八頁目
長いようで短かった夏休みも明け、気温も一段と冷え込んだ。九月にしては寒すぎるようではあるが、暑いより寒いほうが過ごしやすいので気にはしなかった。
風呂の一件の翌日、私は病院へと向かった。
その推理を医者に話すと「そうかもしれないが、それでなんの病気かは分からない。脳に異常はないのだからね」と言った。私としてもそんな気はしていた。
定期観察を言い渡され、私は帰途についた。
やはり私は何らかの病気なのだと思うと、それはそれで心が軽くなった。しかしそれは一瞬のことで、死にかけていることもあって、幻覚によって様々な最悪の想像をしてしまう。私は自分の状況を甘く見ていた。それか幻覚などと一丁前に推論をのたまって、ただそれに満足して中身は考えていなかった。
もしかすると他人に迷惑をかけてしまうのではないか。そう思うと外に出るのが怖くなった。一応、薬をもらった。薬の説明をうけたが、病気が分からない以上薬はいろいろ試していくとのことだから、あまり真面目に聞かなかった。
大学は休むことにした。家にいれば人に迷惑をかけることも、ましてや死にかけることもないだろう。
夏休みが明けてから、買い物と通院以外では外に出ず引きこもっていた。そのあいだ幻覚は見なかった。幻覚に気づいていないだけかも分からないが、希望を持って経過観察を続けることになった。
九月の二十日、夏休みが明けてから五日経ったその日の午後、伊丹が部屋を訪ねてきた。
事情を隠すつもりはなかったが、結果的にそのようになってしまっていた。
「元気そうで何よりだ」
玄関を開けると
「突然、前触れなく音信不通になるやつもいるからな。これでも案外、心配したんだぜ。なあ
チンピラのように伊丹は言った。自身の照れ隠しのようにも、説教のようにも聞こえた。私はしおらしく謝った。
「しかしなぜ電話に出ない。そこにあるじゃないか」
坐椅子の傍ら、床に放擲されていたのは携帯電話だった。
「いや、な。電源が切れててな。携帯も電力がなけりゃ動かない」
「なら充電して電源をいれてくれまいか」
私は話の穂をうまく継げなかった。携帯の電源ボタンを押したり擦ったりして、話すべきかと手をこまねいた。世間話でお茶を濁して、時間が浪費されていった。
苦しい時間では全くなかった。気の置けない友達との何でもない時間。ただ、伊丹が触れていいのか悪いのか、時折思案を巡らせているのが分かった。
茶を三杯ほど飲んだあと、伊丹が酒でもどうだと言った。私は酒を呑む気など毛頭なかった。しかし断っては、それこそ重症だと診断されてしまう。曖昧な返事で回答を先延ばしにして、結局最後に幻覚の話を打ち明けていた。
「幻覚ねぇ。まあ、おかしいとは思ったさ。いきなり駆けだして桃太郎みたいに川を流れてくるなんて。お前の場合、生身なわけだが」
伊丹は幻覚なら幻覚でまだよかったと言った。
「だから携帯も電源をいれない。これなら虚無と話した幻覚を見てもすぐに気づくだろ。外にも落ち着くまで出ない。また死にかけるなんて不特定多数に迷惑をかける。無論、酒も呑まない」
私は毅然とした態度で言った。すると伊丹は「何だかノイローゼ気味か?」と言った。
「……そうかもしれない」
人と会わずに自分も含め、全てを疑って生活を続けていた。それがたった数日だとしても、人の精神を曲げてしまう力を持っているのだと、伊丹に言われて気づいた。
「幻覚もその、濡れてるバスタブから見てないんだろ? きっと酒に酔ってたせいさ。お前の言うとおり、薬が効いてるってことだろ」
伊丹にそう言われると、不思議と安心してくる。
「……そう、だな。気にしすぎかもしれない」
そう思うと馬鹿馬鹿しくなって、笑いたくなってきた。もちろん、自嘲の意だ。
「気晴らしに散歩にでも出よう。ほら」
伊丹に誘われるまま、私はサンダルをつっかけ外に出た。
空は昼と夜の境目、マジックアワーであった。
●
マジックアワーは気づくとただの夕闇へと変化し、すぐに薄闇をばらまいた。街の街灯が闇を振り払おうと光っていた。しかし点々に街を照らすばかりで、じきに迫り来る闇には勝てる気配もなかった。そんないつも通りの住宅街の路地だった。
外は冷え込み、一度上着を羽織りに部屋へと戻った。
アパートから出ると道が一筋、横に延びている。家々に挟まれた道は左に行くと駅に繋がる大通りに出て、右に行くと小さな公園が突き当たりにある。その公園を抜けていくとコンビニがある。
私たちはコンビニで買い物をするため、そちらに足を向けた。
「何か見えたら俺に聞け。幻覚かどうか判断してやる」
伊丹はそう言って、どうせ大丈夫だろうがなと付け足した。
並んで歩き、好奇心旺盛な子供のように色々聞きながら進んだ。
「あれは?」
「見えている。野良猫だろう」
白に黒ぶちの野良猫が街灯の下をかけていった。民家の植え込みに入り込んですぐに見えなくなった。
「あれはどうだ」
「見えている。ふざけてるだろ」
「しかし、なぜあんなものがまだあるんだ。不思議でたまらん」
私たちはある空き地の前にいた。ここら一円で有名な空き地だった。空き地はおそらく家が一軒建っていたであろう広さの四角で、道に面していない三面はブロック塀で隣の民家と隔てられていた。家の跡形はない。剥き出しの地面のところどころに、もうすぐ枯れゆく薄い雑草が生えていた。
その空き地の片隅、右角に暗がりでぼやける犬小屋が見えた。犬小屋は赤い屋根に木目のままの壁を持っていた。そして入り口のある面だけ、青く塗装されていた。赤い青いと言いつつ塗装はほとんど剥げ落ちており、みすぼらしい。壁も雨風でたわみ、屋根には穴が開いていた。いささかホラーテイストに見えるが、鮮やかな赤い屋根やまっすぐに張られた板などを想像すると、物寂しい雰囲気がそこには漂った。夜の闇がその寂れた空気をより醸していた。
犬小屋は造りが堅牢なのか倒壊することもなく、ここに残り続けている。少なくとも私がここに引っ越してきたときからある。そしてきっとそれよりも前から。
家が取り壊されているのに犬小屋だけが残されているのは不気味である。そして実際の光景は字面よりも不気味だ。だからこの空き地は心霊スポットでもないうえ、それらしいエピソードもないのに不安を煽る場所として有名だった。確かに、犬小屋にはありあまる土地の片隅に、ぽつねんとそれがあるのは非対称の絵を見るような居心地の悪さがある。
「さあな。土地の権利者が残しておくように言っているんだろ」
「それが不思議なんじゃないか」
「家は取り壊さなきゃいけなくなったが、犬小屋くらいは残しておこうとか、犬の思い出くらいは消したくなかったとか」
「伊丹、お前案外ロマンチストだな」
「殴られたいのか」
伊丹に睨まれていると軽いサッサッという土を蹴る音が聞こえた。それは空き地のほうから――犬小屋のほうからだった。
そこには薄汚れて白黒になった犬が犬小屋から出てきたようだった。ぐいーっと伸びをしたかと思うと、クリクリした目で私を見つめてきた。
「どうした」
「あの小屋、野良犬が住んでいるみたいだ」
私が指をさすと伊丹は目を細めた。
「なんで私を見るんだ。撫でて欲しいのか」
犬に近づこうとすると、伊丹に静止された。
「やめておけ。お前を見ているのは警戒してるからだ。それにどんな病気を持っているか分からん。死んでも知らんぞ」
伊丹が割合早口で言った。少し様子がおかしかった。
「なんだ、犬が苦手か?」
「まあ、そうだ。子供の頃、脱走した近所の大型犬に追いかけ回された挙げ句、水路に落とされ往生したことがある」
伊丹は苦い顔で言った。犬は動きそうもなかったが、伊丹も動きそうになかった。
「行くか」
「犬は俺の生涯の敵だ」
私が肩を叩くと伊丹は歩き出し、そう言った。犬は小屋に入って見えなくなった。
「なら伊丹は猿か」
「言ってる意味は分かるが癇に障る」
それから公園を抜け、コンビニで食べ物や飲み物を買った。酒は買わなかった。酒を買わないと決めると、無闇に健康志向になってサラダやら野菜ジュースを気づけば買っていた。それなのに脂っこいフライドチキンを買った。
コンビニから出ると外の闇は深くなり、完全な夜だった。
帰り道、空き地の前を当然通る。伊丹は足早にその前を通り過ぎて行った。遅れて伊丹を追いかける。首を空き地のほうに向けたが、夜の闇に落ち込んでいて、犬小屋はよく見えなかった。
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