九頁目
私のメンタルは繊細かつ流されやすいのだと、これらの経験によって思い知った。溺れ、記憶が飛び、幻覚を見ていたという唯一残っていた記憶によって、精神を病んでしまった。それで円錐やらを幻視したのだろう。だとすると濡れたバスタブはどうなのかというと、これも気にしすぎによる勘違いだったのだと思う。
そして祭りの中で突然、
世の中の大概のことは理解することが難しい。それは自分に関することでも変わりはない。だから神経症が治ったことに、何となく煮え切らず、不思議に思う余地はある。
しかし、この出来事の一番肝要なところは幻覚を見てしまうというところであって、幻覚を見なくなればそれで後はどうでもいいと思ってしまうのが人間というものである。
私がこれからすべきことは今回の神経症の原因を特定することではなく、自分の精神を大事にして、またよく分からないまま神経症にかからないようにすることである。そして伊丹に感謝し、医者に感謝することだ。というより治ったことが嬉しく、そこで神経症への関心は薄れてしまって、神経症について深く考えることもなくなった。
それでも神経症の原因を特定する必要はあるだろうと思った本当だ。しかし幻覚の懊悩から解放されたと考えると、そんな気は失せた。
それから私のまわりでは何も起こらなかった。平穏無事で過ぎる日々に得も言えぬ若さ故の焦燥を感じるほどだった。つまり幻覚など見る影もなかった。
問題は払拭されたように思われたがひとつ別の問題が残っていた。酒が怖くて呑めなくなっていた。酒が原因ではないかと心の隅で思っていたからだ。気にはしていないつもりでも、幻覚の原因が不明なのは変わりない。酒が原因ならもっと前から幻覚を見ていた可能性もなくはないが、医者はどうだろうかと言っていた。やはり私は思い込みが激しいのだ。だから原因かもしれないと思うと、どうしても忌避感がわいてくる。呑もうと思えば呑める程度のトラウマだが、それをわざわざ飛び越える理由もなかった。だからこの数日、酒を呑むことはなかった。
九月の二十六日。昼食を大学の食堂で取ることにした。私は大学では大抵一人で過ごしている。この日も一人の昼食だった。
うどんを受け取り、手頃な席を探していると隅の席に榊さんを見かけた。空になった器を見つめて、暗い顔をしていた。それに気づいて話しかけようか迷った。お見舞いに来てくれてから、顔を直接あわせたことはなかったので、元気になったと言っておきたくはあった。しかし暗い顔に、触れがたいトゲトゲした陰鬱な空気が漂っていて話しかけづらかった。少しの間、遠くもない距離から榊さんを見ていると、榊さんのほうが私に気づいて弱々しく笑いかけてくれた。私は苦笑いを浮かべた。すると榊さんは手のひらでどうぞと向かいの席を示した。
榊さんの向かいに座り、適当に二言三言交わした。
「宍戸さん、お元気そうでよかったです」
「まあ、色々ありましたけどこのとおり。榊さんは……どうかしたんですか?」
榊さんは「ははは……」と弱々しく笑って「分かりますか」と呟いた。
「アマバタ様。上野ちゃんが知らないって言うんです」
榊さんが頬杖をついて、突然言った。その言葉の意味を理解するまでに時間が必要で、そのあいだ榊さんの物憂げな横顔を見る気もなく眺めていた。
「えっと、それは……私の作り話だと?」
私は気が気でなかった。もしかするとアマバタ様は幻覚だったのではないか。そんな考えがよぎって、頭の中から離れなくなった。
「あ、ごめんなさい。言い方が悪かったですね。上野ちゃんは記憶障害みたいで、色んな記憶が抜け落ちているみたいなんです」
ホッとしたのも束の間、それはどこかで聞いた話だった。つい先日の私のようではないか。上野咲の場合は交通事故だったか。
「忘れてるってどのくらい、ですか」
榊さんの表情を見るからに、聞く必要もなかったのかもしれない。答えは案の定だった。
「詳しくは分からないんですけど、あたしのことはなにも」
榊さんは淡々と言った。涙とか怒号とか、分かりやすい感情はそこになかったが、雄弁に彼女の口元は悲哀を語っていた。
「記憶障害が分かったとき、治療の一環で色々聞いたそうなんです。それで私のことは覚えてなかったって。上野ちゃんのお母さんは言ってしまっていいものか、悩んで今まであたしに黙ってくれてたんです。あたしも上野ちゃんの意識が戻ったっていうのにお見舞いができないのはおかしいと思ってたんです。……ついこないだ、これ以上隠し通すことはできないからって、連絡がきました」
何と言えばいいか分からない。何を言っても薄っぺらい言葉になってしまうことが目に見えていて、何かを口に出すことができなかった。
「上野ちゃんのお母さん、是非会いに来てって言ってくれました。けど怖くて、行ってません」
私は黙っていた。なぜ榊さんは私に、このことを話してくれているのだろうかと考えていた。すぐ色恋のほうに考えがよってしまうのを抑えて、何にせよ私は榊さんに信頼を寄せられているのだと感じた。これが勘違いだとしても、一向に構わなかった。ただ、信頼に応えたいと思った。
「榊さん、上野さんに会いに行きましょう。会うべきですよ。友達なら」
友達。最近になってやっと大切さを知ったような気がする言葉。感情の向くままに私は言葉を発していた。
「でも……」
「怖いなら私がついていきますよ。役に立つかは分からないですけど」
「そんな……申し訳ないです。どうしよう」
榊さんは黙考して、渋い顔をしていた。暫くして、榊さんの答えが返ってきた。
「分かりました。会いに行きます。今抱えてるモヤモヤは、きっと上野ちゃんがあたしを忘れたせいじゃないんです。会って話してないからあるモヤモヤなんです。行きます。あたし行きますよ」
榊さんの表情は一転、凜としたものになり決意の固さが覗えた。
「宍戸さん、ありがとうございます! 日にちはまた後で連絡しますね!」
食べ終わった膳を下げに榊さんは席を立ち上がった。私はうどんに口をつけた。ぬるい上に延びていた。しかしそれが美味しいとも思えた。
●
それからメールで榊さんは早く相談すればよかったとか、一人で抱え込むのはよくなかったですとか言ってくれた。伊丹にこのことを伝えると「気があるな。春が来るのか。おめでとう」と憎しみの眼差しで一句詠んでいた。笹保は「フフ」と笑っていた。捕捉しておくと、メールの内容などをそのまま伝えるような不誠実なことはしていない。もちろん、上野咲のことも話していない。アマバタ様のことがあるので、伊丹に話したい気持ちはあったが、我慢した。
話したのは舞い上がっていたわけではなく、ただ単に人に頼られるのが初めてだったので相談した次第だった。しかし、伊丹宅での呑み会で相談するのがそもそもの間違いという話ではある。笹保からはある程度、いい講釈を聞けると思ったのだが駄目だった。酒は人を駄目にする。素面で人の酔い潰れる様を見届けていると、それは顕著に感じられた。
榊さんとは次の土曜日、九月三十日に上野咲に会いに行く約束をした。上野咲はまだ入院しているらしく、お見舞いであった。
そして会いに行っていないのに、なぜ上野咲がアマバタ様を忘れていることを知っているのかと聞くと「宍戸さんと約束したのでそれだけ親御さんに聞いてもらいました。それに少しでも記憶を取り戻す手がかりになるかと思って」と返信がきた。
約束とは夏祭りでした話のことだった。榊さんは妙なところで律儀だった。
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