていった。その後ろから声の主は姿を見せた。

 それは皆川みなかわであった。

 

 ●

 

 待合室で皆川と並んで座る。こうしていると病院で世間話するほどに年を食ったような心持ちがしてくる。間食はとりあえず置いておいて、皆川と積もることもない話をすることになった。私としては榊さんを待たなくてはならないので、時間を潰すのには都合がよかった。

「よかった。後遺症でもあったのかと思ったよ。ボクはその口だからね」

 伊丹以外に幻覚のことは打ち明けていなかった。だから皆川の心配は真剣味のない冗談の類のものだった。しかし自分に重ねるところがあったのか、存外に真面目な口調ではあった。

 酒を呑んでいれば酒の席で、皆川にも付き添いのことを話していたのだろうが断酒を始めてからというもの、人と顔を合わせることが格段に減っていた。もれなく皆川もそうだった。

 皆川は例の定期通院の日だった。内容やらを深掘りはしなかった。

 皆川には付き添いのことを曖昧に説明をした。勝手に榊さんや上野咲の状況を他人に話すのは憚られたからだ。

「それで付き添いって、榊さんか?」

 分からないように説明したつもりだったのだが、見事に看破されてしまった。上野咲のことはアマバタ様の一件のときに話していた。それに榊さんのことも話したことがないわけではなかった。単純に当て推量だったのかもしれない。

「ん? ああ、そうだな」

 肯定すると皆川は顔をしかめた。

「そうか。榊さんか……」

 しかめた顔を苦しそうな顔にしながら言った。尋常ではない様子に恐る恐る肯定をした。

「お大事にな。また今度」

 皆川はつと立ち上がると私を見下ろして言った。

「おい、どうかしたのか」

「何でもない。バスの時間を忘れていた。じゃあな。伊丹の家とかで、ゆっくりな」

 皆川は青ざめた顔をして、足早に去っていった。背中は病院の出口に向かっていった。皆川の声は少し震え、それは榊さんを恐れ、避けているように思われる行動だった。

 突然のことで呆気にとられてしまって、少しのあいだ何も考えられなかった。因縁でもあるのだろうか。深く考えられず、そのくらいのことしか思いつかなかった。

 榊さんが戻ってきたら、それとなく聞いてみよう。皆川の話題は一度も出したことはなかったはずだ。だから皆川と榊さんに、何かの繋がりがあったとしても気づけなかったわけだ。しかし皆川には榊さんのことを話している。皆川は故意に隠していたのか。隠すのが悪いわけではないが、話せないこととはどんなことだろうか。

「ああ、元カノ」

 何の根拠もない乱暴で勝手な推論に納得してしまった。けれど、これ以上ぴったりな推理もないだろう。

 皆川は決して異性に嫌われるタイプではない。それに彼女がいたことはあるさ、と言っていたこともあった。伊丹は「妄言だな、貴様」と挑発をしていた。

 そのときの彼女が榊さんだったのだと考えれば、皆川の行動にも説明がつく。相当ひどい別れ方をしたと見える。その中身まで考えようとして、想像力の貧しさと経験の乏しさが相まって、何の具体例も思い浮かばなかった。

 頭を使うと腹が鳴った。肉まんも冷めてしまっては肉まんでなくなってしまう。早めに胃の腑にしまいたい。

 受付の人に確認を取ると、人も少ないですしいいですよ、ただ迷惑にならないように、と許可をもらえた。

 隅の席に座る。あまり食事のスピードは速いほうではないのだが、可及的速やかに肉まんを砕き、そのペレットを野菜ジュースで流した。卵サンドも同じようにした。残った肉まんは榊さんにあげようと思った。しかし冷めた肉まんを渡すことは悪質な嫌がらせではないかと思い至った。相手の善意につけこむテクニカルなハラスメントとして誰かが提唱しているに違いない。冷製肉まんハラスメント。それならば何も渡さず、自分だけで食べきってしまったほうがよほどいい。もうひとつの肉まんにかぶりついた。お腹が膨れてきたが、肉まんはまだ美味しいと感じられた。三個目は怪しい腹の具合だった。

 ゴミ箱はどこかと通りかかった清掃員に聞くと、親切にもゴミを預かってもらえた。謝辞を述べ、私はトイレに向かった。

 用を足して戻ってくると待合室に榊さんの姿が見えた。長椅子に端に座ってまっすぐ前を睨んでいた。

「すみません。榊さん。お手洗いに行ってて」

「いえ、こちらこそお待たせしました」

 榊さんは立ち上がって言った。

 嬉しそうにも喜んでいるようにも見えなかった。かといって悲しそうかと言われればそうでもない。仏頂面が意味深長で超然とした態度がそこにはあった。それはどこかで見た表情だった。

 一昨年の暮れ、祖母が亡くなった。その通夜の父親の表情。それに似ていた。

「その……どうでした。上野さんは」

 表情から察するに、結果が芳しくなかったことは明白だった。けれど聞かなければ、時間が止まったように万事が滞ってしまう。上野咲が時計の針を押さえている想像をする。

「どうなんだろ。記憶がなくなるって、経験がなくなるってことでしょう? だから人格とかが変わっちゃうことがよくあるそうなんです。けど上野ちゃんのままでした」

 榊さんはぽふっと椅子に腰掛けた。そして脱力して溜息を吐いた。

「上野ちゃんは上野ちゃんのままなのに、自分だけが上野ちゃんの記憶からぽっかりといなくなっていて。また仲良くなれそうなのが苦しいんです。上野ちゃんとの楽しかった記憶は、今の上野ちゃんにはないんですから。いつかどこかで、そのギャップが牙を剥くんじゃないかって、そんな不安があるんです」

 榊さんは優しく笑った。自嘲気味な笑みは途端にやつれたように見えた。

 そのとき、どこかで聞いたことのある声が響いた。

「榊さん! さ、榊ちゃん!」

 振り向くと通路の影に上野咲がいた。頭に包帯を巻き、左腕を吊っている。そして病衣をまとっていた。不健康そうに見えるが、声は快活そのものだった。

「上野、ちゃん。どうしたの?」

 榊さんは声に飛び上がり、怯えた様子で呼びかけに答えた。

 ぐんぐんと上野咲はまっすぐ榊さんに近づく。榊さんは私に背を向ける形になって、表情は覗えなかった。かわりに上野咲の真剣で健気な表情が見えた。

 上野咲は折れていない手で、気圧されている榊さんの手を取り、目を見て言った。

「榊ちゃんと、また仲良くなりたい。昔のお話、もっと、もっと聞かせてよ」

 榊さんは何も言わず頷いた。泣きそうなのを我慢しているのが分かった。邪魔をしてはいけないと思い、後退りして暫しのあいだ、ここから離れようとした。

「ありがとう、上野ちゃん、ありがとう……」

 榊さんが掠れた声で言った。こんなに暖かい気持ちになったのは初めてだった。私まで優しい気持ちになって、口元が緩む。

 上野咲のほっとして零れた微笑みが見えた。勇気を出した告白だったはずだ。父親の気分というのはこんな気分なのだろうか。榊さんが上野咲の手を握り返す。目があったのか二人は吹き出す。そして静かに笑っていた。

 ふと、俯いて照れていた上野咲と、榊さんの背中越しに目があった。立ち去ろうとしていたのに眺めることがやめられなかった。気まずさを感じる。しかし上野咲に浮かぶのは気まずさなどではなかった。私を見た上野咲は唇をブルブルと震わせ、顔から血の気が引いていくのが分かった。榊さんもそれに気づいて、訝しむように「どうしたの?」と尋ねた。

 上野咲の耳には榊さんの声は届いていないようだった。私から視線を離そうとせず、蛇に睨まれたみたいに身体を強張らせている。異常だ。

「上野ちゃん? どうしたの?」

 上野咲は答えようともしない。そしてその場にがくりとへたりこんだ。まわりの職員も何か異常なことが起こったのだとそれで気づいた。流石は病院と言うべきか人が続々と集まってきた。

 榊さんは状況が飲み込めないのか、キョロキョロとしながら、介抱をしている看護師へどうしたのかと何度も聞いていた。

 何が起こっているのか分からなかった。騒然とする中で、私の耳に上野咲の声が聞こえた。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 しきりに彼女は謝っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る