六頁目
私が目を覚ましたのは知らない部屋だった。真四角の部屋にはベッドと簡易な収納棚以外何もない。窓から街並みが見えた。駅があって記憶を辿ると、ここが駅から見えていた病院であろうと分かった。状況を鑑みてもそうだろう。それに私は患者衣らしいものを来ていた。
枕元に携帯があった。日付を見ると八月三十一日の午前だった。
主治医らしき女性がやってきて、なぜ私がここにいるのか説明をした。
私は溺れたそうだ。祭りの夜、あの川で。全く記憶がない。そのことを主治医に聞くと、溺れたことによるショックだろう、一時的なものだと言われた。それだけ言って、詳しい話はまた後でと部屋を出ていった。
私は泳げないわけではない。それにあの川は浅い。逆に泳げないほどだ。しかしそれは、溺れないことの証明にはならない。酒でも呑んでいただろうか。いや、それはない
どうしても思い出せない。何があったのか。
チクリと脳に刺すような痛みが走った。
●
「具合はどうだ」
「身体の不調はないのだがな、記憶がない」
伊丹と榊さんは真面目な顔で黙っていた。
「本当に、何も?」
榊さんの問いに私は少し戸惑った。上野咲のことを言うべきなのだろうか。
「ええと、ほら。下手な歌の女の子がいたでしょう。それ以降は何も」
嘘を吐いた。
伊丹たちが来るまでのあいだ、私は考えていた。あの夜について。上野咲について。
しかし考えれば考えるほど、おかしなことに気がついていく。
なぜ私は上野咲を見つけからといって追いかけだしたのか。そもそも、上野咲があの場にいた可能性はあるのだろうか。上野咲の意識が戻ったのは河川敷に向かう前だ。時期として多少のズレがあっても、退院しているわけがない。ましてや祭りにいるはずがないのだ。
幻覚だったのかもしれない。そう結論を出して、そのあと診察に来た医者にも言わなかった。
「
「で、お前が川を流れてきたのを俺が見つけた。水に顔をつけてな。俺に人命救助の心得があってよかったな。感謝しろ」
「まさか、そんな……」
信じられなかった。まるで身に覚えがない。ただ走り出したところまでは私の記憶と一致している。本当に私は幻覚を見ていたのだろうか。
上野咲のことを一層言ってはいけないような気がしてきた。黙っているのも居たたまれないので、また覚えていないと言った。
「酒呑んでたわけでもないんだろ」
「もちろん」
「人が変わったみたいに、本当に突然走り出したんです。心配というか、怖かったんですよあのときは。それがこんな……」
榊さんは怒るような、悲しむような顔で言った。榊さんにとって上野咲の二の舞であるようにも思えたのかもしれない。
「申し訳ない」
「まあいいや。元気そうだし、よかったよ」
「心配してたんですよ。わたしのせいかもとか、思っちゃったんですよ」
さっきまで隣にいた人が死にかけたなど、自分に責任がまるでなくても気に病んでしまうものだろう。私はただ、謝ることしかできなかった。
記憶障害はよくあることで、一時的なものらしいから、記憶が戻ったらまた改めて説明させてくれと言った。伊丹は謝罪会見だ、と言った。
「榊さん」
「なんですか?」
部屋を出ていく榊さんの背中に呼びかける。聞いていいものかと尻込みする。けれど聞かなければ、自分の中で何も答えが出せない。聞かなければならない。
「上野さん、まだ退院はまだ、ですよね」
私は恐る恐る聞いた。榊さんは少々驚いたようだった。まさか聞かれることが、上野咲のことだとは思っていなかったらしい。それかこの状況で聞いてきたことを訝っているのか。
しかし榊さんは答えてくれた。
「ええと、はい。まだ入院してます。でも……どうして?」
私は曖昧に誤魔化すことしかできなかった。
●
文芸部の催しには退院が間に合わず行けなかった。特段、溺れたことによる身体の不調もなかったのだが、記憶の問題もあり大事を取って退院させてもらえなかった。退院していたからといって、参加していたかは定かではない。
死にかけた経験をしたわけなのだが、もっと劇的で人生の価値観を変えてしまうようなものだと思っていた。そう思いたいのかもしれない。死にかけた感覚が希薄で、自分がなぜ病室にいるかも心の奥底では納得できていなかった。覚えていないというのは、なかったのとほとんど変わりない。
けれど身体は確かに死にかけたようで、脱力感が消えなかった。これが退院しても催しに参加したか不明な理由だ。
確実に身体と心に残っているのは、記憶の辻褄が会わないことと、上野咲の微笑みだった。
伸びをしてベッドから立ち上がる。手持ち無沙汰で、いつもはするはずもない準備運動まがいをしてみる。太腿やアキレス腱を伸ばしてみたり、上半身を左右に曲げたりする。
窓からは街が一望できる。人の頭が点として、道を動き回っている。これが案外おもしろくないのは言うまでもない。
することもないので眺めることはやめなかった。駅のまわりは人が多かった。点が出たり入ったり、のべつ幕なし蠢いている。その点の中におかしなものが混じっていた。黒いとんがり帽子をかぶっていて全身も黒い。円錐が自走しているように見える。それは駅から出てきて、病院のほうへと向かってくる。方角がこちらなだけで、病院が目的地ではないだろうがぞっとするものがあった。
円錐は急に立ち止まった。慣性がないようにピタリと。そして頭のとんがりを傾かせた。
私は思わず窓から見えぬよう身を潜めた。傾いだとんがり帽子はこちらを覗き込むようにしたのだ。まさか気づかれたのか。気づかれるわけもない。第一、視線に気づくことがあっても私が見えることはないだろう。視力がどれほどよくても、ビルの高層の窓のひとつから私が見えるわけがない。
気にしすぎだと、反芻するようにして窓から街を見下ろす。円錐がどこにも見当たらなかった。目を離したのは一瞬だったはずだ。私の見間違いか。探しても円錐はいない。
私の目か頭はおかしくなっている。そう思えてきた。そうでなければ、円錐が消えるわけがない。きっと幻覚だ。円錐なんて、上野咲なんてものが祭りにいるわけはない。
やっと決心がついた。次に医者か看護師が来たら、正直にあの夜の記憶と円錐のことを打ち明けよう。
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