七頁目

「退院祝いと洒落込もうじゃないか」

 九月五日、伊丹いたみに私が退院したその日の夕暮れに飲み会へと誘われた。退院祝いと名前をつけてもらっただけで、中身は相も変わらない伊丹宅での飲み会であった。それ故に特別の準備も何もなく、伊丹宅に集まり、それじゃといった感じに始めるという区切りもなく始まった。

 部屋には伊丹、皆川みなかわ笹保ささほがいた。

「具合はどうなんだ?」

 事情をあまり知らない皆川が言った。

「まあ、溺れてな。それ以外は快調だよ」

 結局、私は幻覚や上野咲うえのさきのことは皆に話さなかった。だからといって快調であるのが嘘ではないのだが、後ろめたい気持ちはあった。しかし退院祝いと銘打って開かれた会である以上、言い出しづらくもあった。だから伊丹に言ったように記憶障害であの夜のことを覚えていないということにしておいた。

 しかし医者には打ち明けていた。上野咲のほうは溺れたショックによる記憶の混濁だと言われ、円錐のほうは酸素欠乏による脳への後遺症かもしれないと言われた。脳の検査で退院がずれ込んだのだった。検査の結果は脳に異常はなかった。あれから円錐や幻覚は見ていない。一時的なものだったのだろうと医者は言った。

 検査も含め円錐は納得ができたが、上野咲のほうはまだ納得できていなかった。記憶の混濁があんなに生々しく立体感のある記憶として、脳に刻まれることがあるのだろうか。医者は人間の脳はまだ謎が多いからと、とりもなおさず分からないと遠回しに言った。そう心配することはないともつけ足して、何かあったらすぐ来るようにとも言っていた。

「災難でしたね」

「なぜ笹保がいるんだ」

「いちゃ駄目ですか。つれないね、宍戸君」

 笹保はサイゼリヤで買える白ワインを呑んでいた。笹保とワインは似合わなかった。

「祭りで別れたあと、溺れたと騒ぎがあるじゃないですか。南さんが宍戸じゃないかって背伸びして言うので見に行ったら、宍戸さん、伊丹さんに人工呼吸されてて、心配してましたよ。だから様子を見にね」

 部屋にいる皆は身も蓋もなく慈愛の言葉を吐くわけではないが、ひしひしと気にかけられているのが伝わってきた。慣れていない空気にむずがゆい。謝って、小さくお礼を言った。幸いにもファーストキスの相手は伊丹ではなく、別にいる。

祐未ゆみさんが帰って一息吐いたらあの騒ぎだ。勘弁してくれ」

 伊丹がハイボールを呷って言った。

「元気そうならいいんだ。文芸部としては宝探しに来て欲しかったのだがね」

 皆川はクククと笑って言った。私は溜息を吐いた。

「宝探しって、何をしたんだ。ホラーでもないし夏も関係がない」

「お宝は現金のバトルロワイヤル。校内全体がフィールド。あとは詳しくは言えない。参加してないからな。怪我人はいないことになってるから問題ない」

 どこから触れればいいのか分からず、伊丹に目配せをした。すると「残念ながら事実だ」と言った。

「そうは言っても、法律に何か觝触してないか? 決闘罪とか」

「それは大丈夫だろう。サバゲーみたいな感じで。苦学生の闘争は見られたが。現金のほうは問題にしようとすれば問題になるだろうから、問題にしないでくれ」

 皆川は悪びれもせずに酒を呷った。どう言えばいいのか、分からない。

「額は怖いから聞かないがお金はどうしたんだ」

「スポンサー。選べるくらいって言ったろ」

「どんな道楽企業だ」

「大抵、OBの企業やらOB個人から出資してもらってるからな」

 私は呆れて息をするのを忘れていた。これでは我が大学の悪習が断ち切られることはないだろう。それにスポンサーが悪の側なら、今回の悪事もバラそうとしなければバレることもないのだろう。

「金だけじゃないんだぜ。商品は。骨董品だったり貴重な古書稀書、秘蔵のムニャムニャとかもな」

 人を馬鹿にしたように皆川は朗々と語る。現金以外の商品が役に立たないものであるのは想像に難くない。

「不遜な想像をしているな。物というのは古くなるだけで価値が出てくるものだ。当時の生活環境や文化、その時代の物を通じて人々の暮らしが見えてくる。ロマンがあると思わないか」

 誰の請け売りだと聞きたくなったが、意味もないのでやめた。それに古書と言っても、どうせ近代のものなのだ。それなら別に記録が残ってるのではないのか。グルグルと様々な否定の言葉が浮かんできて、意地が悪いなと思ってこれもやめた。

「しかし皆川。余った雑貨の処理を命ぜられて途方に暮れていたじゃないか」

 伊丹が意地悪い顔をして言った。

「それはそれだ。ボクにそれらを有効活用する知識も技術もないのが問題なのだ。物に罪はないが、使い道をないとなると邪魔なのは仕方がないだろう」

「屁理屈もここまでくると芸術か。現代アートとして出品できるんじゃないか」

「伊丹。君はボクのことが嫌いなのか」

「言わせるな。恥ずかしい」

 皆川は複雑な顔をして、伊丹は大笑いしていた。よく見るとすでに空き缶がいくつも転がっていた。私が来る前から呑んでいたらしい。

「ふぅ。よく知りませんが参加しなくてよかったですね。お互いに」

 笹保が燻製チーズをつまんでいた。

 私は頷いて、久しぶりの酒を味わった。

 

 ●

 

 久しぶりのせいかアルコールが縦横無尽に私の身体を駆け巡り、早めに席を立たせてもらった。早めにと引き上げたつもりが、二十三時をすでに回っていた。時間の感覚が夏休みに染まっていて危機感を覚えないこともない。しかし今回はまた別だ。愉快な仲間たちと呑んでいると、無闇に愉快になっていけない。時間もこんなふうに忘れてしまう。全く。友情に乾杯。今はそういうことにしておく。

 覚束ない手で部屋の鍵を開ける。自分の部屋に戻る前に伊丹の部屋に出向いたので、自分の部屋に入るのは戻ってきてこれが初めてだった。四苦八苦の末にやっと開いた。

 部屋は暗く、家電の光が小さくところどころに浮かんでいた。照明を点けると正方形のワンルームなので、変わりなく万年床や本棚、ローテーブルにゴミ箱が全て見えた。入ってすぐ左手の角に台所があって、コンロの横に冷蔵庫がある。玄関から見て、右奥角に布団が、左角に合わせてクローゼット、その横に本棚、その前にローテーブルだったりがある。窓は本棚の横にある。朝になると日光が天然の目覚ましとして、万年床にスペクトルを投げてくる。手前右角に正方形が欠けている部分があり、そこに浴室があった。

 伊丹の部屋と同じ間取りだ。もちろん、レイアウトは違うが。

 寂しい部屋だ。数日空けていただけで自分の部屋である感じがしない。帰ってきたという気分にならない。伊丹の部屋に入ったときには、心が落ち着いて酒が呑みたくなったというのに。

 生活感がないわけではない。誰かが掃除してくれるわけもないので当然だ。ジーっと冷蔵庫のノイズが部屋にはあった。それだけの音があった。

 部屋にあがり、テーブルの前の座椅子に座ってみる。いい値段のものだったので座り心地は申し分ない。

 立ち上がって万年床に向かう。寝転がると疲れや記憶や、一日の全てが身体に染み込んでいくような気怠さに襲われた。帰って来るという感覚はこんなふうであったろうか。

 今にも眠りそうだったのを寒さが邪魔をする。八月とは思えない暑さで我々を苦しめていた夏は、九月になった途端に勢力を弱め、夏と暑さを返上して秋にその地位を明け渡した。天気予報士も異例の寒さと凍えて言っていた。そのため夜になると夏に比べ、だいぶ冷え込む。衣替えもまだなのに、スイッチを押すように季節が巡られては人類としては悩ましいものがある。

 動きたくない。薄い掛け布団の中で悶々としていた。しかし尿意を催して仕方なしに布団から這い出た。先ほどより冷え込んだように思える。

 暖かいものが飲みたい。しかし湯が沸くのを待つのはじれったい。酔いどれに風呂は禁物だが、寒くて仕方ない。シャワーだけで済ませよう。その間に湯も沸くだろう。

 バスタオルを持ち、風呂場へと向かう。シャワーを浴びる前にウトウトと小便を済ませる。身体が震えた。シバリングと言うのだよと皆川が言っていた。

 欠伸で涙が流れた。服の袖で涙を拭った。

 さてシャワーを浴びようかと服を脱ぐ。寒さが布きれ一枚程度でもどれだけ和らぐか、衣服に五体投地したくなった。しかし靴下を脱いだあと、タイルが氷のように冷えていて足が凍りつき、やむなく五体投地は叶わなかった。それに狭い。

 空の湯船も同じく冷たかった。しかしタイルとは毛色が違った。

 表面が湿るように濡れていた。確かめる前にシャワーから水が出た。

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