五頁目
光陰矢のごとしとはこのことで、気づけば祭りの日の朝になっていた。やることがないと時間は点から点へ飛ぶように、瞬時に翌る日へと私を連れていく。過ぎていく時間の概念が希薄だとも思われた。明ける空と暮れる空を一日と呼んでいるに過ぎなく、何時だとか何月何日だとか、あまり気にしていない生活をしていた。
しかし祭りの日は忘れていなかった。朝に
日にちをなんとなく見ると八月三十日だった。夏休みもあと二週間程度で終わる。
溜め息を吐く。文芸部の催しはいつだったか。そうだ。明後日の九月一日か。また溜め息を吐く。
榊さんや
●
中島と
夕暮れの外は蒸し暑く、夏そのものだった。八月も終わるというのに、晩夏の色は見えない。新しい気候区分か季節を作るべきだ。
校門の前に着くと榊さんが空を見上げて待っているのが見えた。肩掛けのバッグに、白いワンピースだった。日はまだ長く、十七時は明るい茜の空だ。
近づくと榊さんは携帯で誰かと話していた。私たちが校門に着いたときには電話は切られていた。
「あ、こんにちは。こんばんはですかね」
榊さんは嬉しそうに笑って、まるで子供のように楽しげに言った。祭りが楽しみで、そうしているわけではないのが雰囲気から分かった。祭りへの期待とか焦燥からではなく、もっと直接的な喜びが榊さんから溢れていた。
「何かあったのかい」
「上野ちゃんが意識を取り戻したって今、上野ちゃんのお母さんから連絡が」
伊丹が聞くと、待ってましたと言わんばかりに話した。
「ほう、それは本当かい」
伊丹は驚いた表情はしていたが、その事実をどう思っていたかは分からない。私としては榊さんの暗い表情とか、
そんな中、ふとしてよぎるのはアマバタ様だった。それほど気にしていないつもりだったのだが、折に触れ思い起こされる。聞くべきは今ではない。聞かないほうがいいに決まっている。私は思わず聞きそうになったのを押さえるように黙っていた。
「詳しいことは分からないんですけど、とにかく目を覚ましたって……時期は明言できないけど、近いうちに会えるだろうとも言ってて、よかった」
「早く会えるといいですね」
私が言うと榊さんは息を吐いて、朗らかな表情をした。
「それじゃあ、お祭りへ行きましょう。くじでも引いて、役に立たないものをお土産にお見舞いに行きます」
榊さんは楽しそうに、鼻声で言った。
●
祭りが開かれているのは、大学から歩いて十分もかからない川の河川敷だった。河川敷は幅広で多くの屋台が出ている。川は下流で幅が広く、流れも緩やかだった。向こう岸にも屋台が並び、祭りが川を挟んでいるような形で催されている。
土手の上に立ち、私は上からそれを眺めていた。屋台のまわりには人の頭が沢山見える。夕焼けの土手の斜面では、草の上に座り込んで酒盛りする一団や走り回る子供たちも見えた。後ろを振り向くと来るときに渡った橋がある。高架下が祭りの終点だった。橋の影に二人組が見えた。
川の表面では、チラチラと祭りの色鮮やかな光と夕暮れが反射して、魚が山ほど泳いでいるように見えた。川のせせらぎに聞き取れそうにないぐちゃぐちゃの人の声が混ざって、あたりを包んでいる。
浅い川の上に舞台を作って、そこでいろいろやるのがこの祭りだ。広い舞台にはまだ何もなかったが、スピーカーとか器機が雑然と置かれていた。毎年、歌手やらが来て歌ったり、踊りを踊ったりする。大学入学に際して引っ越してきて、一昨年の一回だけ来たことがあるがこちらがメインではなく、屋台のほうがメインに思える祭りだった。
祭りとは何かを祝ったり、祀ったりするものだと思うのだが、この祭りはそれから逸脱した騒ぎたいだけのものに思える。別段、それで私が困ることはない。そちらのほうが気兼ねなく楽しめていい。
「さて、日下部はどこにいるか」
祭りがあるから祭りに来たわけではないのを思い出して、並ぶ屋台に目を走らせる。大抵、食べものは食べもので屋台はまとめられている。
「こっちはくじやら射的だな」
「あそこ、はしまきありますよ」
榊さんがはしまきの屋台を見つけた。幟が私たちがいる河川敷の反対の終点にあった。
土手の上を歩いて屋台の真上まで歩く。土手には下に負けず劣らず人がいて賑やかだった。途中、階段があってそこから降りた。
降りると焼きそばだったり、何かの甘い匂いだったり、食欲をそそる匂いが充満していた。人の数も多く、みな楽しそうな顔をしていた。浴衣を着ている人はそれほどいなかったが、目立つこともなく祭りの空気に混じり合っていた。
「美味そうな匂いだ」
「上にいたときは何の匂いもしませんでしたね」
「風上だったんだろう」
適当な会話をして人いきれのなかを進む。いろいろな屋台に目移りするが、我慢して日下部くんのもとへと向かった。
「ここは違うな」
はしまきの屋台に着くと頑強な白髪のオヤジがいて、アメフト部の部員には見えないが一応、話を聞いてみた。しかし案の定、違った。
「向こう岸にもはしまきをやってるやつがいた」
オヤジが教えてくれた。ただ立ち去るのも悪い気がしたので、はしまきをひとつだけ買った。それは榊さんにあげた。美味しそうに食べていた。
飛び石を伝って対岸へ向かう。飛び石は五列ほどあって、大きめの石の上では座って足を川にチャプチャプしている人もいた。涼しげで風情がある。
反対についてすぐ目の前に、はしまきの屋台があって、二人立っている店番の片方が見たような顔だった。人が並んでいたので並ぼうとすると声をかけられた。
「おお! 伊丹さんたち来てくれたんですね。ちょっと裏で待っててください」
店番はやはり日下部くんで、手招きしている。
屋台の裏に回ると日下部くんがやってきた。
「どうだい。見る限り盛況だが」
「ありがたいことにこの分だと、準備したぶんは売り切れそうです。榊さん、はしまき食べてますね」
伊丹が聞くと、店の裏に積まれている段ボールを軽く叩いて日下部くんは答えた。そして不思議そうに榊さんを見ている。
「色々あって、食べ比べですよ」
「臨むところです」
日下部くんは意気揚々と表へいって、すぐにはしまき三本を手にして戻ってきた。
「何か別の味がよかったですかね。チーズとか卵とかありますけど」
「いや、いい。ありがとう」
伊丹が言って受け取った。
「宍戸さんは?」
「私もプレーンで大丈夫だ」
「トッピングなしで食べ比べないとね」
そんなふうにして、私と榊さんもはしまきを受け取った。
「うん、美味いよ」
「ああ、美味しいよ日下部くん」
「美味しいけど、オヤジ派かな」
感想を言い切ると日下部くんは唸った。
「買ったのって向こう岸のはしまき屋でしょう? 美味いって有名なんです、あの店」
「それにしては人が並んでなかったが」
「運がよかったんですよ。いつも行列らしいです。我がサークルは打倒、銀のオヤジなんて掲げてたりしてます」
銀のオヤジとは白髪のことだろうか。そんな異名を持った人だとは思わなかった。
代金を伊丹が払おうとすると日下部くんは断った。しかし活動費の足しにするのだろうと伊丹が押し切った。渡した代金には我々の分も含まれていた。あとになって伊丹にはしまき分を払おうとすると「日下部には好意で払ったのだ。それをあとから徴収しようとするのは違うだろう。榊さんもいいからね」と言った。
伊丹は金持ちの家系以前に超然としている部分がある。しかし、それも育ち方によって形成されたものだと思うとやるせない。きっと伊丹は金がなくとも、こういうことが平気で言えるのだと思う。ここまで考えて、答えが出そうにないのでやめた。
日下部くんとは別れて、祭りを回ることにした。オヤジがいた側の岸はほとんど見て回っていなかったので、こちらの岸を見ながら橋のたもとまで行き、橋を渡って反対を見て回ろうと話になった。
そのころには日はほとんど落ち込んで空は暗かった。しかし祭りの中にいると明るく、人も沢山いる。夜という感じが一向にせず、それなのに祭りの風情は夜に依拠しているような気もして不思議な感覚だった。携帯で時計を見ると、十九時半だった。この時間なら気温も下がってくるのだが、人の熱気のせいかまだ暑かった。
こちらの岸は食べものの屋台が多く並んでいた。榊さんは目につくものを全部買ったように思える。そして沢山食べた。焼そば、リンゴ飴、またはしまき、お好み焼き、綿菓子、とにかく食べた。途中から伊丹が面白がって榊さんに餌付けしはじめた。私は止めようとしたが、あまりに美味しそうに榊さんが食べるので、悪い気がして止められなかった。それにしても食べものたちは、華奢な身体のどこに消えているのか奇妙だった。
私と言えば、榊さんと伊丹が買ったお土産用の食品の荷物持ちだった。そこまで量はなかったがビニール袋で両手が塞がって、二人のように食べ歩きできなかった。
橋の下の屋台に着いたとき、伊丹は屋台のひとつに、知り合いを見つけたようで話をはじめた。長くなりそうだからと伊丹は言って私から荷物を受け取り、あとは二人で回ってこいと付け足して、私たちと別れた。飛び石のあたりで落ち合うことにした。
私はあの知り合いの男は誰かと考え、家柄故の面倒な付き合いがあったりするのだろうかと想像した。実際は知らない。庶民だから。苦学生だから。
橋を渡っていると榊さんが言った。
「あ、宍戸さん、ごめんなさい、あの袋の中に宍戸さんの分も入っていたんでした」
「いいです、別に。すぐ会うんですから」
腹が鳴った。はしまきひとつでは足らなかったようだ。橋の上にも人通りはだいぶあったので、榊さんには聞こえなかったようだ。しかし人通りに対して暗い。街灯がふたつあるだけだ。橋の上から祭りを眺めるとキラキラして、別世界のようだった。川の舞台では誰かが歌っている。知らない歌だったがいい歌だと思った。
欄干に腕を乗せ、暫く歌を聴いていた。榊さんは楽しそうにゆったりと揺れていた。
「上野ちゃん、だいぶ前から少し変だったんです」
出し抜けに榊さんが言った。顔が祭りの明かりに照らしだされ、そのうっとりとした表情は楽しそうにも悲しそうにも見えた。
「それって、どういう?」
私は困惑して聞いた。
「何かに取り憑かれたみたいっていうか、去年のオカルトサークルのアンソロジー、ほとんど上野ちゃんが書いたって言いましたよね。それって筆が速いのもありますけど、少し狂気じみた感じで……」
榊さんは微笑んで続けた。
「でもまあ、ほとんど杞憂みたいなもので、創作する人ってみんなそんな感じって最近気づきました」
「変なのってそれだけですか」
榊さんがこんなことを、なぜ急に言いはじめたのか分からなかった。創作に関してのことだけなら、だいぶ前から変という表現はあっていないように思える。
「彼氏がいたんですけど、ああ、上野ちゃんに。別れちゃったんです。オカルトはもともと趣味だったんですけど、創作は別れてから始めて、すごく面白いですよ、上野ちゃんの」
話が何度も飛び飛びになる。それでも榊さんは何かを伝えようとしているとなんとなく分かった。だから黙って次の言葉を待っていた。
「そうだ、アマバタ様、部員の誰も知りませんでした」
出てくるなんて思ってもいなかったアマバタ様という言葉に、私は飛び上がりそうになった。
「それが、上野さんの変になったのと、どんな関係が?」
私は感情を押し殺して聞いた。榊さんは欄干に凭れた。
「その、上野ちゃんは創作するようになってから、いつも草稿を誰かに見せて批評してもらってたんです。大抵、あたしが。他の部員さんにも見せることはあったので、アマバタ様も誰かしらは知ってると思ってたんですけど」
「誰も知らなかったと」
「はい。なんかおかしいなって」
少しの沈黙。この話がどこに行き着くのか、私にはまるで分からなかった。
「事故の少し前から会ってもくれなくなったんです。それであたし、心配してたら事故って……そのあと宍戸さんたちが訪ねてきて、何かおかしなことに巻き込まれてたのかとも思ってたら、アマバタ様って」
私は早合点して、これは拍子抜けでよかった、こんなふうにこの話は着地するのだろうなと思った。
「変になったのは、彼氏とこじれた別れ方でもしたんですかね」
私は冗談めかして言った。榊さんは黙ったままだった。
「そうかもしれません。詳しくは知らなくて……聞けなくて。今日、意識が戻ったって聞いて、本当に嬉しかった。今でも浮き足立ってます。でも偶に冷静になって……もしかしたら、わざと事故に遭ったのかなって、ずっと考えてしまうんです。あたし気づけなかったのかなって」
「それって自殺かもしれないってことですか」
私は神妙に聞いた。こくりと榊さんは頷いた。
「でも、隠さずに自殺なら自殺未遂って教えてくれると思います。きっと思い過ごしなんです。けど……」
「……なぜ私に?」
「なんででしょうね。誰でもいいから話しておきたくなって、たまたま宍戸さんが隣にいたとしか」
少し傷ついてしまうようなことを榊さんは言った。
「上野さんとは本当に仲がいいんですね」
私は頑張って言った。
「はい、中学からの付き合いですから」
榊さんはグイーッと伸びをして、はぁと息を吐いた。
「なんかスッキリしました。全部、きっと思い過ごしなんです。分かってて悩んじゃうことってありますよね。変だって感じてたのも」
「なんとなく、分かります。」
清々しく言い切ると榊さんは行きましょ、と言った。私もついていった。
「よかったら、上野ちゃんに会えるってなったら一緒に来ますか?」
「えっと、どうしてですか」
「上野ちゃんにアマバタ様の続き聞かせてもらいましょう。どんなふうに物語が進んでいくのか、本人から聞くほうが楽しいですよ。なんで誰にも教えなかったのとか。物語を未完で終わらせた責任は取らせないと」
榊さんは一転、楽しげに祭りの夜にふさわしい顔で言った。
「それじゃあ、そのときはお願いします」
私も榊さんの話は思い過ごしなのだろうと思っていた。しかし、上野咲が変になったというのは事実であるのだろう。それが私の胸に引っかかっていた。けれども、そのおかしくなった上野咲と対面している榊さんが思い過ごしだと、あまり気にしていないのを見ると字面では重々しいが、そこまでのことではなかったのかもしれない。付き合いも長いようだ。細かなところが目にとまったとか、その程度だったのだろう。その件については、上野咲が目覚めてからしっかりと榊さんと話をすればいい。私の介入できる余地は全くない。
今、私の心はアマバタ様に少し心躍っていた。生殺しにされていた好奇心がここにきて、息を吹き返したようだった。激情のものではないが、しっかりと私の心の中にはアマバタ様に向いた矢印が存在していた。
「あぁ、いい、美味い、美味いよ」
橋を渡りきってすぐの土手の斜面から、聞き覚えのある声が聞こえた。一転、心の矢印はそちらに向く。向いてすぐ、なんだか分からないが警報が鳴った。私の頭で。
私は平静のふりをして、その声に気付かれないよう通り過ぎようとする。
「宍戸さん、出店を端から回るならここから降りていきませんか?」
「いや、えっと……」
何か巧い頓知をきかせろ。そう命令するも何も思いつかなかった。
「この声は……宍戸か!」
ガバッと見下ろす土手の斜面で影が動いた。ものすごい勢いで近づいてくる。影に濃淡が現れ、それは人の姿となって私たちの前に立った。
「やはり宍戸か! 彼女か?」
「違います」
浴衣を着て、長い金髪を結っている女性がそこにはいた。片手には缶麦酒ともう片手には焼き鳥があった。その声に道行く人は驚いている。上気していて、あからさまに酔っ払いだった。
「お久しぶりです。
祐未先輩は自治会の委員で、ことあるごとに様々な場所に出没していた。はっきり言って私の目から見ると仕事はしていない。自治会の肩書きを使って、歓迎会や打ち上げや反省会や会議やらに参加しては、場を呑み荒らしていた。つまりただ酒を好き放題に呑んでいた。
少しでも自治会が噛んでいると祐未先輩は出没した。酒乱ではないがいつまでも、夜が明けても勢いが衰えることがなく、水のようにあらゆる酒を呑み続ける。無尽蔵の胃袋と超合金の肝臓を持ち合わせていたのだった。それで困るのは会の主催で、祐未先輩が来襲したことによって会の予算が倍でオーバーしたこともあったという。
それだけではない。祐未先輩がいるとなんだか楽しくなってきて、自分までいくらでも呑める気になってくる。それで何人もの人がアルコールに呑まれていった。
実害としてはこんなもので幸い、祐未先輩が原因で急性アルコール中毒で病院に運ばれたものもいなかった。私の知る限りは。
あとはあるコンパで、参加者全員を祐未先輩は自らの瘴気にあて、たらふく酒精を取り込ませたことがあった。その帰り道、祐未先輩以外の全員が吐き、街の一角に吐瀉物と倒れ伏す人間のカオスな通りが出来上がったことがあるらしい。これに関しては噂の域を出ない。やりかねないとは私も思うが。眉唾だが、これを目撃した人によると「絵画にあんな構図のがあった気がする。多分、悪魔の絵だ」と言ったそうだ。当然、これも又聞きだ。
しかし祐未先輩が煙たがられているのかというとそうでもない。神出鬼没だが、酒を呑むなと言えば従順にセーブして呑んでくれる。祐未先輩に注意していれば瘴気にあてられることもない。なにより見てくれがいい。その男子人気は凄まじく、祐未先輩に酒を貢ぐことが生き甲斐になった男が一ヶ月もしないうちに破産したこともあった。これは事実だ。
それで私に実害があるのかと言えば否だ。会の主催もしないし、祐未先輩に初めてエンカウントしたときもすでに噂はかねがね、危機は回避できた。
しかし私はなぜか祐未先輩に気に入られてしまった。理由は分からない。初めて顔を合わせたのは新入生の歓迎会で、座敷の隅でぼけらと騒ぐ奴らを眺めていただけなのだが。思い返すと斜に構えたようで、自分にムカムカしてくる。伊丹が日下部くんを気に入ったような、よく分からない何かがあったのだろう。
祐未先輩は美人だ。これは公然の事実で県庁にも認められている。だから歓迎会で祐未先輩に酒を勧められたとき、思わず呑んでしまいそうに、そして呑みたくなってしまった。けれども私の生存本能はしっかりと祐未先輩は関わってはいけない、身を滅ぼすぞと警告してくれた。
それから酒の席で会うたびに、酒を勧められは断りを繰り返した。断って終わればいいが、いつからか面倒な絡みを延々とされたり、延々とデュエットさせられたり、祐未先輩の隣でお酌を延々とさせられたり、いいように使われた。断固として祐未先輩に呑まれないと決意していたが、ちょっとしたことが断れなかった。
元来、私は美人が苦手だった。形容しがたい凄みがあって、私を縮こまらせる。祐未先輩もその類だった。祐未先輩は何かと絡んできて、女性に耐性のない私は心揺れ動いたが美人が苦手ということもあって、本能が警報を出したのだろう。それに祐未先輩にそんな気が毛ほどもないのは分かっていて、それが虚しいのもあった。
私はいつしか、ただ酒の呑めるイベントには参加しなくなった。もちろん、祐未先輩がどうせいるからだ。祐未先輩は嫌いじゃないが、やはり苦手だった。しかし、もっと別の会い方をしたかった人でもある。例えば酒の席以外で。人生とは、かくも残酷なのである。
苦手でも、どれだけ迷惑な絡み酒をされても、浴衣姿の先輩に少し見蕩れた。呑まれる手前で正気に戻る。
「この方は?」
「どうも、酒呑童子って呼ばれてます!」
祐未先輩は榊さんの肩に腕を回して、呵々大笑と笑った。回した手の麦酒を呑もうとして、榊さんの首が締め上げられた。
「あ、ごめん」
「ごほ、ごほっ」
「大丈夫ですか? 榊さん」
私は祐未先輩を睨んだ。すると少しシュンとして、斜面に足を伸ばして、私たちに背を向けその場に座った。
「だい、じょうぶ、です」
「もう、駄目でしょ、先輩」
「ごめんってば」
祐未先輩はこちらを見なかった。拗ねているようだったが、気にはしない。これは祐未先輩に限らず、世界の酔っ払いカテゴリでカテゴライズできるタイプの一般的酔っ払いの生態だ。拗ねる酔っ払いは面倒だが、相手にしないと心に決めれば、そう面倒もない。
「こちらは祐未先輩です。有名人だから、聞いたことがあるかもしれませんけど」
私は祐未先輩の背を見ながら榊さんに紹介した。すると榊さんはああ、あの、と苦笑いした。
「座りたまえよ、君たち」
祐未先輩は土手の草をぽんぽん叩いた。避けてはいるが、別に祐未先輩に嫌がらせをしたいわけではない。だから会ってしまったなら、話くらいするのはやぶさかでない。
祐未先輩の隣に座る。これは私の隣に座る榊さんを守る意味もあった。
「あんたは?」
祐未先輩は榊さんの顔を覗いて言った。
「榊です」
短く、榊さんは答えた。剣呑な気もしたが、そうでないことを願った。
「君ら何回生だ」
「僕が三で榊さんが二です」
「はえー、わかい」
祐未先輩はグビグビ麦酒を呷って、最高と快哉をあげた。
「年齢じゃないでしょ、何回生って」
「ああー、けっこうな人数の地雷を踏んだね、今。知らんぞ、小僧」
笑い声がして、そのほうをふと見ると榊さんだった。
「仲がいいんですね、ふふ」
さっき言ったようなセリフを自分に返された。しかし恥ずかしくもならず、嫌悪感が背筋を走った。
「仲良くないですよ、榊さん」
「つれないなぁ、宍戸。お前も呑め!」
「先輩からの酒は呑まないと決めてるんです」
祐未先輩はええーと言って焼き鳥をしょんぼりして食べた。私は何人吐かせてきたんですか、と言っておいた。
「それで先輩は今何を? 卒業しましたっけ」
「うん、えとねー、院に入ったよ」
「へえ、頭いいんですね、祐未さん」
「そんなことないよ、榊ちゃん。えへへ」
祐未先輩が気持ち悪く笑った。
「先輩は誰かと来てたんですか」
「いんや、暇つぶし。憐れむなよ、一人酒にも一人宵の祭りも風情があるもんだ」
そんなセリフに少し私も大人の風情を感じたのもつかの間「これな、宵と酔いがかかってるんだよ、なぁ、巧いだろ? わたしは酔わないけど」とはしゃいだので台無しになった。
「そういや、伊丹ちゃんは?」
「向こう岸で、なにやら話してますよ」
「お酒恵んでもらおうと思ったのに。会いに行こうかな」
伊丹が祐未先輩と初めて出会ったとき、面白がって酒を祐未先輩に飲ませ続けた。ちょうどさっきの榊さんのときのように。そのときは祐未先輩が酔い潰れる前に伊丹の持ち合わせがなくなって伊丹の負けとなった。何をもって負けするかはしらないが、餌付けはそれで完了していた。
犬みたいな人とはよく言うが、本当に犬みたいだと少し憐れみたくもなる。
「よし、私は伊丹ちゃんに会ってくる。宍戸、またな! メール無視するなよなー」
祐未先輩はそう言って橋を駆けていった。下駄を履いていたようだったが、よく走れたものだ。
「宍戸さん。メールを返してあげないんですか?」
なんとなく感じていたが祐未先輩に対する態度を見られて、榊さんの中で私の株がどんどん暴落しているように思える。
「酔っ払いが送ってくる文言って読めるけど意味分からないんですよ」
榊さんはなぜか黙った。
「行きましょうか榊さん」
私たちは祐未先輩が座っていた斜面を気をつけて降りていった。
一番端にあったのは射的の屋台だった。私と榊さんで二回挑戦してキャラメルだけ取れた。榊さんは「キャラメルでお土産は寂しいですね。それに上野ちゃんはキャラメルが苦手ですし」と言ってキャラメルを食べはじめた。キャラメルを打ち落としたのは榊さんだ。それなのになぜキャラメルを狙ったのか。不思議だ。きっと自分が食べたかったに違いない。
胡散臭い色つき眼鏡の店主のくじ引き屋では、榊さんが拭き戻しを、私が緑のグレイっぽいお面を当てた。当たりなのかかどうかは甚だ疑問だが。
「これはお祭りっぽくてお土産にいいですね」
榊さんは満足そうに言った。そして鞄に拭き戻しをしまった。
私はお面を持て余し、榊さんにお土産の足しにと進呈した。短く礼を言われ、鞄にしまうのかと思うと榊さんはお面を斜めに、側頭部へお面の顔がくるように装着した。どことなく馬鹿っぽくて、様になっていた。
人混みの中に中島を見つけた。可愛らしい浴衣姿の彼女を連れていた。中島は自分たちのまわりに絶対不可侵の結界を張っていて、話しかけられなかった。あれが恋人のムードか。もしくは中島ないしは彼女が陰陽師であったか。
榊さんがスーパーボールすくいをしたいと言うので待っていた。隣でしゃがんで榊さんをすくいっぷりを見ていた。何の気なしに振り返ると、視界の端に笹保がいた。その傍らに誰かしらもいた。彼女かもしれない。そう思うが早いか、私は榊さんに待っていてくれと言って駆けだしていた。
笹保は小さいし、人混みのせいで見失ってしまうかとも思った。長身でいやに目立つ人がいて、目が引かれた。長身が笹保の傍らのその人だと気付くのにはそう時間はかからなかった。
「笹保。見つけたぞ」
私は二人の背に声をかける。二人は手を繋いでいて、小柄と長身が相まって、シルエットは捕まった宇宙人のように見えた。誇張していると言われるかもしれないが、身長差はそのくらい大きかった。
「やあ、宍戸君。胆試し以来だね」
笹保は白のワイシャツに紺の上着を羽織り、ジーンズを履いていた。全体的に小綺麗で、清潔感を纏っていると言っていい。
隣のおそらく彼女は、深緑と五分丈シャツをまくり二の腕をチラリと見せている。そして黒のハーフパンツから長いすらりとした足が伸びて純白のスニーカーに着地する。凜々しい顔立ちに、茶色の入った長い髪が風でなびいた。笹保には不釣り合いだと思った。
「この人は?」
笹保の彼女が言った。ぶっきらぼうに、心底興味はないが聞いておこうというような雰囲気だった。
「宍戸君だ。ほら、追っかけ時代に短い間だったけど一緒にいた。話さなかったっけ」
「ああ、あの宍戸君か」
笹保がどんなことを彼女に吹き込んだかは知らないが、恥ずかしい紹介を事前にされていそうで気が悪い。興味なさげだった彼女がこちらを物珍しそうな目で私を見ているからだ。
「宍戸と言います」
気を取り直して自己紹介をする。
「ん、ああ。南だ。よろしく」
「南さんとはお付き合いしていてね。僕らとは同い年だよ」
「歳をばらすのはどうなの。別に知れたことだけどさ」
「ごめんごめん」
世の中認めたくないことは数多くある。年の暮れに自分だけ取り残された気がすることとか、出掛けから帰ってきて財布を覗くと異様に減っていたり、もう三回生の夏なのに就職活動を微塵もしていなかったり、例は枚挙に暇がない。しかしその中でも最大級に認めがたいのは笹保に彼女がいることだ。認めたくないより前に俄に信じられない。本当に彼女なのか、騙されてないのか、笹保は女性のいない星のもとに生まれたのではなかったのか。
「へえ、南さんは笹保のどこが気に入ったんですか?」
私は出し抜けに失礼なことを聞いた。失礼だと分かって聞いた。ここまでしなければいけない理由が私にはある。ちゃちなプライドとかそんなものではない。笹保に彼女ができるというのは物理法則が狂ったようなもので、世界秩序が著しく乱れた結果とも言える。つまり、私にはこの目の前で繰り広げられている恋人ごっこかもしれない何かを見極める義務がある。
「南でいいよ。こっちも宍戸って呼ぶ。でもなあ、改めて言われるとなあ」
さっき笹保はさん付けで呼んでなかったか。なぜ私は呼び捨てでいいのだ。彼女と思っているのは笹保の側だけなのか。そうなのか。
「一途なとこっつうか、まあ、一緒にいて楽しいんだよ。……照れるな、何言わせんだ」
私は絶句した。これはまるで、惚気だ。まるでじゃない。モノホンの惚気だ。言わせんだって話したのはあんただ。さっきまで仏頂面だった南さんは伏し目がちに苦笑いを浮かべている。照れ隠しなのか。ムカつく前に少しドキッとした。
「笹保とはどこで知り合ったんですか」
屈してはならない。鳩尾に一発食らったがこれでノックアウトにはまだ早い。これなら根掘り葉掘り聞いてやる。
「まだ聞いてくんのか? 野次馬気質なのな」
「そりゃあ、笹保ですから」
「どういう意味だ?」
どうしようもない。目までやられているのか南。そう思ったが笹保の容姿は悪くないのだった。女性の気のない笹保の実情を知るのはもはや私だけなのだろう。
「まあいいや。バンドやっててさ、ウチが。そんでライブハウスで笹っちがバイトしててさ、それで付き合うことになった」
どういうわけだ。なんだ、笹っちって。
「アイドルのファンはお金が必要かかるからね。片端からバイトをしてたんだ。馴れ初めはそんな感じだよ、宍戸君」
笹保も要領の得ない説明しかしない。話を聞くことは諦めた。本当に彼女だ。世界が回りはじめたのだ。青天の霹靂だ。
「アイドル好きなら続けてもいいって言ったんだけどな、不誠実だからってやめたんだぜ。普通かも知んないけど、好感度高いよな」
笹保は遠いところへ行ってしまった。さようなら、笹保。ボンボヤージュ。
「あ、いた。宍戸さん、どうしたんです? 待っててくれってなんです。あれ、笹保さんでしたっけ」
「やあ、榊さん。宍戸君、僕の胆試しは功を奏したようだね」
私を心配してなのか榊さんが探しに来てくれた。しかし榊さんはスーパーボールの入ったビニール袋をいくつも提げていたので、そうでもないかもしれない。
笹保については、どんな意図で言っているのか知らないが殴りたくなった。ここで殴らないのが大人になるということだ。
榊さんと南さんは何か話している。盗み聞くつもりもないので笹保に話しかけた。
「笹保たちは文芸部のあれに参加するのか?」
「僕はパスです。気合い入ってるみたいだし、軽い気持ちではね」
笹保の言うとおりだった。この場合、相手に失礼だとかそういう意味でなく、単純に気力の問題だ。大きなことをやろうとしているのは、私も皆川から少なからず感じ取っていた。しかしそう気付いたのは申し込んだあとだった。取り消しもできただろうが皆川の手前、それこそ不誠実で失礼ではないか。
逃げ道は断たれていたのだった。少しの好奇心を後悔することになるのはしょっちゅうだ。この前の胆試しもそうだった。
「何の話?」
南さんが笹保に聞いた。簡潔に笹保は文芸部が企てている何かの説明をした。
「へえ」
「わたしは申し込みました。あれって集合場所とかも決まってましたっけ」
「それなら文芸部の友人が、想定より人が集まりそうだから大学の中庭に朝の九時集合って言ってました。掲示板に告知されてたみたいですよ」
友人とは皆川のことで、一応と連絡が来ていた。この三日、皆川とは会っていない。いよいよ準備も大詰めらしく、忙しくしているようだ。暇だったが大学には行っていなかったので、私も集合場所など知らなかった。ありがたいような、本当に逃げ道を塞がれてしまったような、そんな連絡だった。
「一体何をするんでしょうね」
榊さんが無邪気に言った。
「考えたくはないですね。あんまり」
間が開いたあと、なんとなくみんなで笑った。
「楽しみじゃないことはないですけど」
ここにいない皆川をフォローするように付け足した。
笹保たちとは別れて、また祭りの喧騒の中を歩きだした。舞台ではカラオケ大会をしていた。下手でしょうがないが愛嬌のある歌い方の少女が歓声を受けていた。
「かわいい」
屋台の間から舞台のほうを見て榊さんが言った。
相づちを打つ。しかし私の耳から、彼女の歌声も、喧騒も、榊さんの声も、私の声も遠ざかって聞こえていなかった。
道行く人と人の間隙にいつか見た、その後ろ姿があった。短い黒髪が風で揺れた。あれは上野咲だ。するりするりと人混みを魚みたいに、悠々と泳いでいって遠ざかっていく。
「待って、待ってください!」
気づけば私はその影を追いかけていた。人にぶつかり、割り込み、突き飛ばされながら、縮まらない距離をキープする。
いつの間にかあたりは暗く、河川敷を上流へと遡行して祭りからはだいぶ離れていた。短い草に足を搦め取られるようで、とても走りにくく、体力を削られるようだった。振り返ると祭り火が小さく揺らいでいた。
「上野っ、上野さんっ! どこ行くんです!」
息が詰まって走れなくなる。去り行く上野咲を睨むことしかできない。振り絞った声も上野咲に届かないようだった。
突如、視線の先、上野咲がいるあたりが幽かに明るくなった。月をぼかしていた雲が流れたらしかった。
上野咲は立ち止まる。息が切れている様子はまるで覗えなかった。
立ち止まっているのに私の息はどんどん苦しくなり、視界がぼやけてくる。
意識が朦朧とするなか、上野咲が振り向いたように見えた。意識の霧の中で、微笑んだように見えた。
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